午前7時45分に家を出て円覚寺まで自転車を漕いで行ったのだが、8時前だというのに太陽の光は肌を焦がすほどに熱く、思わず「うわっ! 」と声が漏れるほどで、あまりの暑さになるべく力を入れないように漕いで行ったつもりだが、汗だくになってしまった。
円覚寺の大方丈に着いてからでもしばらくは汗がひかず、首振りの扇風機の振り幅に合わせて体を移動させつつ風を浴び、それでようやく落ち着きを取り戻したのだった。
ボクの感覚では鎌倉で今夏1番の暑さではなかったかと思う。
昨日は第4日曜日なので説教師の資格を持つ円覚寺派の坊さんが話をする日だが、去年だか一昨年だったか、予定していた坊主が都合悪くなって横田南嶺管長が代打を務めたのだが、それ以来8月だけは毎月第2日曜日に加えて第4日曜日も横田管長が務めることになったようである。
そんなことは知らなかったので、横田管長の話が聞けたのは幸運だった。
坊さんというのは気の毒なもので、いくら気温が高くなっても人前に出て話をしたりする場合には正装で出てくるのだ。
絽の着物とか薄手の布地で出来たものを身に付けるとはいえ、それだって3、4枚も重ねれば十分に暑いはずである。
おまけに大きな声を張り上げて話すのだからエネルギー消費は相当に高かろう。頭のてっぺんやら顔の汗をぬぐいぬぐい話をする横田管長を初めて見た。
この暑さを念頭に置いての法話だったのかどうか、その辺りの真意は定かではないが、法話の趣旨は「大自然と一つになっていくことが禅の修行です」というものだった。
ボクのレベルだとあまりの暑さにたまりかねてヤケのやんぱちになって「暑いのだってまさに大自然の成せるところ」とばかり、テーマに選ぶこともありうべしだが、畏れながら悟りを開いた宗門第一の高僧はお釈迦さまになり替わって我ら衆生に諄々とお説きになるのだ。
そこで例に引いたのが曹洞宗を開いた道元が詠んだ歌「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」である。
この歌は自然の美しさにただただ「素晴らしいなぁ」と感嘆している様子を表現したもので、我々が生きていくうえでのヒントや修行するうえでの心構えを示しているのですと管長。
そしてこの歌には枕書というものがついていて「本来の面目を詠ず」とある。「本来の面目」とは自己の本来の姿、自己の実相のことなのですとも。
つまり道元禅師は自己の本来の姿もかくあるべしと言いたいのです、と。
ちなみに「本来の面目」というのは「回向返照(えこうへんしょう)の退歩を学ぶべし、自然に心身堕落して本来の面目現前せん」の略で、意味するところは「前ばかり向いて歩かずに、時には立ち止まり後ずさりして、自然と同化し、仲良く自然と語り合う気持ちのゆとりを持ちなさい。そうすれば身も心も抜け落ちたようになり、自然の持っている本来の実相までが見えてくる」ということのようである。(ネットの「名歌鑑賞・3302」より引用)
横田管長に戻れば「禅の修行で得られるものというのは、自然を超えたところにあると思いがちだがそうではない。大自然と一つになることこそが修行の目的です」ということになる。
この考え方はボクにとって受け入れやすいというか、漠然とだがそういうものなんだろうなぁという考えに、この年になってたどり着きつつあるのでフムフムと納得しながら聞いたのだった。
やっぱりそうなんだよね、という気持ちである。
さぼっちゃおうかと思ったのだが、汗をかきつつ行ってきてよかった。
猛暑に見舞われた円覚寺で咲いている花と言えばさるすべりくらいのもの
こちらは白花
透き通るような瑞々しさを見せていたモミジの若葉もそろそろ〝熟年〟を過ぎ…
シュウメイギクが蕾を膨らませつつ出番を待つ=いずれも円覚寺境内にて
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