それが一転、北関東の内陸の町に舞い戻り、しかもジイジとバアバも荷物持ちを兼ねて一緒にくっついてきたのである。
誠に人生というものは分からない。何が起きるか分からないのである。
姫のいとこの若が遊びに来て一緒に大はしゃぎして家に戻った後、夜中に高熱を発したというので知恵熱だろうくらいに思っていたのだが、乳幼児を中心に大流行している手足口病にかかったことが分かったのが発端である。
体力の面から姫は大丈夫だとしても、2歳に満たない妹気味が万が一感染するようなことになると連れて帰るのは困難になるから、この後の予定のことを考えるとちょっと困るというので、発症前の帰宅となったわけである。
がっかりしたのは姫で、一旦は一人で残るそぶりも見せたのだが、そこは妹思い、母親思いのところがあって、やっぱり一緒に帰るという。
するとバアバが荷物運びも兼ねて私たちも一緒に行きましょうということになったわけである。
姫たちの父親は出張中なので、そうすれば寂しい思いをさせなくて済む。
姫は大喜びであるが、ボクとしては夏の姫は海辺のジイジのところで過ごすのが決まりで、しかも元気一杯の少女には海が似合うものなのだと信じているから、こういうイレギュラーを受け入れるのは一苦労なのだ。
こうした場面ではボクは超のつく保守主義者に変身するのだ。
土曜日の午後のせいもあるんだろうが、東京駅は大きな荷物を抱えて到着した人々やこれから帰るのだろうと思しき人々でごった返していた。
人は夏になると大きな荷物を携えて長い距離を移動する。どこか知らないところにも出かけて見たくなる。
そういう光景一つとっても夏というのは心踊る季節であり、懐かしい存在でもあるのだ。
夏休みの宿題にげんなりした小学生時代の夏だって、あんなものは過ぎ去ってみればほんの一瞬の出来事だった。
それを抜けた後の夏の広がりはそれこそ広大無辺の広がりを感じさせるものだった。
そう ! 今はなんとなく過去形の夏になりかけて来ているのが自分自身でも気になるが、夏を楽しみ、謳歌するためには一定程度以上のエネルギーを必要とすることもまた事実なのである。
それが少なくなって来ているのであれば、なんとかチャージを試みねばなるまい。
3年前の幼稚園年長組の夏、我が家にやって来た姫は水族館の自由研究コーナーで材料をもらって作った作品が大切に残されていた
こちらは今年の春休みに遊びに来た時に「ソレイユの丘」で作った時計で、正確に動いている
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