寒に入り厳しい寒さが続く日々の中で、冬至以降の弱弱しかった太陽の光が、ふとした拍子に明るく力強いものに変わっていることに気づいてびっくりすることがある。
もちろん本物の春ではなくて、「光の」という限定的な形容詞のついた、光に限っての、あくまでも春を予感させるものに過ぎず、いわば「もうちょっと我慢していてくださいね。でも確実に日脚は伸びているし、春の足音は近くまで聞こえてきていますからね」と言われているようなものである。
誰から言われるのかって、そりゃぁ「天の神様」とか「春の女神」からでしょうよ…
数字的な裏付けを加えるなら冬至に太陽が昇ったのが06:48、日の入りは16:31で日中の時間は9時間43分と10時間にも満たない。
それがひと月後の昨日(1月22日)の日の出は冬至より1分遅い06:49だが、日の入りは16:58と27分も遅くなっている。したがって太陽が顔をのぞかせている時間は10時間08分と10時間台を回復してきているのだ。
一陽来復とはこのことで、光の春の正体といっても良いだろう。
この「光の春」という言葉は、そもそもロシア語から来ているらしい。
かつてお天気キャスターの草分けとしてNHkテレビの気象解説をしていた倉嶋厚さんが紹介して使ったのが最初だという。
著書の「お天気歳時記~空の味方と面白さ」から引用する。
「二月の光は誰の目から見てももう確実に強まっており、風は冷たくても晴れた日にはキラキラと光る。厳寒のシベリアでも軒の氷柱から最初の水滴の一雫(ひとしずく)が輝きながら落ちる。ロシア語でいう『光の春』である。
ヨーロッパでは2月14日のバレンタインの日から小鳥が交尾を始めるといわれてきた。日本でも2月にはスズメもウグイスもキジバトも声変わりして、異性を呼んだり縄張りを宣言する独特の囀(さえずり)りを始める。ホルモン腺を刺激して小鳥たちに恋の季節の到来を知らせるのは、風の暖かさではなく光の強まりなのである。俳句歳時記の春の部には『鳥の妻恋』という季語が載っている」
その「光の強まり」を昨日は痛感したのである。
坐禅をしに行った円覚寺では藁苞(わらづと)をかぶりこそすれ、もうフクジュソウが黄色い花を開いていた。
境内の日当たりの良いところにあるウメはもう盛りを過ぎて散り始めているし、歩いて帰った自宅までの5キロの道のりでも、梅が終わりかけている家々を見た。
西寄りの北風が吹いていたので寒いことは寒いが、少し前の氷点下にまで下がったころと比べれば寒さもグッと緩んでいる。寒さに身構える必要がないせいか、相変わらず低い高度から差しかけてはいても、斜めの光に浮かぶ雑木林の裸木の佇まいはいかにも柔らかそうで、芽吹きの兆しと言ったら気が早すぎるかもしれないが、そういう鼓動が聞こえてきそうな気さえするのだ。
人間だって動物の仲間だし、強さを増す光にホルモン腺を刺激されるのは同じことである。
もちろん細胞の経年劣化という点も考慮しなければならないから、直ちに恋の季節へと結びつくというわけでもないのだが、身体の奥底で何かがもぞもぞと動き出し始めるのは間違いない。
春を待つ心というのは良いものである。
円覚寺の居士林の庭で見つけたフクジュソウ
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