日々、己のやる気のなさに、自棄気味、無為。
この気怠さは、なんだ。
遠方に住む息子から電話があり、ふらりと、そんな心境を言うと、夜12時半ごろまでに寝ることだ、と言われた。
なんとなく、然り。
夜、遅くは、ろくなことはない。
にもかかわらず、深夜、というか、午前2時。
風呂上がり、氷を入れた水をコップにいっぱい。
キュウリと大根と茗荷のピクルス、皿にいっぱい。
モーゼルの安白ワインとグラスを持って、座る。
歯はまた磨けばいい。
キュウリの歯触りが、なんともいい。
かっこいいことなんて、書こうなんて、考えちゃいけない。
そもそも、感覚だけの人間で、極めて論理的でもなく、説得力のある文章を書けるわけでもない。
よしっ!
少年翔の話しを、少し、してみたい。
翔は、ずっと、私の心の裡を徘徊し続けている。
工藤純子が書いた『セカイの空がみえるまち』には、少女空良のほかに、もう一人主人公がいる。
それが、ずっと、もう、実は数年も、私の心の裡に徘徊する少年、翔だ。
翔には、母親がいない。
だいたい、母親がだれかも分からない。
母親の国籍も分からない。
翔は、東京、新大久保に住んでいる。
父親は、妻を幾度となく替える。
その度に、翔の母親の国籍が異なる。
新大久保というところは、そういうエリアだ。
つまり、インターナショナルな地域だとも言えるが、アジアや中東から日本へ働きにきている人が居住する地域である。
工藤の物語に描かれる翔は14歳、中2の少年である。
その彼の父親が大家のアパートには、民族や、性や、思想や、多種多様な、年齢もバラバラな人たちが暮らす。
そのアパートの一室に、翔は一人で暮らしている。
翔もまた、家族、具体的には父親を捨てた子どもである。
しかし、いとうみくの『カーネーション』の主人公、日和と翔の違う所は、つまるところかなり主体的な意志というか、意図的というか、目指すところというか、その意識の違いがあるように感じられる。
日和にとって、母親を捨てるのは退却ではなく、前進するために、これしかなかった。
14歳の少女が、自分を産んだ母親との関わりを、捨てる決意をする。
主人公日和のその諦観への究めは、なんとも辛い時間の果てではあるが、読者の私は、その決意を選択した作家に正直、驚きつつもも、従来の児童文学を越えるものだと思った。
一方、<父を捨てた、翔の場合>に、ついても、かなり、しつこく、しつこく、考えるきっかけにも、なった。
比較するのではない。
あらためて、確信するのである。
文学とは、個別を描くことだと。
ひとクラスに三〇人いれば、三〇通りの物語が、あるのだ、と後藤竜二は言った。
その通りである。
『セカイの空がみえるまち』には、翔の、個別の物語が、ある。
翔の場合について、考えてみたい。
翔は、ある意味、理不尽な状況に、ここにしか退却する場がなかった、のかも知れない。
だから、翔は、屋上で自分を取り巻く父親の過去を、金さんのから聞くという、場の設定へと繋がったのかも知れない。
金さんは、退却でいいのかと、翔に問うのである。
父親に、過去に於いて、いかなる心裡が潜んでいようが、翔が於かれてきた状況の、なんと辛いことか。
だからといって、翔は、己の日常を捨てていない。
部活の野球との関わり方。
アパートの住人面々との関わり方。
新大久保の住人たちとの関わり方。
空良への関わり方。
彼は、決して後ろ向きというわけではなく、むしろその対峙の仕方は、真摯というべきだと思うのだ。
そういう14歳の少年の持つ自意識、その強さと、その脆さ、その諸刃がとても、読み手の心に刺さるほど、よく描かれている。
決してセンセーショナルなテーマに追従することを由としない、工藤純子の作家力の奥行きに感嘆するし、児童文学への思いの深さを知る。
『セカイの空がみえるまち』と『カーネーション』
これほどに、衝撃的に、家族とはなにか、父とはなにか、母とはなにか、と問う物語は、なかなかない。
二人の作家が、いみじくも、描いた世界。
一人の少女は毅然と母親を捨てる決断をし、一人の少年は父親を捨てた自分に苦悩しその事象を問う。
まさに、それぞれの物語が、ある。
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