雨に変わったとは言え、午前中は強風が吹き荒れていたからか部屋の中の温度は上がらず、朝ご飯を食べて掘りごたつに直行して中に入ったまま一歩も出られなかった。
夏は涼しいわが家だが、冬の寒さをしのぐには暖房をガンガン効かせなくてはとても生きた心地がしないのである。
台所を含めて25畳ほどのリビングには床暖房をしつらえてあるが、こういう特別の日には炬燵に潜り込んでじっとしているのが一番である。早い話が短期冬眠である。縮こまってエネルギーロスを防ぐのである。
FM放送で音楽を流し、新聞と本を読みながら、そのうち決まって眠くなるからその時は何の躊躇もしないでゴロンと横になり、うたた寝を楽しむ。
こういう場合の炬燵の中の暖かさというのは何に例えたらいいのだろう。背伸びをしながら思わず極楽極楽! と叫ぶ気分である。
外でいくら氷雨が降り、寒風が吹き荒もうが、別世界なのだ。
古今東西の文筆家が書き残している「老い」に関する文章を鶴見俊輔がまとめたアンソロジーを読んだのだが、日本人に交じって出てくるキケロとモンテーニュの文章はひどい。
この2人以外、モームとサルトルの文章が掲げられているが、まぁ、すんなり読めるのはサルトルくらいである。
特にキケロとモンテーニュはどうしてこういう回りくねった表現しかできないのかと、つくづく呆れるし、日本語の訳者も訳者である。訳していて意味が通じているのだとしたら見上げたもんである。
それくらいに、チンプンカンプンなのだ。
それらに比べると、日本人の作家たちは普通の人よりは幾分感受性が強く、発想も跳んでいたりするから、物の見方や考え方にオッと思わせられるところがあるものの、総じて素直な表現で思うところ感じるところを描いていて好感が持てる。
「ものの一杯に詰まった袋には、それ以上新しくはいれられない。が、空っぽになった袋へは、新しく選んだものを入れることができる。思えば“失うもまたよし”“失ったあとには新鮮が来る”です。老いて失ったものをなげくことはない、新陳代謝だと思えばいい、Aさんの洗濯は清々しい芽を吹いて完成したし、Bさんの耳は心の声をきく感度を備え、まったく新しい別のものを入手した。(中略)
考えると、種のあるところに芽は吹きやすく、種のないところには、別の種をおろせばいいのだとわかります。私はもう一度、心の中に何の種が、どんな分量で残っているか、現在高を調べました。あったのです。種もいろいろ、そして分量もまず満足なだけあったのです。(中略)
減った健康を長持ちさせるよう大切にしながら、これらの種を培っていいけばいい、これで老後の仕事と喜びは決まった、と思うと晴々してその設計に従いました。
(中略)
老いの自覚があったら、ともあれ、体力能力気力、その他一切の持物の、現在高を確認すること、その上で何なりと選ぶ道を決めることです。終わりよきものすべてよし、です。すっきりした老後を送ることは、先に行く者が後の人へ残す、元気のもと――とそう大げさにいわずとも、あなたが私が、いささか子に贈る思出になりませんかしら」
幸田文の「現在高」という一文で、なるほどねぇ、と感じさせるものがある。
それと、勝海舟の未亡人たみに題材を取った富士正晴の「ジジババ合戦、最後の逆転」も面白かった。
「ばあさんは一人でも生きられる、一生、生活技術をみがいて来たからだ。
ところが、金をもうけてくる以外、家庭の生活技術をみがいてこなかった衣も食も全くといっていい程あつかえぬじいさんは子供同然で何も出来ない。着ることも食うことも出来ない。おまけに金も半分とり上げられたとなると、心細さによよと泣くより仕方がない。面白いね、これ。」
「へぇ~」の世界に連れて行ってくれる「こたつ」は、なかなかのものなんである。
18日午前4時半過ぎの雪景色。夕方までには消えてなくなってしまった。
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