理由は20年前に導入した電話機が老朽化してしまい、満足に通話ができなくなってしまったためである。
特に付属していた2台の子機がいずれもストライキ状態に入ってしまったのだ。
経年劣化が原因らしいが、その昔あった穴が10個並んだ丸い板に指を突っ込んでジーコジーコ回して相手の電話番号を呼び出す機械式の黒電話に比べると、何と脆弱なことよとぼやいても見たくなるが、便利さを追求して進化を続ける様々な文明の利器はすべからく耐久性というものを軽んじてきているんである。
時代というものは、日本に特有なものかもしれないが、特に工業製品については質実剛健という単語を捨て、その考えも葬り去ってしまったのである。
とにかく新しいものを買わせなければならないと思い込んでいるのだ。
2台の子機のうち1台を寝室に置いておけば、深夜にかかって来たってにいちいち電話機のそばまで行かなくても済んでいたので重宝していたが、ともかく通話ができないようになってしまってはもはや放置できない。
しばらく前から電池を交換してみたりしたのだが、ダメだったのである。
時代は携帯電話が一人一台の時代に入り、わが家も妻とボクとでそれぞれスマートフォンを所有しているのだから、これを機に固定電話をやめてしまうという選択肢もあったのだ。
現にもう十数年前から電話帳への番号掲載も断っているので、電話帳をめくって手当たり次第にかけて来るような迷惑千万な電話は無くなったし、名字だけでかけてくるような間違い電話の類も同様に減ったのだ。
それでも固定電話に時々電話がかかってくるのは、事務的や儀礼的な関係先に対して伝える電話番号を固定電話のものにしているからで、親しい関係者にしか知らせていない携帯電話にそんなものまで受けていたんではいちいちうるさくてかなわないし、それなりのメリットがあることは否定できない。
今回も妻が買い替えようと言い出した時、ほんとに必要なのか考えてみたのだが、やはり個人ユースの携帯電話はあくまでそういう使い方にしておきたいと言うことで互いの考えが一致したのだ。
一方で労働市場の一員だったころから仕事の関係でファクシミリ付きの電話機を使っていたんである。
今ならメールでやり取りできるものが当時の先端はファクシミリだったのだから、優雅と言えば優雅、何とも悠長な時代でもあったのだ。
歳をとると言うことは時代に取り残されると言うことだな、としみじみ感じたのは、今回もまたファクシミリ付きの電話機を購入したという現実からである。
ファクシミリを使っているのは毎年1回、ガメイヌーボーのワインを注文する時と秋と冬に種苗会社に花のタネを注文する時くらいである。
タネの注文はネットで代用できるから困ることもない。ワインだって確かめたことはないが同じだろう。
従って自分のライフスタイルに合わせた製品を導入すればいいものを、前と同様のものを買ってきて満足するのである。
現実を直視できにくくなってきていることに加え、無意識に変化を避ける気持ちが働くようなのだ。
新機種は驚くほどの多機能である。
とてもじゃないが使いこなせるものではなく、よしんば使いこなせる能力を持っていたとしても、あれほどの多機能が必要なのかと負け惜しみのボヤキの一つも漏れてくる。
まだまだ若いんだ、なんぞとうぬぼれていたのだが、もはや正真正銘のジジイになってきたようで何か釈然としない、情けない気分でもあるのだ。
たかが電話機1台の話なのだが…
新しい電話機は機能が実に豊富なのだ
近所の公園から見た富士山。月や太陽の見え方と同じで目の錯覚なのだが、比較対照するものの位置や対象物によって大きさが変化する
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