それが今年に限っては早々と店じまいしてしまったのはひとえに太陽が顔を出さないことが原因と思われる。
野菜の話で、わが家ではゴーヤとミニトマト程度だが、ゴーヤに至っては7月中に10数個の実を提供してくれ、チャンプルーや薄くスライスしてカツ節を振りかけたサラダにしてホロ苦さを楽しんだりしていたが、8月に入るとぱたりと生産を停止してしまった。
まるでストライキでもしているかのようで、あのホロ苦さを好むボクとしては何とか機嫌を戻してもらって生産再開をお願いしたいのだが、こと太陽のこととなると如何ともしがたいのだった。
ミニトマトも同様である。
トマトには過度の水やりは禁物だから、たまに追肥を施すくらいで後はほっとらかしておけばいいほどの手間いらずで、その間どんどん次から次に実をつけてくれるものだから、育てる側にとっては頼もしい〝孝行息子〟を得たも同然の存在なのだ。
しかるに、こちらも8月に入ったばかりの頃までは何とか実を提供してくれていたが、それもゴーヤを追うがごとくに右へ倣えして生産は停止状態である。
時たま実が付いたりすることはするのだが、最盛期の5分の1くらいのちっぽけな実をつけるだけで、味はないも同然で何の役にも立たない。
植物の実はお日様が作り育てるものなのだ。お日様が顔を出さないものだからロクに光合成もできないんだろう。ゴーヤもトマトも株に勢いは見られず、枯れ葉と枯れ枝が目立つばかりで落ち武者のごとき哀れな姿である。
7月のゴーヤが順調だっただけに、その落差は小さくないのだ。
ミニトマトも朝日を浴びながらその日の分をつまむのはなかなか心地よいものだったのだが、そんな喜びはアサッテの方角に飛び散ってしまった。
まぁ、それでもここまでの情景はわが家だけのものである。
だからボクと妻とでがっかりしていれば済むことだが、世間全体を見渡すと、そうもいっていられないくなってきているのだ。
野菜の値上がりが目立ってきた。
日照不足は関東以北のことらしく、関東より西では比較的日照には恵まれているようだが、大量消費地の首都圏まで潤沢に潤すほどの生産量があるとも思えず、この日照不足が続けばどうなるかは想像に難くない。
しかし、と言ったって今のところ地場野菜は種類が限られているものの目の玉が飛び出るほど高いと言うことでもないようである。
現に鎌倉駅近くの鎌倉野菜の市場で勝ったナスは200円でそこそこのサイズのものが7、8本あった。
友人のブログには近所のスーパーのキュウリが高かったので三浦半島の直売所まで買いに行ったら随分と安くて、しかも新鮮じゃぁ~と喜んでいた。
地産地消は今のところ命脈をつないでいるようである。
それでいいのだ。それが健全なのだ。何も九州のキュウリを食わなくったって近場のもので間に合わせれば済むことだ。
旬が過ぎてしまったら手に入らなくなるのは当たり前で、そうなれば次の旬の野菜を食えばいいのだ。
でも日照不足で壊滅状態になると、これは食い物がなくなると言うことだから飢饉と言うことになるのだろう。
経験したことはないけれど、そうなったらそうなったでそれも自然の摂理なら受け入れるしか方法はないのだから、じたばたすることもない。
自然に逆らって何とかしようと考えること自体が不自然なことで、所詮自然の力にはかなわないのだ。
ヒトはあるがままにしか生きられないということである。
昨日は日が暮れかけてもアルコールを求める気が起きず、形を保ったままのコメとアジの塩焼きの夕食で満足した。
アルコールがなくても食事ができるんである。これもあるがままの姿なのだ。
江ノ島の弁天橋から西の海を見る
夕方5時の江ノ島湘南港の防波堤
上は江ノ島の駐車場の金網で鳴くアブラゼミ。下はわが家の網戸にしがみついたツクツクボウシのメス。夏が終わろうとしているのだ
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