まだ雨の匂いが辺り一面に漂っているから、止んで間もないと見える。
身にまとわりつく空気は一時期のような、触るだけで肌が切れてしまいそうな鋭利な感覚のものから、ずっと穏やかで柔らかなものに変わっている。
まだこれから先、行きつ戻りはあるのだろうが、季節が確実に動き出したことを実感させる朝である。
昨日、初音のことを書いていよいよその季節になった、春告鳥のウグイスが最初に鳴く声をぜひ聞きたいものだと書いたのだが、まだちょっと書き足りない。
ちょっとびっくりするような俳句にお目にかかったので、そこら辺りから。
芭蕉の高弟である宝井其角の句ばかりを集めて吟味している「其角と楽しむ江戸俳句」という本をめくっていた時のことだ。
鶯の身をさかさまに初音哉
其角の代表句の一つとされているそうだが、初めてお目にかかった。
この書物の著者は半藤一利だが、「実際に初音のころの鶯が枝にさかさまになって鳴くのかどうか。其角の想像らしいが、そんな奇想が喜ばれたのであろう。それとも人間の男女の営みのときの……。女が上になって……。まさか。」という解説に吹き出してしまった。
さすがに漱石の孫だけのことはある。
初音ひと声で男女の睦事まで想像しちゃうとは……。坊ちゃん同様奇想天外、縦横無尽、破天荒な発想でありますなぁ。誠に恐れ入谷の鬼子母神。オッと、鬼子母神はミミズクだったっけネェ。
しかし、エネルギーの有り余っているやんちゃ坊主のようなウグイスだと、待ち望んだ春がやって来た嬉しさから正しく枝に止まって鳴くばかりじゃぁ能がないからってんで、嬉しさ余ってわざわざ枝からぶら下がって鳴く奴だっているはずである。
いや、きっといるはずだ。ボクがウグイスならきっと嬉しくって嬉しくって身悶えするくらいに嬉しくなって、さかさまにぶら下がって鳴くことくらいお茶の子さいさいかもしれない。
そこらあたりの気持ちは其角サンも一緒なんじゃなかろうか。
半藤サンは妄想のし過ぎだね。
鶯の脛の寒さよ竹の中 尾崎紅葉
キンイロヨマタの紅葉センセイ、鋭いですねぇ。春まだ浅しの野でさえずるウグイスの足に着目するなんて…。寒そうな細い足が目に浮かびますなぁ。
鶯のこゑ前方に後円に 鷹羽狩行
ウグイスの声が前方からも後方からも響いてくる。そんな心地よい雰囲気の中でふと巨大な前方後円墳の後円が思い浮かぶという江戸俳諧風の言葉の機知がここにはあるんだそうな。
言葉の機知とは言いようで、言葉遊びと言ってしまっては身もふたもなくなるから不思議ですな。
老鶯(ろうおう)や泪たまれば啼きにけり 三橋鷹女
大岡信は「理屈では説けぬ命のあわれによって輝く」と評している。年を取らないと詠めないし理解できない。
鶯の啼くや小さき口あいて 与謝蕪村
さすがワレラが蕪村サマ。何やらちょっぴり官能的な匂いが漂いますなぁ。
この場合、あくまでも「匂い」であって、決して「香り」ではないのだ。
ん、半藤センセイに似てきちゃったか…
さて、雨も上がったし、今朝はこれから円覚寺の坐禅会に行ってこよう。3週間ぶりだ。
稲村ケ崎から
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