「年のとりかたは人さまざま。でもよりよく老いる道すじを選びたい。限られた時間の中で、いかに充実した人生を過ごすかを探る18編の名文。来るべき日にむけて考えるヒントになるエッセイ集」という裏表紙に書かれた誘い文句に魅かれて読み始めた。
もとより、わが身自身に「老い」を実感しているからではない。
わが身に関して言えば、主治医の下で2カ月おきに実施している血液検査の数値は軒並み現役時代に比べて改善されており、青年期の健康優良児的な数値とは比べ物にならないが、それなりに安定し、主治医からも「お酒はほどほどに」と言われる程度で、これは一種の医者の沽券のようなセリフだと思っていて、それ以外、特段の注文は付かない範囲に収まっているのである。
風呂に入って鏡に裸を写してみれば、しょっちゅう自転車を漕いでいるせいか、太腿の内側の筋肉が以前より付いてきて、サッカーボールを蹴っていた青春時代の太腿には及ばないものの、いっそあの頃の太腿を取り戻してやるか、と挑戦心が芽生えてくるほどである。
尻にしたって、重力に負けかけてあわや垂れそうになっていたものが、やはり日常的に動かすことによって張りを取り戻したやに見える。
誰に見せるわけでもないが、尻というのは垂れているよりキュンと上がっているほうがよりセクシーなのである。
わが肉体は「老い」どころか、復活しつつあるのだ。正確に言うと、抵抗を試み、たまたまその努力は今のところ無駄にはなっていない、というべき程度のことだが…。
もとより、まなじりを決して取り組んでいるわけでもない。
できればかくありたい、と願っているだけだから、気楽な抵抗なんである。気が向いたときだけのルーズな抵抗である。当分、このプロセスを楽しむつもりである。
この抵抗に一定の力を注ぐためには、冬の寒さは歓迎しない。はっきり言って寒さは邪魔である。
汗をかきながらやる方が気持ちがよろしい。その結果、肉体の強化というご褒美に加えて、精神の開放というおまけも付いてくるのである。
人生の秋に季節の春を待ち焦れる所以である。
さて、アンソロジーはまだ読みかけだが、どれも目から鱗で、へぇ~、とか、ほぉ~、などといちいち感嘆符が飛び出してくる。
鮎川信夫の「最晩期の斎藤茂吉」にも教えられた。そこに掲げられている「へぇ~」な歌の一部を引用しておく。
わが色欲いまだ微かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり
一様(ひとざま)のごとくにてもありヴアリエテの如くにてもあり人の死ゆくは
朝飯(あさいひ)をすまししのちに臥処(ふしど)にてまた眠りけりものも言わずに
おとろへしわれの体を愛(は)しとおもふはやことわりも無くなり果てつ
いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも
大歌人も自然そのものと化して行くのである。
図らずもこの本を手にしたこと自体がそうなのだが、編者も勧めるように、「未知の領域」に向けて準備体操を始めようという気になってきた。
鎌倉駅の地下自由通路に掲示されている昭和29年の航空写真。画面中央のわが家辺りは山林だったことが分かる。
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