ずっとPCを起動しなかったため、ブログ、mixiとも留守にして申し訳ありませんでした。
2月18日 1時23分に父が亡くなりました。
23日に通夜、24日に告別式と間が空いてしまいましたが、無事父を送り出す事が出来ました。
私の知人には本当に親しくして頂いている方4人にだけお知らせしたのですが、4人とも来て下さってとても感謝しています。この場を借りて改めてお礼申し上げます。
以前、父の病状について、一度だけ愚痴を含めた記事を書かせて頂いた事があったので、目にしてしまった方もおられるかと思いましたので、ちゃんと報告させて頂こうと思い今回のブログを書かせて頂きます。
父の病気はB型肝炎から来る肝臓がんでした。
もともとの原因はわからないのですが、30歳の時の会社の健康診断でキャリアである事が発覚して、それからずっと治療していました。
しかしB型肝炎の治療法は確立していないので、手探りながら、本当に色々な治療をしてきました。
爆弾を抱えながらもずっと仕事は続けていたのですが、10年くらい前に会社からストップが出て4年くらい休職。
その後は復帰しては休職の繰り返しで、その間に肝臓は肝硬変になり、やがてガンが出来てきました。
ここ数年は癌が出来たら、癌直接に針を刺してそこからアルコールを流して癌を散らすと言う治療を何度も何度もやってはガンが出来ての繰り返しでした。
そのうち食道静脈瘤や、別の病気も併発するようになり、針で散らす権威の先生に治療してもらうため、毎回九州までいっていたのですが、その先生からも、去年でこの癌はもう治療が出来ないといわれ、この先はもうガンが破裂するか、肝臓が機能しないから、アンモニアが分解されなくて頭に回っておかしくなって息を引き取るかどちらかと宣告されました。
3年ほど前にも他の先生から『もってあと3年』と言われていたのに、父は健康な人と変わらない生活で、相当苦しいはずなのに、そんな姿を微塵も感じさせなかったので、3年といわれた事すら忘れるほどでした。
去年の年末から急に体調を崩しだし、毎日高熱を出しては入院の繰り返しでした。
それでも、年は越せないといわれていたのに、2月まで本当に頑張ってくれたと思います。
最後の入院中も『こんな数値で動けるのは信じられない』といわれるほどの数値だったのに、昏睡状態になる直前までは自力でトイレに行ったりしていました。
父には最後まで本当の事を隠していたので、先生達と口裏を合わせて、ひたかくしにしていましたが、どんどん悪くなるのでわからないはずないですよね・・・
昏睡状態になる前は、モルヒネで痛みをとっていたので、幻覚を見るようになってきて、もう何をいっているのかわからない状態でしたが、母しかいない時に一瞬覚醒して、『なんか変な薬を入れられてる!俺は死なないぞ!!』という言葉が最後になってしまいました。
その言葉を後できいた時に、自分達のしてきた事が果たして正しかったのか・・・今でも悩んでいます。
自分の事なのに何も知らないまま、本人は退院する気だったので、友達達にも会社の方にも会えないままいってしまいました。
5日ほど昏睡状態ででも痛いのか眠り続けながらも、痛い意思表示だけはしっかりして、目も一生懸命あけようとしているかのように動き続けていました。
延命処置は医師からしても同じだからしないといわれていたので、点滴と酸素だけでした。
最後の二日は尿も出なくなって、尿がでなくなったら48時間で・・・といわれていたので、その通り、2日ほどで息を引き取りました。
点滴はずっと入れっぱなしなのに尿がでないから、顔も体も足もパンパンで、黄疸で全身まっ黄色で、もう別人のようでした。
夜中だったため、ナースコールを押しても来てもらえなくて、きても何も出来ないから、血圧だけ計って、『○○です』とどんどん下がり続ける血圧を言っていくだけでした。
どんどん手足が冷たくなっていき、息も浅く、肺に水が溜まって苦しそうだった最後の2時間は本当に時間が長く感じられました。
最後息を引き取る時には、もう誰も来てくれなくて、家族3人で看取りました。
夜中だし、看護婦さんの手が足りない事、父には何も処置が出来ない事はわかっていたので、責める気持ちはありませんが、母がその瞬間『呼んでもなんで来てくれなかったのですか!』と言った一言が今でも頭に残っています。
そんな事を普通だったら言わない温厚な人だけに、1ヶ月殆ど寝ないで付き添っていた母の想いのすべてだったと思います。
斎場は父の仕事場の近くで飛行機がよく見える場所にしたかったので、順番待ちで随分日にちがたってからになってしまいました。
その間、斎場の中の冷凍室みたいなところに入れられっぱなしだった父に、本当に可哀想で申し訳ない事をしてしまったと思います・・・
葬儀は日比谷花壇さんにお願いしたので、お花やさんらしく、素敵で立派な祭壇にして頂けました。
白いお花だけを使って、アーチ状に敷き詰めて、翼を模して作ってもらい、背景にブルーのライトを当てて、空を飛んでいるようにして頂きました。
父の職場の同期の方、大阪と東京両方所属していたので、大阪の方も来て頂いて、現在は部署が変わっていたので、そちらの同僚の方も沢山きて頂きました。
パイロットとしては復帰は出来なかったのですが、それでも父を必要としてくれた部署の方々の配慮で、教官として復帰して、トレーニングを終えて、これからというところでした。
最後の方は、土日に必ず熱を出しながらも、月曜日には絶対仕事に行くと言う生活でした。
子供の頃から、人一倍勉強している姿を見ていて、『大人になってもこんなに勉強しないといけないなんて嫌だな~』と思ってしまったほど、家で勉強していました。
あんな体でも、最後まで仕事をやり続けて、本当に立派で自慢な父親だと思います。
喧嘩をしたら、2ヶ月くらい口もきいてもらえないくらい頑固で、肥後もっこすで、自分ルール全開で、我侭で、王様みたいな振る舞いで、時にはうるさいやつだ!とも思った事はありました。
でも、この年になっても二人で旅行したり、ご飯食べたり映画を見たり、仲の良い時はべったりで・・・
私にとっては、父親、喧嘩友達、恋人、全部失った感じです・・・
10日たちましたがまだ現実の世界ではないみたいで、自分自身も普通に生活している自分を違う自分が上から見下ろしているような、ふわふわした感じでいます。
昨日から仕事にも出ました。
もともと泊まりの多い仕事だったし、入院で何ヶ月も九州にいっていたので会えない時間も多々あったので、まだ父がいない事に現実味を帯びていなかったりします。
とりあえず毎日誰かしらお参りに来て下さっているので、そういう点では忙しくしているので深く考える時間はないですが、夜はやっぱりちょっと嫌な感じです。
他人を絶対家に入れたくなかった父なのに、その父のために毎日人が出入りして、家に花を置くと怒っていたのに、お供えの花があったり、
生前、冗談で『もし俺が死んだら祭壇は上の事務所に置け。家に置くと臭くなるから駄目だ』とかいってたのに、和室に置いているので、さぞ怒っていることでしょう(苦笑
俺ルールが多かったのに、自分が先にいくからでしょ!と母と毎日小言を父にぶつけているので、居た堪れなくなった早く空に登っていくかもしれません。
とりあえず元気なのでご安心下さい。
また徐々にブログも復帰していくと思いますので、その時は温かく迎えて下さいm(__)m
2月18日 1時23分に父が亡くなりました。
23日に通夜、24日に告別式と間が空いてしまいましたが、無事父を送り出す事が出来ました。
私の知人には本当に親しくして頂いている方4人にだけお知らせしたのですが、4人とも来て下さってとても感謝しています。この場を借りて改めてお礼申し上げます。
以前、父の病状について、一度だけ愚痴を含めた記事を書かせて頂いた事があったので、目にしてしまった方もおられるかと思いましたので、ちゃんと報告させて頂こうと思い今回のブログを書かせて頂きます。
父の病気はB型肝炎から来る肝臓がんでした。
もともとの原因はわからないのですが、30歳の時の会社の健康診断でキャリアである事が発覚して、それからずっと治療していました。
しかしB型肝炎の治療法は確立していないので、手探りながら、本当に色々な治療をしてきました。
爆弾を抱えながらもずっと仕事は続けていたのですが、10年くらい前に会社からストップが出て4年くらい休職。
その後は復帰しては休職の繰り返しで、その間に肝臓は肝硬変になり、やがてガンが出来てきました。
ここ数年は癌が出来たら、癌直接に針を刺してそこからアルコールを流して癌を散らすと言う治療を何度も何度もやってはガンが出来ての繰り返しでした。
そのうち食道静脈瘤や、別の病気も併発するようになり、針で散らす権威の先生に治療してもらうため、毎回九州までいっていたのですが、その先生からも、去年でこの癌はもう治療が出来ないといわれ、この先はもうガンが破裂するか、肝臓が機能しないから、アンモニアが分解されなくて頭に回っておかしくなって息を引き取るかどちらかと宣告されました。
3年ほど前にも他の先生から『もってあと3年』と言われていたのに、父は健康な人と変わらない生活で、相当苦しいはずなのに、そんな姿を微塵も感じさせなかったので、3年といわれた事すら忘れるほどでした。
去年の年末から急に体調を崩しだし、毎日高熱を出しては入院の繰り返しでした。
それでも、年は越せないといわれていたのに、2月まで本当に頑張ってくれたと思います。
最後の入院中も『こんな数値で動けるのは信じられない』といわれるほどの数値だったのに、昏睡状態になる直前までは自力でトイレに行ったりしていました。
父には最後まで本当の事を隠していたので、先生達と口裏を合わせて、ひたかくしにしていましたが、どんどん悪くなるのでわからないはずないですよね・・・
昏睡状態になる前は、モルヒネで痛みをとっていたので、幻覚を見るようになってきて、もう何をいっているのかわからない状態でしたが、母しかいない時に一瞬覚醒して、『なんか変な薬を入れられてる!俺は死なないぞ!!』という言葉が最後になってしまいました。
その言葉を後できいた時に、自分達のしてきた事が果たして正しかったのか・・・今でも悩んでいます。
自分の事なのに何も知らないまま、本人は退院する気だったので、友達達にも会社の方にも会えないままいってしまいました。
5日ほど昏睡状態ででも痛いのか眠り続けながらも、痛い意思表示だけはしっかりして、目も一生懸命あけようとしているかのように動き続けていました。
延命処置は医師からしても同じだからしないといわれていたので、点滴と酸素だけでした。
最後の二日は尿も出なくなって、尿がでなくなったら48時間で・・・といわれていたので、その通り、2日ほどで息を引き取りました。
点滴はずっと入れっぱなしなのに尿がでないから、顔も体も足もパンパンで、黄疸で全身まっ黄色で、もう別人のようでした。
夜中だったため、ナースコールを押しても来てもらえなくて、きても何も出来ないから、血圧だけ計って、『○○です』とどんどん下がり続ける血圧を言っていくだけでした。
どんどん手足が冷たくなっていき、息も浅く、肺に水が溜まって苦しそうだった最後の2時間は本当に時間が長く感じられました。
最後息を引き取る時には、もう誰も来てくれなくて、家族3人で看取りました。
夜中だし、看護婦さんの手が足りない事、父には何も処置が出来ない事はわかっていたので、責める気持ちはありませんが、母がその瞬間『呼んでもなんで来てくれなかったのですか!』と言った一言が今でも頭に残っています。
そんな事を普通だったら言わない温厚な人だけに、1ヶ月殆ど寝ないで付き添っていた母の想いのすべてだったと思います。
斎場は父の仕事場の近くで飛行機がよく見える場所にしたかったので、順番待ちで随分日にちがたってからになってしまいました。
その間、斎場の中の冷凍室みたいなところに入れられっぱなしだった父に、本当に可哀想で申し訳ない事をしてしまったと思います・・・
葬儀は日比谷花壇さんにお願いしたので、お花やさんらしく、素敵で立派な祭壇にして頂けました。
白いお花だけを使って、アーチ状に敷き詰めて、翼を模して作ってもらい、背景にブルーのライトを当てて、空を飛んでいるようにして頂きました。
父の職場の同期の方、大阪と東京両方所属していたので、大阪の方も来て頂いて、現在は部署が変わっていたので、そちらの同僚の方も沢山きて頂きました。
パイロットとしては復帰は出来なかったのですが、それでも父を必要としてくれた部署の方々の配慮で、教官として復帰して、トレーニングを終えて、これからというところでした。
最後の方は、土日に必ず熱を出しながらも、月曜日には絶対仕事に行くと言う生活でした。
子供の頃から、人一倍勉強している姿を見ていて、『大人になってもこんなに勉強しないといけないなんて嫌だな~』と思ってしまったほど、家で勉強していました。
あんな体でも、最後まで仕事をやり続けて、本当に立派で自慢な父親だと思います。
喧嘩をしたら、2ヶ月くらい口もきいてもらえないくらい頑固で、肥後もっこすで、自分ルール全開で、我侭で、王様みたいな振る舞いで、時にはうるさいやつだ!とも思った事はありました。
でも、この年になっても二人で旅行したり、ご飯食べたり映画を見たり、仲の良い時はべったりで・・・
私にとっては、父親、喧嘩友達、恋人、全部失った感じです・・・
10日たちましたがまだ現実の世界ではないみたいで、自分自身も普通に生活している自分を違う自分が上から見下ろしているような、ふわふわした感じでいます。
昨日から仕事にも出ました。
もともと泊まりの多い仕事だったし、入院で何ヶ月も九州にいっていたので会えない時間も多々あったので、まだ父がいない事に現実味を帯びていなかったりします。
とりあえず毎日誰かしらお参りに来て下さっているので、そういう点では忙しくしているので深く考える時間はないですが、夜はやっぱりちょっと嫌な感じです。
他人を絶対家に入れたくなかった父なのに、その父のために毎日人が出入りして、家に花を置くと怒っていたのに、お供えの花があったり、
生前、冗談で『もし俺が死んだら祭壇は上の事務所に置け。家に置くと臭くなるから駄目だ』とかいってたのに、和室に置いているので、さぞ怒っていることでしょう(苦笑
俺ルールが多かったのに、自分が先にいくからでしょ!と母と毎日小言を父にぶつけているので、居た堪れなくなった早く空に登っていくかもしれません。
とりあえず元気なのでご安心下さい。
また徐々にブログも復帰していくと思いますので、その時は温かく迎えて下さいm(__)m