平方録

鰹が丸ごと1本手に入るかどうか

池波正太郎の「梅安鰹飯」の最後にこんなくだりが出てくる。

藤枝梅安が台所の小杉十五郎へ、
「小杉さん、こっちへおいでなさい。まだ明るいが、いっぱいやりましょう。ちょうどいい肴が入ったことだし…」
「いま、まいる」と、台所で十五郎がこたえる。
彦次郎が鰹の入った桶を抱えて立ちあがり、
「梅安さん、まず、刺身にしようね? 」
「むろんだ」
「それから夜になって、鰹の肩の肉を掻き取り、細かにして鰹飯にしよう」
「それはいいなあ、よく湯がいて、よく冷まして、布巾に包んで、ていねいに揉みほぐさなくてはいけない」
「わかっているとも」
「薬味は葱だ」「飯へかける汁は濃目がいいね」
「ことに仕掛がすんだ後には、ね。ふ、ふふ……」

一仕事終えた後、まだ日のあるうちから鰹を肴に仕事仲間で一杯やろうという訳である。

こういうものを読んでしまうと、もう矢も盾もたまらなくなる。
隣町の駅前の雑居ビルの地下にある魚屋をのぞきに行かねばと腰が浮きかける。
いまどき柵にした鰹を売る店はあっても1本を丸のまま売る店はわが生活圏ではここくらいである。
芭蕉が「鎌倉を生きて出でけん初鰹」と詠んだくらい江戸っ子、初鰹とくれば鎌倉が欠かせなかったのだが、今は時代が変わったのだ。
首尾よく手に入るだろうか…

食通でならした北大路魯山人は鰹について「魯山人味道」で次のように書いている。
『初がつおというもの、それほど美味いものかという問題になるが、私は江戸っ子どもが大ゲサに言うほどのものでもないと思う。
ここでいう江戸っ子というのは、どれほどの身分の人であるかを考えるがよい。富者でも貴族でもなかろう。質を置いてでも食おうというのだから、身分の低い人たちであったろう。それが跳び上がるほど美 味いものかという問題になるが、私は江戸っ子どもが大ゲサに言うほどのものではないと思う。』

味を表現するのにいちいち身分を持ち出すこともあるまいと思うのだが、直木賞作家の高橋治の方が正直である。
『なにが幸せといって、美味い鰹の刺身を腹一杯に食う時ほど、人間生きてある幸福感を噛みしめることも少なくない。だからといって、この魚百人が百人例外なく好むとは限らない。それは、いかにも魚魚した赤身のせいと、鰹特有の舌ざわりのせいだろう。独特の冷たい感触というのか、軽い酸味というのか、とに角、この魚だけは真暗闇の中で口に入れても〝あの鰹だな〟とわかる。』

と書きつつ高橋は鰹に目がないらしく、この後大賛辞を書き連ね、最後に「手こねずし」を知っているか? あれはほんとに美味いぞ! とベタ褒めしている。
手こねずしとは伊勢志摩に伝わる冠婚葬祭用に供される郷土料理で鰹の生の身をひと口大に刻んだものを醤油と砂糖で作ったたたき用だし汁に15分ほど漬け込んだものを汁ごと炊き立てのご飯にかけて手でこね、ショウガ、三つ葉、シソなどを細かく刻んだものを彩りにあしらったものである。

手でこねて手軽に作れるので、ボクも何度か真似て作ったことがあるが、鰹の身の赤が白いご飯との対比で赤く透き通った宝石のような輝きを見せるから、まずドキリとするほど目に美しく、口に運べば、少し甘みを感じさせてとて素朴だけれどもとても美味しい。
身分の違いなんてつけ入るスキがないくらいに美味しい。
作り過ぎて食べ残しても一晩過ぎた後でも味が染みてというか、落ち着いてこれまた美味しいのだ。

いやもう、よだれが…。鰹が1本丸のまま手に入るかどうかだなぁ……


横浜イングリッシュガーデンのアジサイその3


















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