管長のお出ましを求める太鼓の力強い響きが晩秋の朝の円覚寺境内のリンとした空気を震わせる。
抑揚を利かせ、ある時はゆっくりと懇願するように、ある時はすぐに駆け付けてきてほしいと急かすように、またある時は穏やかなリズムを繰り返した太鼓の音は、管長が姿を現してご本尊の前で五体投地を始める直前にぴたりと止む。
その管長の儀式を守るように、後押しするように般若心経の読経から始まって坐禅和讃、延命十句観音経を大きな声で唱和する。
北鎌倉の臨済宗円覚寺派大本山では毎週日曜日の朝、在家の人のための坐禅会が開かれる。
最もたくさんの人が集まるのは第2日曜日の説教坐禅会で毎回500人を超す善男善女が大方丈を埋め尽くして管長の法話に耳を傾ける。
もう1日ある偶数日曜日は管長の代わりに円覚寺派の和尚が交代で法話を担う。
そして、毎回100人程度しか参加者のない奇数日曜日は坐禅を組みながら管長が古の祖師方の残した語録の解説(提唱)を聞く会がある。
太鼓が鳴るのはこの月に2回か3回の坐禅会だけで、参加者が少ないのは開始時間が早いことと、1時間の提唱の間、じっと坐禅を組んでいなければならないという意味で、敬遠してしまう人たちが少なからずいるのだと思う。
ボクはこの奇数日曜日の坐禅会が一番好きである。
理由は単純で、何となく気が引き締まるからだが、あの最初の太鼓の音を聞くと背筋がしゃんとするってところも気に入っている。
そう言う意味では深い理由もなく、ミーハー的と言ってもいいかもしれない。
そんな程度なのだ。
ところが9月以降、多忙な管長が姿を見せず坐禅だけして帰ってるという日が続いていて、昨日は久しぶりに提唱を聞けて満足したのだった。
現在の提唱は江戸時代の岡山県の禅僧で盤珪禅師という人の語録を読んでいる。
岩波文庫からも「盤珪禅師語録」が出ていて、興味があればいつでも読むことができる古典である。
そして昨日の横田南嶺管長は「坐禅をしている間、さまざまな雑念が湧いては消え、消えては湧いてくるのは当たり前で、それがありのままの人間なのだから、雑念を払おうなどと無理に努力する必要もない」と盤珪禅師は唱えていて、私もそう思うと語り、いつまでたっても無になれるどころか、雑念にまみれてもがいているボクを欣喜雀躍させてくれたのだった。
「ねばならない」「かくあるべきだ」と、人はとかく己を縛りたがる。目標を立ててそれに近づくように頑張りたがる。しかし、そうした目標や努力の向け方にはそもそも「作為」が加わっていて、本来のあるべき姿じゃないんだそうだ。
人は本来持って生まれてきているはずの「仏心」のありようのままに生きることを目標にすべきであって、雑念当たり前、居眠り当たり前、あるがままに生きてこそ自然な人間の振舞なのだと。
ここまで言われてしまうと、刻苦勉励に加えて心も磨きなさいなどと尻を叩かれ続けてきた年代のボクとしては、それじゃぁ何にも歯止めが効かないじゃん、何でもありでホントにいいの? と思ってしまうが、「あるがままに振る舞いなさい」っていうのも分かる気がするのだ。
かくして、こういう管長の提唱の中身も含めて坐禅中には次から次へと様々な思いが浮かんでは消え、消えては浮かぶ雑念の渦の中から金輪際抜け出せそうもなく、それでいいのさと言われつつ漂うしかないんだろうなぁと、改めて知らされた朝でありました。
でも相変わらず、懲りずに円覚寺に足を運び、雑念にまみれながら坐禅を続けることになるんだと思う。
なんか、生煮えの文章になっちゃったけど…
秋色の円覚寺