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平方録

う~ん、今週もか…

開門25分前。
朝ごはんをかき込み、身支度を整えて家を飛び出したボクが坂道を勢いよく下り始めると、露出している顔と腕の先に雨粒が当たり始める。
ん? 雨が降るなんて予報は出てなかったはずだがと思いながら、人通りも車の行き来も無い道を突っ走ったので、家からはずいぶん遠くまで来てしまった。
後戻りしたりしていたら、開門時間に遅れてしまう。
少しぐらい濡れたって、ここは突っ走るしかないなと腹をくくったら、いつの間にか止んでくれた。

北東の風が正面から吹き付けてきて走りにくい上に、どんより垂れこめた雲の下では、やはり北から届く風は冷たい。
前の日まで南の暖かい空気に包まれていた身には、身震いが来るような冷涼さと言ってよい。
と言っても不快なものではなく、単なる体感の問題だからどおってことはない。ペダルを漕ぎ続けさえすれば体中が暖まって来る。
駐輪場に自転車を置き、門前に並んだのは午前8時の開門5分前だった。

直後に踏切が閉まって上りの横須賀線が北鎌倉駅に到着したが、なかなか踏切が開かないのでオヤッと思ったら、下り電車がやって来て駅には止まらず踏切を通過して行った。
中央線の特急で使われている車両で「回送」の文字が見えたから、臨時ダイヤで走っている電車のようだ。
ほぼ毎週の同じ時刻に門前の踏切近くで開門を待っているのだから、警報機が鳴って遮断機が下りる光景はしみついてしまっている。通過するのが横須賀線なのか湘南新宿ラインなのか、上りなのか下りなのかも分かるのだ。
後から思えば、この時点で普段とは違った展開が始まっていたということになる。

先週は第5日曜日のある月だった。
奇数日曜日は横田南嶺管長による「盤珪禅師語録」の提唱を聞きながらの坐禅の日である。
この坐禅会は出席者も少なく、張り詰めた空気の漂う空間に身を置いて話に耳を傾けていると、如何にも古刹の禅寺らしい雰囲気が伝わってきて、2時間があっという間に過ぎていく。
しかし、残念ながら横田管長は姿を見せず、坐禅だけで終了した。
そして昨日も…

2週続けての管長不在はやっぱり寂しい。というか、物足りない。
日本の仏教界のみならず、宗教界全体からも一目置かれるような存在になっているという管長だから、いろいろ忙しいんだろうと思う。
在家に向けた坐禅会にいちいち登場してくれているのも、その優しさ故と感謝はしているが、寂しいものはさみしい。身勝手なことは重々承知していてもそう思う。
惚れた女じゃあるまいし、何でこうも恋焦がれる気分なのかと考えてみたのだが、管長の話を聞きながら坐ると自然と気合が入り、意識しなくとも背筋が伸びるのだ。
多分、そこに座っているだけで周囲に影響を与える人物がいるとすれば、まさにそういう人物なのだと思う。
大した人の下に通わせてもらっているありがたさを改めて噛みしめた日になってしまった。

そう言えば昨日の坐禅会にも十数人の初参加という人たちがいた。
初心者にも門戸を開いているので毎回それくらいの人数はいるのだが、ひらひらのスカートに背中の半分くらいをパックリと露出させている服装で参加している女性がいた。
その女性があろうことか、坐禅会も終盤になって要領が分かって来たのか、警策を求めて合掌したのだ。
警策を持って坐禅会場を回っていた直日の坊さんの目にもそのあらわになった背中が見えていたはずだが、何事も無かったように素肌があらわになった背中に左右2度ずつビシッビシッと音を立てて振り下ろした。

ボクらが受けるような力のこもった警策を素肌に受けたら、多分みみず腫れが出来てしまうだろう。
だから音を聞いて手加減したことは明白だったが、ああいうノー天気な女性や若者が時々いる。
行く場所が寺であり、修行空間の一端にわが身を置かせてもらい、素人ながら体験させてもらうのだという自覚に欠けている。
そこらのチャラチャラしたイベントや気楽な祭りに参加するのとは区別しなければいけないのだが、それは心構えと同時に、服装から始まるということを知ってもらいたいなぁと思う。

何事にも相手に対する敬意というものは大切である。


円覚寺黄梅院に掲げられた横田南嶺管長による坂村真民の詩(月ごとに新しいものが掲げられる)

稲村ケ崎から(見出し写真も)


江ノ島に渡る弁天橋から



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