4ページ前後もあるから読みでがある。
自分では普段手にしないような書物の書評を読むのも何か秘密の花園をのぞくようでワクワクするし、半信半疑で眉に唾しつ「こういう類の書物を好む人たちもいるんだ」などと感心したり眉を顰めたりもする。
日曜日の朝刊に掲載されるのが常だから、朝食を終えて朝の光が充満する明るい部屋の中で音楽を流し、ゆったりとお茶でも飲みながら読んでいく時間は、本好きの人間なら至福のひと時と言ってもよい。
興味を惹かれるものを見つけると矢も盾もたまらなくなって本屋に駆け込んで、目指す新刊本を探しあてると中身など改めずに買って帰って真新しいインクのにおいをかぐのも何かスポーツ的で心地が良いものだった。
しかし、探しても見つからないとなると別の本屋に急行し、そこもだめならまた別の本屋、そこもだめなら…という具合に奔走するのだ。
本を探して駆けずり回る場合の「奔走」は「奔」の字が「本」でもいいのではと思うほどである。、
その点、今は便利になった。
欲しい本があればパソコンの前に坐ってキーボードを数回たたくだけで早ければ翌日には家まで届けてくれる。
思い立って息せき切って本屋に駆け込み、目指すものを手にするときの高揚感と達成感がないまぜになった様な気分は味わえないものの、確実さという観点からはこれほど便利で安心なことはない。
一週間のご無沙汰を経て毎週やって来るその読書欄を読み飛ばすようになってしまった…
どういうことなのか。
本が嫌いになったのではない。悪い感情を抱くようになったわけでもない。本と喧嘩をしてしまったわけでもない。アベなんちゃらに邪魔されているわけでもない。その恐れや素地は多分にあるけれど、まだそこまで手は回り切れていないようなのだ。
一昔前の本に比べれば、あきれるほど文字が大きくなっているのに、その拡大文字すら見にくくなってきた。
見にくさとも因果関係があると思うのだが、字面を追う根気が失せかかっている。だから数ページ、いや数行で嫌になって放り出してしまうこともしばしばである。
だから家中、そこかしこに読みかけの、場合によっては買ってきただけの、極端な場合はまだ本屋の袋に入ったままの本がそこかしこに摘まれ、ほこりをかぶり始めている。
そういう現状を目の当たりにすると、まだ少しは理性というもののかけらが残っているためか、これ以上同じ轍は踏めないと思い、だとすれば元を絶つしかないじゃないかと読書欄を無視し、本屋にも足を踏み入れないようにし始めているのだ。
はっきり言ってこれは退化以外の何物でもない。
自身を振り返ってみれば欲の塊のような日常を送っているくせに、知識欲だけは跡形もなく消え失せようとしている。
かつてこの本を買ってしまえば昼飯代がなくなるというような時でも迷わず本を買ったものだが、あの頃のやせて世の中を斜めに見ることしか知らなかった青年はどこに消えてしまったのか。
ショウネン オイヤスク ガク ナリガタシ
イッスン ノ コウイン カロンズベカラズ
イマダサメズ チトウシュンソウ ノ ユメ
カイゼン ノ ゴヨウ スデニ シュウセイ
青桐の葉は秋風に吹かれて既に散り始めているのだ。
世の理、大宇宙の法則に照らせばこれを覆らせることは不可能だろう。ただ、遅らせることは出来ると思う。
このまま抵抗もせずズルズルと後退していくのであれば、それはとても悲しい。
真夏は休んだが、初夏から咲き続けている「空蝉」。もう何番花になるのだろう、6番花?それとも7番花?
つるバラのせん定を始めたらクレマチスのアフロディーテ・エレガフミナのつぼみと咲き終わりがあるのに気付いた
軒先に吊るしてある干し柿に白い粉が吹いてきた。いいぞいいぞ、上等に仕上がってきているぞ!
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