どこに遊びに出かけるでもなく、早起きをして坐禅会に参加するため集まってきた人たちの列で、ボクのようなジジイもいることはいるが若い人の姿が目立つ。
これは感心なことだと思う。
18歳の夏に10日ほど居士林に参禅して、いっそこのまま坊主になってやろうかと思ったことがあるくらいだが、大学生になり社会人となってからは俗世にまみれ切って、日曜坐禅会に参加してみようかなんてチラっとも思わなかった。
そういう体たらくの人間からすれば、この朝見かけた若い人たちは後光が射しているような人たちである。
普段一杯になることのない坐禅会場の大方丈は満杯だった。
提唱をする老師に「準備は整いました。よろしくお願いいたします」とお出ましを願う合図の太鼓が久しぶりに強く大きく鳴り響き、もう薫風と言ってもかまわないであろう光に満ち溢れたさわやかな風が開け放たれた扉という扉から流れ込んでくる。
その空間の片隅に坐って静かに呼吸をしているだけで、何もかもがとことん解放されてゆくようで心底気持ちが良い。
席に着いた横田南嶺管長の「盤珪禅師語録」の提唱が始まる。
「人は仏の心を持って生まれてくる。しかし、そのことに気づくことはなく、あれこれ道を求める」
「自分の心の中こそが仏の心なのだから、他に求めなくても自らの心に聞きさえすればいいのだ」
「自分の心の中をじっと見つめているとそれが見えてくる」
「ケロケロとカエルの声が聞こえて来ているが、だれも、さぁカエルの声を聞くぞと思って聞いているわけではない。聞こえてくる音をカエルの鳴き声だと無意識に認識しているだけなのだ」
「聞こうとして聞くのではない。見ようとして見るのではない。無意識がそれを気づかせるのだ。それこそが仏の心なのだと盤珪禅師は言っている」
「江戸時代の半ばになると白隠禅師という坊さんが登場して、それでは飽き足らないと言って『公案禅』を提唱した。禅寺の道場では修行僧に公案を出して解かせているが、どちらでもいいのです」
そんな話をしていたように思う。
テキストが配られるが、ボクは坐禅を組んだままテキストに目を落とさず、耳で聞いているだけである。
正直なところ、何も耳に入らないことがある。黙って坐っているだけである。せっかく管長がお出ましされて話をしてくれているのに、あろうことか他の取るに足らないことを考えていたりもして、慌てることもある。
「大悪党でも殺人鬼でも、だれの心の中にも生まれながらに仏の心が備わっている。しかし、それに気づかないだけだ」という話は繰り返し聞かされてきた。
でも、ボクもまだその存在に気づいていないのだ。おおっ! と感じられるようになりたいものだと常々思っているのだが……
坐禅の後、黄梅院に立ち寄ったらアオスジアゲハが花蜜を吸っていた
ヤレ撮れ ホラ獲れ とチョウの方が催促するものだから…。何とかアリバイ証明的には写っていた
名札がぶら下がっていたものの、字はすっかり消えてしまっている。ハテ、何の花? (黄梅院)
シャガに混じって咲くこの鮮やかな黄色い花の名は? (白鹿洞わき)
「門」(如意庵)
竹の子は一人で勝手に竹になる (如意庵)
仏殿裏のナンジャモンジャ
近所のこいのぼりが威勢よく泳ぎ始めた
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heihoroku
高麗の犬
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