類人エン(さすらいの詩~砂一詩集)

旅の終わりにこそ続けて流離う。
遠回りの道。
迷うな!それが真の勇気。
無限の嘆きは感謝。
神への祈りだ。

原色の街から その八 

2018-01-21 16:18:54 | Weblog
原色の街から その八 

チャイニーズと日本人は水と油の関係と評する日本の学者がいる。
チャイニーズの大雑把なふるまいや粗暴な仕草やデリカシーのない横柄な態度は日本人には我慢がならない。
その違いに日本人は寛容にはなれない。
そして、中国の発展が随分と遅れて旧態然とした一党独裁の封建制が多くの民衆の民主的価値観に触れることなく、理解することもなく独自の世界を作っていることからだ。共有できない文化格差がチャイニーズと日本人を引き離している。
その中国が20世紀の最後にようやく国を開放し、経済改革を強力かつ積極的に進めた結果、21世紀に入るとGDPが世界のナンバー2までにと目を見張るような大いなる発展の成果を上げた。一億円以上の財産保有者が4億人以上と言われるまでになっている。
今、敢然と立ち上がったチャイニーズは一貫した愛国教育を行い、富国強兵へとまっしぐらに突っ走っている。
西欧のあらゆる先進的文化は積極的に戦略的に受け入れるが一方では西欧文明は大敵との教育を同時に実施する。
一党独裁政府は貧困も含めて悪しき事全ては西欧列強の侵略によって被害を被ったからとの論法で悪いこと全てを西欧先進諸国と言う外敵の所為にしている。なるほどこれほど独裁国家にとって都合のいいことはない。民衆の不満を解消し、施政者に為政者へ直接向かわせないする手段として多くの国家が採用するプロパガンダである。独裁国家にとっては民衆の不満と反乱こそが脅威となる為、特に体制維持のためには民衆の目を晦ます必須の最善の道具となる。独裁国家は通常、独裁者の考え次第でどうにでもなるから都合がいい。故に歴史教育を徹底する。特に封建国家としてどん底にあった近代史は確かに外敵の汚辱の史実が存在する。その最初がイギリスである。1840年のアヘン戦争から中国は辱められ、蹂躙されるスタートを切ったのである。そして、1945年の最後に最後まで土足で居座った一番身近な敵として生きた教材として生々しく語られるのが他ならぬ我が日本国と言うことである。およそ100年余りの間に起った外敵から受けた確かな屈辱なのだ。
自国の悪政を問わない。そこが現代のチャイニースの対外的歴史問題の原点となっている。即、チャイニーズのアイデンテイの一つの精神的拠り所となっている。その為により強く愛国に傾斜し、富国強兵への強い願望となっているのである。その効果はやはり絶大と言える。国威発揚はこの古い新興国家には欠かせない。
1978年から始まった改革開放政策の成功と同時にそれらは更に強化されても緩むことは決してない。天変地異や戦争など国内や世界に大きな変動が起こらない限り、共産党一党独裁政府の基本方針と政策は変更されることはない。
そして、更には中国はグローバル社会において早くから核はおろか海底戦争や宇宙戦争も見据えた広大で深遠な長期戦略を推進している。それは中国の歴史始まって以来の大いなる挑戦であり、実験であろう。皮肉にもかつて世界一の広大な領土を征服したのはモンゴル族の皇帝と満州族の皇帝であったが中国共産党政府は漢族としては初めての挑戦となった。


原色の街から その七 

2018-01-20 23:24:54 | Weblog
原色の街から その七 

独りの世界にどんどん入り込んでゆく。これ本望と言えたのだ。二十歳の青春時、三畳一間で人生に失望し、一人悶々としてうな垂れ、ウイスキーを抱えて横たわり、真正面から自己糾弾していた頃のことが今、再び頭を擡げているようである。そして、その時のその顔色も生気がなく、歩く姿も幽霊の如く死人そのものであったと後に友人が評した。
体のエネルギーが迸る時期に太宰治の書を抱えて自己否定して酒を呷ったことが今、思い出される。ただ今は老いぼれてしまった体を持て余す。錆びついて動かなくなった機械の操作と処理に戸惑っている。
あの頃は太宰治の悲哀の美酒に完全に嵌っていたが今は麻薬のような飲み物も見当たらない。あるのは自分に自分で自分を𠮟咤激励する。退化し、老化した体に鞭打つだけなのだ。
あの頃は新宿三丁目近くの東京砂漠と言う風景と向き合っていた。
そして、絶望に打ちひしがれた情熱を唯一の救いの太宰治の芸術の美学に求めていた。
絶望の美に酔うことができたのだ。
今はその日本の日本的なものの影さえも見当たらないのだ。
たとえ青春の絶望の海にいたとしてもここチャイナには日本文化も太宰治の書さえもない。あるのは時計の時を刻む音、自分一人の息遣いのみである。
あの時は少年のころケガをした後遺症にも悩まされていたが今はようやくその後遺症の発生も少なくなっている。
生きていくと言うことは過去ばかりに捉われては生きづらいということである。前を見て、そして前を見て力のある限り歩き続けると言うことである。動物のように動物らしく生きるのである。そうすれば全てのしがらみを断ち切ることができ、その時に初めて自分らしくができて笑顔を作れる。そして、もっと人間らしくなることができるのかも知れない。
人間は環境の動物と言う。違い過ぎる異国チャイナの文明環境で生きる時には多くの元来もっていた良質な日本文化を捨て去り、多くのざらざらとした砂のような異文化に自らを投げ出すと言うことなのである。つまり、もう一度、赤ちゃんに戻り、動物に回帰して異文明の環境を受け入れるということになる。
しかしながら30年と言う長い年月を異文明の中で送るということになると寧ろ、研ぎ澄まされた濃厚な伝統的日本文化、偉大なる日本文明こそがより力強く新たに生まれてくるのである。
そして、パーフェクトに日本語で考え、日本語で書き、更により多くの日本文明を敷衍発展させるのである。


原色の街から その六 

2017-03-18 16:33:51 | Weblog
信介は思い起こしている。偶然の紹介からその船に乗った留学だったことを。よりによって大国中国を考えることなく選んでしまったからだ。
日本人としては死を意味した選択だった。
意義をなさない選択だった。
そこでは日本人と言えばジェラシー、妬み、恨み、敵視・・・細い目で斜視にしか見られていない誠に不愉快な環境だったからだ。
信介正直、訪れて初めて理解しなければならなかった。戸惑った。
そんな不毛の地には違いなかったが今日まで行き着くところまでこの国を離れなかったのは大きな経済格差のなせる業であったろう。しかも異文化異文明に身を置くことで実際には直接、日本人のあく抜きと開放感を味わっていたからだ。
途中、祖国にも何度か帰った。アメリカにも渡った。しかし、何時の間にか反日のこの国に戻っていた。
これは「ご縁」としか言えなかった。
中国人の友好とか友情が全く存在しえず、愚民として飼育された封建的な思考形態の古代民族の世界。民主主義の文明の価値観を共有できないハングリーな独裁国家。上げればキリがない。理解すればするほど嫌いになる。とことん理解したからこそ離れねばならなかったのだが離れなかった。何故、こんなに嫌っていたにも関わらず離れられなかったのか?一言、機会を失った。それだけだったろう。
一度、ムラを離れると簡単には戻れない。ムラ自身が排除するからだ。ムラがそう簡単に受け入れないからだ。祖国を思えば思うほど祖国は拒否反応を示す。皮肉としか言えないがこれが現実である。
日本人世界は相場が決まっている。日本人なら日本から離れてはならないのだ。落人、流刑、島流し、お国替えは日本の伝統であり、核心なのだ。死んでも離れてはならない。厳しい世界である。まして自ら望んで離れてしまっては瀬がない。言わずもがなである。しかも反日の国などに行ってしまっては何の評価も得られない。更には信念のない旅なら尚更である。
凧の糸が切れたのである。
だからご縁でこの国に住み込んだのである。

原色の街から その五 

2017-03-12 23:21:25 | Weblog
時は流れ星。4年が過ぎた。東京の子は中学二年生に終わりを告げていた。公立の小学校から公立の中学校。そして、一年後に公立の高校を目指している。学業はクラス10番手。希望の学校への進学は闇の中だ。ごく普通の歩みだが運動神経が鈍くてケガばかり。これと言って取柄はない。ただ父信介より既に背が10㎝ほど高い。この間、信介は体力が著しく衰え不安定になっている。狭心症で手術を余儀なくされすぐに東京の病院で行った。病室に横たわった姿を子がキラリと見つめていた。一つには中国生活の悪環境の食生活が災いとなった。もう一つには運動不足。更には精神的なプレッシャーと不機嫌な精神状態だった。
「死活」からの脱出に赤信号が灯っていた。未だに混沌とした嵐の海に彷徨う一隻の船の船底に身を横たえていた。
生きる勇気はコーヒーや緑茶などの嗜好品とチョコレートやかりんとう、クッキーそして、羊羹などの甘味品に縋った。勇気はカフェインに頼った。ストレスは甘味品に頼った。弾き出され、行き場を失った人生の行き着く先は反日の異国だった。二度、三度、幾度も国境の淵の死線を彷徨う。
とことん行き着くところまで行ったのだ。覚悟はとっくに決めていた。ただもう少し命を繋がねばならないと奮起している。
幼き子は20歳になるまで死なないでと言った。そうすればあと6年あるのだ。できる限り繋がねばならない。
腹6分目の健康食事と適度の歩行の実施で繋ぐ。あとは仕事を繋ぐ努力を続けられるかで決まる。心臓病の再発や他の病に侵されたときはそれまでだ。考えても無駄だ。限界が迫っている。ただそれだけだ。

原色の街から その四

2017-03-09 19:42:17 | Weblog
現地で生まれた我が子と共に暮らした5年余りの日々は多少のこと、つまり食品汚染、環境汚染、言葉汚染等々の情況と精一杯抵抗し、闘っていたから逆に実感が薄かったのかも知れない。つまり、子供の光放つ輝きとエネルギーがその全てをかき消したからだろう。生きる望みと力を全身に感じた年月だったからこれらの汚染に対する憎悪を跳ね返せたのだ。そして今、嵐が過ぎ去った後の廃墟のような佇まいに一人ポツンと取り残されていたのだ。
だからそこに広がる光景が信介には正に恐怖となったのだ。既にそれらの汚染を突っぱねる力が自分に見出せないのだ。更にはそれらの汚染が一段と力を増して信介に襲いかかっている。
部屋の窓辺からチャイナの街角を垣間見ただけで恐怖を感じている。この感覚は正常であるはずだ。だが今となっては他の選択技はないのだ。ここでこれからも一人生きて行かねばならない。そのことにはそろそろ覚悟に似たものが信介の脳を過ぎる。ここで一生を終えるのだろうとの意識が芽生えていることを背に感じている。背に感ずるのはそのような人生を背負ったと言うことに違いない。
ともあれ中国人よりも汚いものを見て、中国人よりもそれらを憎悪してここで一生を終ると言うことなのだ。
それでも自分がここでは異邦人つまり、外国人と言う身分故に一抹の希望があるように何処かで感じている。時にはこの身分が心地よさを与えている。ブルジョワでもない、もちろん、上流階級でもないのだが一種の身を隠す避暑地のような空間を辛うじて逃げる場所のように与えてくれているからだ。
そして、何処の場所、何処の世界、何処の土地、何処の国で生きようと一つ必要なことは「勇気」に違いないのだ。それが失われれば土砂の如く濁流に流され、ゴミの如く焼却場に破棄されるだろう。
そうなのだ、それは「死活」なのだ。死活問題なのだ!