平方録

書棚を整理するということ

所詮は労働市場の中のちっぽけなコマの一つに過ぎなかったわけだが、そこでの悪戦苦闘にピリオドを打ったのが2014年6月だった。

この労働市場からの撤退という節目に際してボクが最初にやったのは書斎をはじめとするわがテリトリー内の整理整頓であった。
今は断捨離という言葉が使われることも多いようだが、ボクの場合は特にそういう意識というより、ともかく書棚からあふれてあちこちに山積みになっていた本の山をきれいにして書斎を快適な空間に戻すということを目論んだのだ。
しかし、これが案外曲者なのだ。

本棚の整理というのは、やったことのある人ならだれでもそうだと思うのだが、あれは右から左にわき目もふらずに超事務的にやらなければ、とてもはかどる作業ではない。
表紙に目を落としただけで第一関門にひっかかってしまう訳で、そうなるとページを開かなくては気が済まなくなり、いったん開いてしまうと、どこかの部分の活字に目が止まり、そうなるとしばらくは活字の列を追うことになる。
すぐに止められればいいが、新たな発見でもしようものならそのままその本を読み進まなければ済まなくなってしまう。

整理整頓に手を付けてものの5分も経っていないようなうちからそんな事態になってしまうとこれはもう万事休すで、もうその日は整理は止めて宝探しのように懐かしかったり印象に残った本を探したりで、1日が暮れて行ってしまうのである。
そしてもう一つ厄介なのが「積読」にしておいた本たちの存在である。
買ったのはいいが1ページも読まないまま積んでおいただけの本なのだが、これが年月を経て蛇がカマ首をもたげるように「読んでよ」と頭をもたげてきたりするのである。
で、ページを開いてみると案外面白くって、なんでこんな面白そうなものを今の今まで放りっ放しにしておいたんだろう、などと腰を据えることになってしまう。

畢竟、書棚に収まっている本というものはその1冊1冊にそれなりの理由と思い入れがあるわけで整理するとなるとそれなりの別れの儀式が必要なのだ。
極端な話、1冊1冊と思い出を語り合い、きちんとお別れの挨拶を交わさなければいけないのだ。礼儀は正しくしておかなければならない。それが紳士というものなのだ。
書棚には数百冊が並んでその順番を待っている!

で、とにもかくにも節目に立っているのだという自覚の下、数日掛けて書棚に完全な空きスペースができるまで整理を終えたんである。
それからまだ3年しか経っていない。
もう書棚は元の書棚内戻ってしまっているのだ。
出来るだけ買うのは止めようと思っているのだが、増え続けているのである。

しかも読書速度というものが自分でもはっきりわかるくらいに落ちてきているから1冊を読み切るのに時間がかかるようになってきた。
まず30分も活字を追っていると飽きてきてしまうのだからムベなるかなである。
ジジイになるとしつこくて嫌われるくせに根気というものは失せてしまうものらしい。「積読」もまた増える一方なのである。
そういう典型的な症状が現れているようだから、なおさら始末が悪いのだ。

今また書棚の前で長歎息しているボクがいる。
「なんてこった! 」



円覚寺の山門を左に折れるといくつかの塔頭があり、そのうちの一つの手入れされていないような庭の伸び放題のウメがぼわぁ~っと白い霞のようになっていて、これもまた一幅の絵を見るようである


こちらは門の外から見た富陽庵のウメ


この立派なウメの大木は円覚寺の門前を線路沿いに鎌倉駅方面に寄ったところの民家のもの
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