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平方録

九州紀行 その2

薩摩路初日の宿は霧島中腹の、眼下に絶景が広がる人気の宿だった。

薩摩の友人が最初の宿泊地にこの宿を選んだ理由が納得できる絶景にまず「へぇ~」「ほぉ~」と感嘆符つきのため息が漏れ、しかも部屋のみならず露天風呂にもこの景色はついてくる贅沢さである。

一大パノラマを見下ろしながら温泉に浸って体をほぐした後、「薩摩に来たからには芋焼酎だろう」と、焼酎を飲みながらの食事になる。

なにしろ薩摩の空気の中にどっぷり浸りながら、薩摩焼酎を口にしつつ、5年ぶりに再会を果たした友人同士が盛り上がらないわけがない。

"近況報告"にも自然と力が入り、ボクだけでなく一同、ここでも「へぇ~」「ほぉ~」の連続で夜は更けていったのでした。

そして夜が明け、外を眺めると…

 

7:22 一夜明けると眼下には雲海が広がり、その奥には桜島が浮かんでいた♪

午前6時前、まだ薄暗い中、温泉に入りに行くとまだ雲海はごく一部にあるだけだったが、明るくなるにつれて雲の量が増え、幻想的な光景が広がっていった


宿を出発し、借り上げのジャンボタクシーで霧島山中をドライブしてえびの高原まで行き、韓国岳のすぐ下まで行くが道路が通行止めのためUターン、写真も撮らずに山を下りた。
おかげで霧島山中にいながら、灯台下暗しというべきか、霧島の写真がない。
ヒコーキで降りてくるときに、あれがそうかなと思った山があったが、半分以上雲に隠れていたのでシャッターを押さなかったのが悔やまれる。
この滝は下山途中にある霧島ジオパークの丸尾滝。火山活動でできる柱状節理の岸壁を水が滑り落ちている。


やはり下山途中の山腹にある霧島神宮に立ち寄る


国宝に指定されているそうで、なかなか雰囲気のある神社だった


ニニギノミコトが祀られているんだそうな


御神木が見事だった


見上げていると、薩摩の友人が「こっち、こっち」と手招きをする


近寄って指さす方を見てみると…


看板が掛けてあり「御神木の枝木が、装束を着けた人が参拝しているように見えます」と、わざわざ説明していた
 

こういうものは、地元の人の案内があればこそ目にすることができるもので、個人的に訪れたのでは見落としていただろう


昼時になり、知覧の武家屋敷で郷土料理を楽しむことに


この武家屋敷が集まる一角の佇まいの立派さは、薩摩藩がいかに豊かな藩だったかを物語っている
幕末に倒幕運動する軍資金が豊富に蓄えられていたのもうなづける


この旧高城家住宅で食事した


庭も立派


家には男性専用の男玄関と女性用の女玄関が並んでいる


これが郷土料理のお膳


左から時計回りに鶏の刺身、芋こんにゃくの刺身、季節の小鉢(おからのようなものだった)

錦糸卵ときびなごの酢漬けが乗った酒ずし
ボクはあまり感じなかったが、山の神は下の方のご飯はお酒に浸してあるようだったと言っていた
そのせいでもあるまいが、昼ごはんの時でもちょこっといっぱいぐらい…と酒が登場するのだが、歳のせいかご飯に酒がしみていたせいか、そういう声は起きなかった
 



食後、知覧にある特攻平和会館に行く
 

ここを訪れるのは2度目だが、今回も胸が詰まった


特攻攻撃の命令が下った隊員が出撃までの4,5日間を過ごした特別の兵舎


杉木立の中に、空から見つけにくいように半地下に掘られたところに屋根をかけた粗末な兵舎だ
米軍の兵舎は半月の形をした金属製のかまぼこ兵舎だが、この兵舎は板張りの三角屋根で「三角兵舎」と呼ばれていた


出撃までの短い間に、この薄暗い空間の裸電球の下で遺書をしたためたのだという


海中から引き揚げられたゼロ戦の残骸


館内には特攻隊員たちの遺影をはじめ、遺書や短歌などが展示されている
「私は笑って死んできます」などという遺書の文言を読むと、無理に書かねばならなかった胸の内の葛藤が浮かんできて苦しくなる
出撃直前に発狂した隊員や、飛び立ってそのまま見送りの教官に突っ込んでいった隊員もいたという
17歳の少年を含めた二十歳前後の若者たちは逃げ場のない苦しみの中に追いやられ、絶望の果てに作り笑いをさせられて死んでいった


修学旅行の高校生たちだろう、館内は若い人たちで混んでいた


遺書の一通でも読んで、書いた隊員たちの本当の気持ちに気づいてくれたらと節に願う
 
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