休日の日曜日...嫁の実家の庭に草よけシートを張ったりして、帰宅してから一休み...そのまま長い昼寝をしてしまいました、模型制作が~(泣;)
夏の思い出(その2)...戦前牧之原台地にあった、大井海軍航空隊、飛行場跡地です。
白菊の発動機等が置かれている、”牧之原コミュニティセンター”の正面から東方向を眺めると(...というかセンターが建っている場所も含めて飛行場跡地のようですが)、
コンクリート製の頑丈な建物が見えます。
旧軍の施設だったそうです。
建物の周囲はフェンスで囲まれて、雑草が茂っていますが、
さらにその周り一体はお茶畑が広がっています。
この建物、現在は独立行政法人の所管になっているようです。
こんな頑丈そうな施設で、どんな方々が軍務にはげまれていたのでしょうか...。
この近辺には、雑草に隠れながらも数々の古いコンクリート製の構造物が見られます。
ネットで調べて見ると、朝礼台の跡、とか...地元で研究されている方のHPもありました。
少し歩いてみると、民家の脇に、コンクリートの低い塀のようなものが...
陳腐な表現ですが、”つわものどもが夢のあと...”
飛行場の大部分は、矢崎の工場の敷地や茶畑になっているようです。
ここから車で表に移動してみました。
道路沿いに、このようなモニュメント?がありました。
(JR金谷駅の方向に向かって、右側です。道路の向かいには閉店した元コンビニの駐車場があります。)
白い翼を背景に、桜にイカリ...「大井海軍航空隊之跡」と記されています。
台座には、”祈平和 ”。昭和57年に建てられたものです。”大井空同釜会”とあります。
ここが正門の跡地のようです。
コミュニティセンターとの位置関係も、地図でわかりました。
(...子供の頃、母に「牧之原には飛行場があってねえ」と教えられ、その存在は知っていたのですが、今までどの辺りにあるのか知りませんでした。
この道路も、頻繁に車で通っていたのですが...)
この道路も、頻繁に車で通っていたのですが...)
先日、実家に行ったときに母に飛行機を見た記憶があるか、聞いてみたんですが、
「飛行場で、何人かの兵隊さんが飛行機を押しているのを見た記憶がある」と言っていました。(畑が近くにあったので、よく行っていたようです。)
飛行機の色は...白だったか、水色っぽかったか...。(母は昭和15年の早生まれなので、当時で3~5才...覚えてませんよね~(^^;)
しかし、多分、機上作業練習機「白菊」とか、見ていたのでしょうね...。
...そんなことを思いつつ、記念碑とともに一枚、
、14年式豊号兵員輸送車”桜葉(おうぱ)”...
...トヨタ”オーパ”です(^^;)
ヨーロッパ戦線に投入されていたら、”欧覇”、とか!(爆)
(おまけです...)
富士山静岡空港が悩まされている、”濃霧”対策に設置された多数の霧散対策ファン!
...ではなくて、茶園の霜対策用の”防霜ファン”で~す(^^;)。
こういった記念碑や建造物が史跡として後世まで大切に維持・保管がされていくと良いですね。
KP様と同じく、このままの姿で後世まで・・と思わずにはいられません。前記事の貴重な画像の数々にも見入ってしまいました。
墜落した物が多く、勇ましい姿より悲惨な姿の方が多かったっと一言聞いた時は、私も思うことがありました・・。
そう言えば、私の近所にも奈良の天理辺りにも旧陸軍(たぶん)飛行場があったと聞いた事があります。今度ちゃんと調べてみます。
私が努めていた某社の春日井市にある工場も陸軍工廠の跡地で、我々の配置場所は正に1枚目の写真にそっくりな分厚いコンクリートの建物でした。
もちろん戦時中に使用していた建物で、変電所だったと聞いています。(時代的に窓のデザインなど共通性があるんでしょうね)
工場内には機銃掃射の跡が残り、また外壁には「陸軍の施設につき写真撮影禁止」というお触書きが残っていました。
今、こうした戦跡は次第に壊されつつあり、保存の声があがっています。
ホントこのまま保存して欲しいものですね♪(^^)
でももちろん、ご本人の気持ちに配慮し、無理のないようにすべきですよね。
>機銃掃射の跡!実際に目にしたら、なんともいえない思いが沸いてきそうですね。
頑丈なコンクリートの外壁なら、こちらの建物にも風化せずに残っているかもしれませんね。
耐震化のため、歴史的な建造物が壊されていくのは複雑な思いがします。