毎朝、起き抜けに淹れているほうじ茶にキンカンを甘く煮たものを入れてみた。
ご近所からいただいたキンカンで、今年は見たこともない豊作だということだった。
出来上がったものを口にしてみると、野趣に富んだ甘さの中にきりっとした酸っぱさがあって、これまでに感じたことのない味わいと言っていい。
洗練された高級和菓子に漂うような上品な甘さとは違って"自然をもぎ取ってそのまま煮てみました"という風情なのが素朴で、洗練とは対極にあるところがかえって好ましい。
そう思うのは、ほろ苦い思い出ばかりだった思春期を過ごしたせいで味わい損ねた"青春の甘酸っぱい味"というものが、ひょっとするとこういう味なのかもしれないという、一種の未知のものに対するあこがれを呼ぶからだと思う。
実はこの時まで、キンカンという柑橘を十分に味わったことが一度もなかった。
記憶をたどれば、道路沿いに庭から飛び出したよそ様のキンカンを、枝先からひと粒二粒失敬してかじったくらいである。
そういう時に味わえるのは、強烈な酸っぱさと後に残る強烈な苦さだけで、また食べたいなどとはついぞ思わなかった。
今回改めて向き合ってみると、自然をもぎ取って新鮮なうちに煮詰めた感じが、キンカンが本来持っている独特の風味と合わさって、なんだか体に良さそうな滋養たっぷりの食べ物に変身しているようにさえ感じられる。
特別に美味しいというわけでもないが、何となく振り返ってみたくなるようなたたずまいの美人、といったところか。
ところで、ほうじ茶を飲み干した後に残ったキンカンをかじってみると、皮に残っていた苦みが口の中一杯に広がる。
青春の甘酸っぱい味というのも、やはり苦みを伴うものなのだろうか…
近所の寺の境内風景