類人エン(さすらいの詩~砂一詩集)

旅の終わりにこそ続けて流離う。
遠回りの道。
迷うな!それが真の勇気。
無限の嘆きは感謝。
神への祈りだ。

原色の街から その七 

2018-01-20 23:24:54 | Weblog
原色の街から その七 

独りの世界にどんどん入り込んでゆく。これ本望と言えたのだ。二十歳の青春時、三畳一間で人生に失望し、一人悶々としてうな垂れ、ウイスキーを抱えて横たわり、真正面から自己糾弾していた頃のことが今、再び頭を擡げているようである。そして、その時のその顔色も生気がなく、歩く姿も幽霊の如く死人そのものであったと後に友人が評した。
体のエネルギーが迸る時期に太宰治の書を抱えて自己否定して酒を呷ったことが今、思い出される。ただ今は老いぼれてしまった体を持て余す。錆びついて動かなくなった機械の操作と処理に戸惑っている。
あの頃は太宰治の悲哀の美酒に完全に嵌っていたが今は麻薬のような飲み物も見当たらない。あるのは自分に自分で自分を𠮟咤激励する。退化し、老化した体に鞭打つだけなのだ。
あの頃は新宿三丁目近くの東京砂漠と言う風景と向き合っていた。
そして、絶望に打ちひしがれた情熱を唯一の救いの太宰治の芸術の美学に求めていた。
絶望の美に酔うことができたのだ。
今はその日本の日本的なものの影さえも見当たらないのだ。
たとえ青春の絶望の海にいたとしてもここチャイナには日本文化も太宰治の書さえもない。あるのは時計の時を刻む音、自分一人の息遣いのみである。
あの時は少年のころケガをした後遺症にも悩まされていたが今はようやくその後遺症の発生も少なくなっている。
生きていくと言うことは過去ばかりに捉われては生きづらいということである。前を見て、そして前を見て力のある限り歩き続けると言うことである。動物のように動物らしく生きるのである。そうすれば全てのしがらみを断ち切ることができ、その時に初めて自分らしくができて笑顔を作れる。そして、もっと人間らしくなることができるのかも知れない。
人間は環境の動物と言う。違い過ぎる異国チャイナの文明環境で生きる時には多くの元来もっていた良質な日本文化を捨て去り、多くのざらざらとした砂のような異文化に自らを投げ出すと言うことなのである。つまり、もう一度、赤ちゃんに戻り、動物に回帰して異文明の環境を受け入れるということになる。
しかしながら30年と言う長い年月を異文明の中で送るということになると寧ろ、研ぎ澄まされた濃厚な伝統的日本文化、偉大なる日本文明こそがより力強く新たに生まれてくるのである。
そして、パーフェクトに日本語で考え、日本語で書き、更により多くの日本文明を敷衍発展させるのである。


コメントを投稿