知らなかったが、新しく必履修科目になった高校の「現代の国語」を巡って物議が醸されているそうだ。
文部科学省が定める学習指導要領に「文学的な文章は除く」とあるのを無視して文学作品を載せて作成された教科書が、なぜか検定をパスしてしまったことから、教科書選定を担う各地の教育委員会の一部から文科省あてに問い合わせが来たり、ライバル会社が「指導要領違反ではないのか」と疑義を呈しているんだそうな。
そもそも「現代の国語」では評論文など「現代の社会生活に必要とされる論理的な文章および実用的な文章」を載せて身につけさせるというのが眼目らしい。
そして疑義に対する文科省の答えと言うのが「小説が盛り込まれることは本来想定されていないが、文学作品を掲載することが一切禁じられているわけではない」と、いったいどっちなんだというあいまいなもの。
その上で「今回の事態を重く受け止め、今後はより一層厳正な審査を行う」と非を認めた口ぶりである。
こんないい加減な役所が日本の教育の元締めなのだというから、日本の将来はどんより曇り空から土砂降りの雨になりかけの悪天候そのものではないか。
そもそも文学作品を排除して実用文書を並べればいいと言う発想そのものに、心の貧しさを感じてならない。
実用文書などは社会にでれば否が応でも目にしなければならないのだから、直ぐに慣れる。
才能が必要な文学作品と違って実用文章と言うのは慣れれば誰だって書けるし、そもそも日本語なのだから意味が分からないはずがない。
慣れ不慣れの問題なら、習うより慣れろだ。
‶検定破り〟をした教科書に載ったのは芥川龍之介の「羅生門」、浜田ハマ「砂に埋もれたル・コルビジェ」、夏目漱石「夢十夜」、村上春樹「鏡」、志賀直哉「城の崎にて」の5作品。
ボクに言わせれば、ほほう…そこそこのチョイスじゃないの、と思う。
若いうちにこういう文学者が書いた作品の一端を読んで興味が湧けば全編を通読するきっかけになるし、特定の作家が気に入ったら、その人の全作品の読破に挑戦すればいい。
ボクは中学の教科書に載っていた「伊豆の踊子」を読んで川端康成に魅かれ、高校時代に全作品を読破した経験がある。
そして高校の現代国語に載っていた村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」を読んで衝撃を受け、以来、俳句というものが頭にこびりついて忘れられない存在になった。
社会人になって再会した高校時代の友人と酒を飲んでいて、その話をしたら「ああ、オレは『芋の露』だな」と飯田蛇笏の「芋の露連山影を正しゅうす」の句を上げた。
しかも奴は甲府盆地までわざわざ出かけて行って、その光景を確かめてきたのだと得意そうに話した。
高校時代は3年間同じクラスで、互いにサッカー部とラグビー部に分かれ、同じグラウンドを半分づつ使い、家が割と近かったので同じ電車に乗り合わせることも多かった。
そんな仲だが、こういう感受性を持っていたとはその時まで分からなかったので、見直した記憶がある。
かくして若い感受性というものは敏感すぎるくらい敏感なものなのであって、身体の奥底に様々なものを刻み込んでいるものなのだ。
しかも何がどのような形で現れ、響いていくのか、決まり事なんかありゃしない。
例えば、ふと目にした文学作品が引き起こす化学変化などはほんの一例で、それこそ他に数万、数億通りあることだろう。
実用文章を身に付けさせるためだなんて、高校は職業訓練校じゃあるまいし、そんなことより基礎的な教養を身につけさせる入り口をたくさん用意して並べる方がもっと大切だろう。
若者を隷属的労働力としか見ていないから、こういう温かみのないアホらしい教育方針が示されるのだ。
もっと人間らしく生きて行けるような手助けとなる教育こそ、若者の心と体にしみ入っていくはずなのに…
そういう人間がたくさん育つ国ほど豊かな国はないんじゃないかと思うのだけど。
(見出し写真は近所の池と森の公園で久しぶりに出会ったカワセミ スマホなのでこれが限界)