平方録

脳を断食させる、って知ってる?

「脳断食」っていうんだそうだ。

市民権を得ている言葉ではないらしいが、一部の臨済宗の坊さんが坐禅をより広く知ってもらい、実際に参加を呼び掛けるための誘い文句として使い始めたらしいのだ。
肌を休ませるためにメイクもスキンケアもしないことを〝肌断食〟っていうそうだから、この際、こんがらがった世の中に暮らしている現代人たちが心を静め、頭を休めるために何も考えない時間を持つことを「脳断食」と言ってもいいだろうということらしい。
特に若者への普及・啓発を意識した言葉のようである。

断食ってなんか体に良さそう、効きそうそういうイメージが最近の若者の間にはあるんだそうな。
だから、政治的なことになど全く関心を持たない連中でも、自分自身の体のことになると暇やそこそこのカネとエネルギーも注ぎ込むそうだから、断食って単語がくっつけば抵抗も少ないだろうと踏んだわけだ。
おまけに高級エステやジムに通うのと違って坐禅はただじっと座っていればいいだけだからカネは一銭もかからない。
今時のビンボーな若者にはうってつけなのだ。

そう! 来し方を振り返れば何を隠そうボクだって坐禅に魅かれ、円覚寺の門をくぐったのは18歳になる直前の高校3年生の夏だったのだ。
ざわついてしまってどうにもならなくなってしまった心を何とか落ち着けようと、鈴木大拙の著作などをかじっていたボクは迷わず円覚寺を選択したんである。
長時間座るのだから足は痛いし、蚊が飛んできて鼻の頭に止まって血を吸い始めても払うことも叩き潰すことも出来ない。
粥と沢庵だけの食事で腹が減って仕方なかったけれど、そこでの10日間で心のモヤモヤも随分と治まったし、忘れられない経験となったのである。
その時の忘れ難い体験が身に染みているからだろう。退職して時間に余裕の出た今、日曜日の朝の坐禅会に足を運び始めて3年が過ぎたのだ。

今もまだ近くに座っている若い女性のふくらはぎの白さが目に沁みたり、白さだけじゃない肉付きのことも頭に浮かんできたりと散々なのだが、そういう心だってやがては静まっていくものなのだ。
ただひたすら坐っているだけ、というのも案外出来そうでいてなかなか一人ではやれないことなのだ。
それを一度体験してみる。特段厳粛にならなくてもいいから、雰囲気を味わうだけでも寺と言うところに行って座ってみる意義は小さくない。
それが「脳断食」って呼ばれる所作振舞いなら、最先端の流行に身を置くようで、今はやりの言葉で言えば「おっしゃれ~」なんじゃないの。
ボクは薦めますね。

先輩面して一つ注意点を指摘しておこう。
「脳断食」というのは「心を整えるために意図して自ら行うもの」に対して、「断食脳」というものがある。
この「断食脳」というのは「耳を傾けるべき他人の意見を寄せ付けず、それ故カラッポになってしまった脳」のことで、永田町に行くとこういう人たちばかりである。
わけてもアベなんちゃらとその一味に顕著な病理としてはびこっているのだ。
くれぐれも感染しないようにしないといけない。
予防策としては断食の前に脳を置くのか、それとも断食の後に置くのかを良くわきまえることで、くれぐれも脳を置く場所を間違わないように注意すること!







ざわつく心もやがては静まる(七里ヶ浜の西端、小動岬脇の浜から)


太陽に向かって一羽のトンビが飛んで行く(腰越漁港から)
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