冬だって夏だって、季節に関係なくこの曲を聞くが、やはり曲名にも影響されるのか、春になると「あぁ、聞きたい!」という思いは募る。
ベートーベンのバイオリンソナタ第5番 ヘ長調 「春」である。
手元にある講談社学術文庫「クラシック音楽鑑賞事典」では次のように紹介している。
「バイオリンソナタのうち最も明るく朗らかな曲で、『スプリング』の名にふさわしく、春風のどかにたなびき、草花の美しく咲く春を思わせる。嫋嫋(じょうじょう)として掬(きく)すべき情緒は『田園交響曲』や『第八交響曲』の一片に似ている」
「嫋嫋」という古めかしい言葉の意味は「音や声が細く長く続くさま」であり、「しなやかで優しい」というような意味も含むそうだ。
「掬す」は「手のひらですくいあげる」という意味だから、鑑賞事典の説明は「春を思わせるような、しなやかで優しくどこまでも続く曲想は」というような意味だろうと思う。
これが交響曲第6番や8番に似ているというのだが、言われてみればその通りで、6番の「田園」とはイメージの重なる部分が確かにある。
「春」が1801年の作曲に対して「田園」は1808年の作曲だから、「春」が先にあって「田園」の下敷きの一部になったとも考えられる。
ボクはベートーベンの交響曲では6番と7番が特に好きでよく聞くのだが、あの6番を作る時の構想の一部に「春」が存在したであろうという一事をもってしても、「春」の存在に納得するのである。
加えてこの「春」を特別な曲にした事情があるのだ。
今を遡ること17年前の春、ボクは青天の霹靂のごとくに脳の中に大きな動脈瘤があることが分かり、放っておけば死に至る重大事を招く可能性が極めて高いと宣告されたのである。
それを回避するには開頭手術が必要だとも聞かされた。
病気自体の重大さに加えて、頭の骨を開いて脳ミソをかきわけ、表面を走っている血管にクリップを施して血流を正常にするという手術のおぞましさに怖気づいてしまったのだ。
母親を同じ病で亡くしているボクには時間の問題のようにも思われたのだが、なかなか決心がつかなくて、しばらく悶々としたのだが、そのとき一人になって考えている時に聞いていたのが「春」なのである。
この曲が一番気に障らなかったのだ。それこそ嫋嫋としていたからだろうと、今にして思う。
揺れる心、不安な心を受け止めてくれたというのか、この曲を聞くと心が静まったのである。
2000年6月1日、清水の舞台から飛び降りて手術台に上がり、「心配しなくていいよ。医者がこんなこと言っちゃいけないけれど100%安心していていいよ」と言ってくれた執刀医のK先生の言葉通り、8時間もの手術を終えて集中治療室に戻って麻酔から覚めた時、K先生が「右手、上にあげられますか?」「左手は?」「じゃ次は右足はどお?、左は?」という指示通りに四肢が動き、どこにも障害がなく生還できたことを知った時には、涙がこぼれそうになった。
この後、枕元に置いたカセットラジオで「春」を流してもらって以降は、退院までの3、4日は凱旋曲のごとく、晴れ晴れとした思いで聞いていたんである。
かくして最初は葬送曲のごとく、そしてついには凱旋曲のごとく寄り添ってくれたのが「春」というバイオリンソナタであり、ボクにとってかけがえのない曲なのである。
春めくわが家
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事