Blog ©ヒナ ─半径5メートルの毎日から見渡す世界

ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

半径五メートルのSDGs

2021年08月19日 | さいたま市(緑区)を満喫する
 この夏休みの課題である作文にチョット要り用で、この数日、日の出とともに起きて健康的に散歩し、斎藤幸平を批判的に読んではノートを付けている。
 
 そりゃもちろん、斎藤先生の方がマルクスを深く理解されているし、エコロジカルな資本批判の議論は確かに斬新か。
 
 でもナカタには、絶対に「これで話はおしまい」にみえない。
 
 ぜってー、彼がかくもシツコク議論で触れないようにしているとしか思えない、
 
 20世紀後半の「新大陸」まで、ブッ飛ばしてやろう。
 
 でも、誰かの考えを聴こうというときには、欠落点でもって「読むに足らない」と早々に見切ってもただの時間と労力の無駄である。
 
 使える部分を探して自分の思考の肥やしにする方がよっぽど健康的で生産的だというのが、ナカタの読書の基本姿勢。
 
「この行き詰まったパンデミックの現状下でこそ、〝実践の著〟が活きる」──なるほど。了解。
 
 ということで、半径五メートルのSDGsを実践中。
 
 「Goals」は「夏が終わるまで毎日新鮮な青紫蘇を料理に添えて幸せな食事を愉しむこと」
 
 
 
「そうして自然から生き延びるためのものをサステナブルに奪い、こちらは対価として数匹の蚊に1mlくらいの血液を吸い取られる」。しかも最低3カ所というもの凄い「土地の使用権」の搾取だ。
 
──これは「ブル・シット・ジョブ」なのか。
 
 でも、以下の諸点は無視し得ない。
 
・たしかに、青紫蘇は他人が私的所有する土地に生えている。
 
・その土地の上に実った青紫蘇は、地主が毎日農道へハミ出たので無造作にブッチギって落ちてる、あるいは虫が食って穴だらけのだけを持ち帰っている。
 
・たくさん採ることはしない。次の日、また瑞々しく大きな葉っぱが生えるくらいの枚数だけを毎日摘んでいる。
 
・わたしはこの地主の農奴ではない。
 
・だからといって地主は青紫蘇という生産を通じてわたしから剰余価値を得ているわけではない。
 
 ならばこの生産様式は、いったい何なのだ?
 半分はふざけてるけど、半分は本気で言ってる。
 
 
 ラテンアメリカの周辺農村部は、19世紀初頭に国家として独立した。
 
 20世紀に入る頃には、イタリアやドイツの資本や技術援助によって、土地は私的所有化され、多くの貧農たちが大規模プランテーションに、賃金の前借りあるいは国家からの強制労働を回避するために、自ら囲い込まれた。
 
 囲い込まれても、その土地に自給用の作物を勝手に植えて、マルクスの言う労働の「第一の自由」ではあったものの「第二の自由」ではなかった。
 
 それがゆえに、20世紀初頭のラ米諸国家は、底辺単純労働者層が「自由な労働者」ではないとイライラし続けた。つまりは経済学でいうところの、労働に関する「後方屈曲供給曲線」を描いていると映るからだ。
 
 一方、プランテーションで働く側も、喩え十分な主食用の農業を営めても、生活はもちろんギリギリである。決してそれは、規模拡大できる農業にはなり得ない。
 
 農村部の貧困層、怒る。
 
 地元の左派インテリ、それをみて怒る。
 
 『資本論』の言うとおり「やはり資本主義ではないこれから』を、『まだみぬ将来の道標』を探させろと武装蜂起する。
 
 で、ほとんど失敗する。
 
 たとえ、革命として成功させても、次の日から「なだらかな死」へとちゃっかり歩みはじめる。
 
 『資本論』、自分なりに読んで自分の社会なりに組み替えて実践したのにぃ。。。
 
 どこから間違ってたんだ?
 
 ・・・などと世間は朝でバタバタしているなか、まったく剰余価値を生まない「労働」を朝から。
 
 蚊に流れていったわたしの血と引き換えに課された「かゆみ」をポリポリ掻きながら。
 
 
 
ちなみに、このおっきなガラスのボールとトングはこのために買いました。
仕事しながらポップコーン食べると、ポロポロこぼすし、手も汚れる。
DAISOで600円も奮発しました。
昨日夜の「コロナ禍ならば半径五メートルをDIYすればヨイ」活動の一環っす。
ヒマそうにみられてますが、じつはいそがしく。
「ネコの手も借りたい」
↑これが言いたかっただけ。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。