映画『15時17分、パリ行き』日本版予告
今日、ようやく観に行ってこれた!
主役の三人は、小学生の時は、学校サイドから問題児扱いをされ、そのうち2人の少年スペンサーとアレクは、ADHAとかなんとか決めつけられ、治療や投薬をしてもらうように教師から言われる。もう一人のアンソニーは黒人。(この子役が、なかなか良い役者で、良い演技をするんだよね)
スペンサーとアレクの母親が、「なんでも薬で解決できると思うのか!」と、学校サイドへ、断固ガツンと反論する。
この母親たち、すっごくカッコよかった!!
例えば「ADHA」という語彙によって、なにか了解認識のようなものを得たように、子どもたちを、分析してしまうのは、恐ろしいことのように私は思う。
いやだね。
「当てはめる」論理って。
当てはめる方は、至って楽かもしれないけれど、当てはめられる方は、たまったもんじゃない。
少年三人の生い立ちというか成長のプロセスが、とても丁寧に描かれていて、単にテロリストのアクション物映画というように期待していたら、ちょっと的外れだと思う。
そのいつも校長室に呼ばれていた三人組が、大人になり、夏のバカンスにヨーロッパへ行くことになる。
一人は空軍の兵士になり、もう一人は州兵となりアフガンに、3人目はサクラメントの大学で在学中。
そこで、アムステルダムーパリ間の超特急タリスで、テロリストと出くわすことになる。
映画で大人になってからの三人は、実際にテロリストを取り押さえた若者たち本人である。
本人たち三人が本人の役で出演しているんだけど、それが素人とは思えないシーンに、もう前のめり状態で見入ってしまう。
演技が巧いというべきなのか、本人だから叶った臨場感なのか、私には分からないけれど、確実に言えることは、常識では考えられないキャスティングをしてしまうイーストウッドの監督力、演出力、配役の妙(アイディア)については、やっぱり絶賛だということだと思う。それに応えた若者三人もたいしたものだけど。
私は、アムステルダム中央駅の、タリスのホームが映し出され時、「あ、ここ!」と思った時、一瞬思わず、映画の上映中のスクリーンに向かって、腕を伸ばしてし指さしてしまった。
その、スクリーンを指さす延ばした腕が視野に入り、慌てて、引っ込めた。
見馴れた景色のなかで、乗り慣れた列車のなかで、その臨場感は、ハンパじゃなかった。
私は、15:17の一本前のタリスに乗って、ノーテンキに赤ワインなんか飲んでいたのだから。
あの日、ブリュッセル駅には、ポリスと軍隊の兵士がいっぱいて、いつもより多いなとは思ったが、それは、いつの頃からか見馴れた風景でもあった。
ホテルにチェックインしてから、テレビのニュースを見て、えぇぇっー!!!と驚いているところに、日本の家族から携帯に電話がかかってきた。
ADHDじゃないか、父親が居ないから問題行動を起こすんだとか、黒人だとか、散々言われてきた三人が、その三人が
当たり前のように、テロリストへ飛びかかっていった。
多くの乗客を救い、英雄として称えられて、私は、ざまぁみろ!と思いつつも、胸にぐっとくるものがあった。
そして、母親たちの、やっぱり、どや顔が、最高!!でした。
良い映画を、観た。
イーストウッドって、俳優だったときには、あまり興味がなかったけれど、監督としては、面白い作品をいっぱい創っているという印象がある。
気がついてみると、結構、イーストウッドの映画を観てる。
<追記>
映画でもしっかり描かれているが、この三人の若者たちの他に、一番最初にトイレのドアが開いた途端に、テロリストと鉢合わせをした男性は、テロリストから銃を取り上げようとして、撃たれる。
また、三人がテロリストと果敢に組み合っている時、イギリスのビジネスマンが、救援に駆けつける。
なんだろう。
我が身を顧みないこの正義観というか、意味は。
そのことを、考える。
<追記2>
YouTubeで、クンリント・イーストウッドとの、会話や撮影について、upされているので、時間のある人は観て欲しい。
まさか、こういうことに出くわすとも思わなかった彼らがなぜ、このような、いわゆる英雄的な行動を、とったのか、その一端に触れられるような気がする。
「なにも」考えなかったという彼ら。
私は、彼らのコメントに、ドキッとし、実は少なからず動揺した。
キリスト教の「神」「愛」を、
真剣に、真面目に、真摯に、私たち東洋人は、理解できるだろうか。
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