類人エン(さすらいの詩~砂一詩集)

旅の終わりにこそ続けて流離う。
遠回りの道。
迷うな!それが真の勇気。
無限の嘆きは感謝。
神への祈りだ。

原色の街から その三

2017-03-06 22:37:56 | Weblog
その三

このように下卑なところがこの世に現実に未だに存在すると言うのだろうか!
トイレは流さないのである。男性も女性も大便がそのまま残っている。小便の便器はそのまま痰壺になり、タバコの灰皿になり、何時も詰まっている。

トイレから出てくる男女全ては手を水で洗って手を空中にぶらぶら振りながら出てくる。空干しである。自然干しなのだ。
男性トイレのドアの内側には女性器をアップした落書きがあり、案の定タバコを押し付けて中心部が黒くなっていて破られて穴が開いている。
恐らく昔、子供のころ信介の日本の田舎の何処かで目にした光景だったかも知れない。うっすらと記憶が過る。

街へ足を運べば町のど真ん中のストリートで容易に目に飛び込んでくるのはお母さんに看取られて小さな子供が所構わず尿や便をしている。
しかも通りの路面は斑に汚れが染みついて一種独特の匂いが漂っている。
さっきのオフィスビルの中のトイレから漂って廊下に広がっている匂いが連想されて奇妙にも同じ味わいが重なる。
そして、通行人はポイポイと紙くずや不要物を平気で道路に投げ捨て散らかして通り過ぎる。それが皆、自然の動作なのだ。平気のへっちゃらなのだ。

この町は今では発展する中国の三大都市と呼ばれて大都市化の道をまっしぐらに走っているかなり有名な地方都市なのだが。結局、信介が一番腰を長く落ち着けることになった所だったから寧ろ憎しみの方が強い。つまり、中国人の気持ちを代弁できるほど生活の愛憎が理解できたのだ。但し、信介が目に止まったこれらの情景は普通の中国人には気がつかない。当たり前過ぎて誰も気にする人はいないのだ。恐ろしいほどの実態に、信介は出くわしている。もしかして信介自身もこのような現実に気付いたのはつい最近のことだったかも知れない。このような環境にはっとし目を丸くし、一人恐怖に陥ったのは信介が我が子を東京に進学させた後のことだった。

原色の街から その二

2017-03-06 07:46:13 | Weblog
その二

住めば都と言う。だがここは住めば地獄である。同質の価値の共有がないから別世界へ降り立った感覚である。自然風景・雰囲気風情・人の顔・人の様子・行動様式・食品と食事すら異なる。
猿の惑星と言うのがあったがそのような別の宇宙が存在する。特に日本からはあまりにも遠過ぎた環境と言わざるを得ない。
ただし、一面を見れば到底受け入れがたいがそれが視覚をヨーロッパ大陸からユーラシア大陸全域に東へとずらして行けばその広がりの中でこの大陸文化・文明を再考すれば妙に納得がいく。環境の異なりは容易に受容できるから不思議である。
信介のように日本主義で凝り固まり、日本文明至上主義者となっているからにはそれは到底理解できない。
島文化特有の自然感覚と情操と思考の構築は大きな太陽と太平洋の潮から形成されているからだ。
しかも独立した独自の神を崇める環境で育った。
まして、信介はこの大陸にやってきて時の流れを幾夜も繰り返し、半生を送ったところだからこれ以上の理解はない。評論家のように評論している訳ではないのだ。
そして、頭を過ぎる。人は死の直前に三度、寝がえりを打つのだと・・・。
死を選ぶためにこの大きな大陸へやってきたのではない。寧ろ、生を選択したからこのように大陸と真正面から相撲を取っているのだ。
そうなのだ、生きる為に信介は自問自答し、苦悩し、戦い、繰り返し一つの挑戦をしているのだ。
だから今、信介の存在が実体として姿を現しているのだ。
そう、生きるためにだ。
そして、遠くの平原の彼方に目をやり、その目を細め、その目が茫然と風呂敷を広げたかのように焦点も拡散する。

原色の街から その一

2017-03-05 20:22:18 | Weblog
原色の街から  (2012年03月04日11:29 )
その一

中国のジャングルに深入りし過ぎた。
失意だけが信介を襲う。
何処を見渡しても無限の砂漠地帯が広がるばかりだ。
溜息すら出なくなっている。
つまり、極限状態に立っているからだ。
追いこまれ、突き放され、無視され、友と共にすする祖国の水が断絶してしまった。

海辺を思い出し、砂に埋まっている小さな貝がらを探している・・・。
また、ここへ訪れる日が来るの?
さざ波の音は生きてることを、希望を、勇気をくれる。
そっと、耳を傾けてみる。
きっとまた、ここへやって来る日があると思う。
海の潮を肌に受け、波の音を耳に感じ、魚の匂いが漂うそんな風景に立ちつくす自分を眺める。

だがしかし、信介がいる大陸にあるのはただ残酷な馬の蹄の音と金属音だ。
そして、砂煙・砂塵が舞う。
でもどうしても帰らなければならない。来た道を戻ればいいのだ。道標もなくていいのだ。魂の故郷へと本能が道案内する。
荷があろうが無かろうが命辛々でいいのだ。

一匹のサンマに感動するように郷里が、祖国が信介を呼び続ける。

幻想日記

2017-03-04 23:11:18 | Weblog
新たなブログへと筆を進める。
それはトライだからさ。
生きてることそのものがトライだからさ。
だから出発は何時も訪れるのだ。

果たしてこのGooのフリーブログから何が発信されるであろうか。
筆者自身もまだ分からない。
兎に角、新しい船に乗船したかのように晴れ晴れとした気持であることは確かさ。
そうさ、その気持ちを大事にしてきたのではなかったのかい?
それを人生だと思い込み・・・!
喜望峰も大西洋もだ。太平洋もだ。
バスコダガマ・マゼランはこの地球から発したのだ。
この大地から櫂を漕いだのだ。

地球も、宇宙への旅も既にこの地球の人類の共通の財産となったのだ。

アメリカが背負ったもの。ロシアが再び背負おうとしているもの。そして、チャイナがそのプライドをかけて主張しなければならないものはこの地球上では必要不可欠なのだ。
そこで果たして日本は主張し、発信できるのだろうか?
地球を背負うと言うことは一体、何であったのか。
その責任と限りない葛藤と戦いは無限で永久なのだ。
ならば一体、日本は何を背負おうとしているのか?
何を一体、背負ったと言うのか?

否、日本は地球に人類に多大の貢献をしている。
そう確信している。
そして、これからもと考えている。
日々の戦いは実に獰猛でパワフルである。
いざ、日本は日本に負けてはならない。
日本は地球上の全てのパワーに怯んではならないのだ。
勇敢でなければならない。
しかも積極的な合作を躊躇してはならない。
そして、戦略を駆使しなければ淘汰される。

科学文化の発展。
政治外交の戦略の進化。
譲れないことはまだまだたくさんある。
だからこれからなのだ。
後ろを向いている暇などはない。
だから何時も出発が必要なのだ。
国家も地球も人類も皆、同じさ。

だからこの私一人の中でも出発は一生寄り添うのだ。
つまり、それは人生の最愛のパートナーだからさ。


筏に揺られて

2013-05-05 22:00:52 | Weblog
水浸しになった筏の上でしがみ付く。

この海は不思議な風が吹き、どっぷりと湿気に包まれる。

その90度以上の湿度が体を冷やす。

気温は決して低くはない。

寧ろ高めである。

南の風が冷たいのである。

これはどこからの偏西風?

恐らくエベレスト下ろし?

アジアの風だ。

インドシナ半島からの吹き込み?

もしかすると南シナ海からの赤道の熱帯雨林の風?

3月4月5月とこのシーズンはこの地方を湿度の地獄へと落し病気を呼ぶ。

春なのによく冷える。

水分が冷やすのだ。

さあこの海をずぶ濡れになりながら乗り越えてゆく。

アジア諸国行脚のタイムトンネルへと。