わたしは、蜘蛛はウザい虫を食べてくれるので有り難く思い、
加えて、ちっちゃいあのピョコピョコ跳ねるヤツはカワユイなぁと思うくらいですが、
わたしの「G」のように、生理的にマズい人はみないでください。
わたしですら、最後にはちょっと背筋が凍るような展開になりました。
「ナカタ、引き籠もってとうとう蜘蛛しか友達がいなくなった」と言われるくらい、この数日は寝るのを惜しんで蜘蛛を観察しておりまして。
とりわけ玄関から降りていく階段のうえに巣を張って「夜勤」されている、灰色で背中に白いアクセントをあしらったオサレなおっきな蜘蛛がベストフレンドです。
昼間は、影にひっそり潜んでいます。これ何という蜘蛛でしょうか。ググっても出てきません。
この「マブダチ」。
3日ほど前に、前から興味のあったカメラの世界を垣間見たナカタに、いろんなことを教えてくれます。
どうやったら暗い夜に、この見事な幾何学模様の巣の美しさを捉えればいいのか。
カメラも資料撮影用が目的なので、コンデジに毛の生えたようなPanasocic GF10の25mm単焦点です。
「とにかく50mmの単焦点レンズで何万枚か失敗しろ。アタマを死ぬほど使え。写真に何の情報も過剰ではなく不足もしていない画角を、まずは自分が動きまくって撮れ」
というMacintoshとカメラにおいては元いた研究室で無双だった同僚の教えをアタマに、いろいろ失敗しまくってます。
そんなこの彼だか彼女だか。
昨夜も夜中に一人、誰もいない農園地帯で「もちっとこっち向いてくれんかなぁ」とか「よく見るとナカナカにその背中の白いアクセント、イケてるねぇ」とか不審者丸出しで失礼なほどシャッターを切っていたのですが、
ちょっと一昨夜からもっと手近なところで一軒家を建てられた別の蜘蛛に気を移しておりました。
その間に、そのマブダチには人生に多大なる出来事が起こっていました。
体よりデカい蛾が引っかかった模様。
よくもまぁ、巣が引き千切られなかったと感心します。
みるみるうちに「たたんじゃいな」と速やかにパッキング。
「これはいまからゆっくりと食べるのか?」、とか、
「この量を食べて大丈夫か?」などという心配をよそに、何やらさらにパッキングを丁寧に。
どこかに郵送するから小さくまとめて料金を節約しようということでしょうか。
そのうち、何も動かなくなり。
・・・「食い過ぎだ」
・・・「!」
「これはともすればここから産卵(ではないな。卵は産まないから)するのか?」
などと持久戦でパーカーを羽織ってじっと小一時間くらい見上げていたものの、
首が痛くて眠気に勝てずに寝てしまいました。
昨日起きたのは午前二時。夜の八時くらいまでかれこれ18時間くらいぶっ通しで原稿書いては捨ててましたので、いい加減疲れました。
今朝、ハッと目覚めてもちろんただちにコーヒーを入れてみにいきましたら、
おそらく壮絶な死を迎えられていました。少なくとも十数分間は微動だにしません。
上半身より格段にデカかったパンパンのお尻がおそらく無くなっています。
これは何という蜘蛛で、どのような出産をして、何をもって生命を終えるのか。
あるいは蛾が、食べられたとしても何がしらかの毒性の分泌物で蜘蛛を凍らせたか。
今朝も何も変わらず、朝からミンミン蝉とヒグラシが、もう勤務シフト完全無視して働いていますが、
なにかその傍らで、壮絶な人生が展開されていたようです。
さすがに締め切りは8月末なので、いま書いている原稿、もうこれ以上納得いかなくても強引に文章を繕って仕上げにかかります。
諦めてちょっと仕事に専念します。
歳食うと、こういうことができるから嫌になります。
スカスカなモノしか書けなくても、それなりに小難しいことやった仕事に見えるんですよね。
タイトルは「ラテンアメリカはどのような第三世界だったのか」
たたき台はヴィジャイ・プラシャド『褐色の世界史』(粟飯原文子訳、水声社、2013年)。
手に余る傑作です。
すでにゴミ箱行きの原稿用紙が160枚。
アタマから煙が出ております。