_信盛が一向宗と粘り強く戦線を維持した事で、織田信長は外交で上手く矛を収める事が叶ったのは間違いない。
_羽柴秀吉が柴田勝家との北陸で戦線離脱したのは、金銭的な問題もあった事でしょう。
信長の四男である秀勝を養子として迎い入れたのも、より借り入れをスムーズにさせるためであったかと。
秀吉の借金に、織田家の保証が乗る訳なので…………。
_その視点で考えると時流を見分けながら、11年間も戦線を構築し続けた名プロデューサーが信盛だったと言えます。
身内で固め、ヘッドハンティング等しなくとも組織を構築出来てました。
人を育てるのに秀でてたり、尾張に元々良質な人材が多かった事も影響してそうです。
_大内義隆が文化的繁栄を目指した姿勢と、通じるものがあります。
_天下布武とした信長からすると、対立する路線に映ったのかもしれません。
信長は陶晴賢の様な行動を起こした訳であり、裏で毛利家の謀略が予想されます。
勿論、歴史を知る我々は?
毛利輝元が文化的繁栄を好みそうな人物である事を、知ってます。
そもそも毛利家には、北条家の様な長期戦を継続する経済力はありません。
信盛と輝元の馬が合う事で、血みどろの争いにならなかった面もあるかと考えます。
適材適所で信盛は、仕事を果たした事は間違い無いのです。
_では、どうして筆頭家老の座を信盛は追われる事になったか?
尾張商人と長年培った経済力を、信長は世襲させる事を許さなかったのかもしれません。
また、尾張という力が結集した地から安土へとパワーバランスをシフトさせていく目論見が信長政権自体に存在していたのでしょう。
_結局、プロデューサーを切った事で信長政権自体が瓦解した事。
これは、カリスマを持って生まれた信長からすれば?
理解に苦しむ点なのかもしれません。
しかし、信長政権の構築そのものに問題があり?
継承した信秀の組織が不可欠であったにも関わらず、排除へと動きました。
_信秀の位牌へを抹香を投げつけた、一瞬の行動力としての信長。
対して長いスパンで持って、信秀が構築した家臣団の中から生み出された。
その組織が、最後まで信長を支えていたという証明にもなりますよね。
パフォーマンスであったが故に内紛となりましたが、弟の信行自体も優秀ならば?
信長は使いこなして欲しいところでした。
_信長の自信の無さを、やみくもな行動力と計算高さで切り盛りするのも限界がありました。
家臣団の離散があるのは、本当にその一点に尽きると思います。
2023/06/15 23:06 修整及び加筆