前回の更新が2月・・・
8ヶ月も前でしたが、その間、いろいろなことがありました。
まずは、3月11日の「地震」。これには触れざるを得ないでしょう。
2時46分、私は普通にPCに向かいFMラジオを聴きながら仕事をしていました。
最初、地震と感じたのは小さい揺れでしたが、みるみる大きな揺れ!立っているのも大変な中、本棚が倒れそうになるのを片手で押さえ、出口確保にドアを開けました。
生放送のラジオでも「落ち着いてください!」を連呼。どれくらいだったか、かなり長く感じました。数年前の新潟中越地震のときにも感じなかったような強く、長い揺れでした。心拍が早まるような、焦りと動揺を押さえ、冷静にどうすべきか考えました。
携帯電話は不通。これはただ事ではないな、と感じ、すぐに家に変えることを決めたのですが、道路が大渋滞。信号機の停電と、踏み切りの遮断機が下りたままになっていて、どこもかしこも大渋滞でした。
それでも、通常の3倍くらいの時間をかけて家に帰ると、子供たちは、学校から強制帰宅させれれていました。
校庭に避難した時のまま、上履きのまま帰宅していました。避難後、校舎内には入らず、ランドセルも学校に置きっぱなしで帰されたようでした。
テレビをつけると、各局すべてが地震関連ニュース、そして津波の映像・・・
時間を追うごとに拡大する被害。津波での数々の犠牲、原発の津波被害による放射能汚染・・・歴史的な災害に日本全土が飲み込まれていきました。
もちろん、それからは私の周りの仕事の状態も色々変わりました。
地震によって、不足した電力のための計画停電、そして節電。また、建築材料の供給不足によっておこった、工事遅延や工事着手の保留・・・そして、何よりも、東北、いや日本全国に渡って大きな悲しみの伝播が生んだ自粛ムード。
テレビでは、一切バラエティーやお笑い、マンガも無く、CMは公共広告機構のみ。仕方ないとは思いつつも、そうした状況が気持ちが沈む要因ともなったのか、私自身も大きな悲しみに暮れました。
被災地の惨状が伝われば伝わるほど、そんな中でも恵まれた環境にいる自分自身を申し訳なく思うと同時、段々と無気力になっていきました。
実は、前の記事の通り、業務の方も2月には拡張ムードだったのですが、地震直後から拡張計画も「見送り」ました。
今後の情勢がどう変わるかも予想できませんでした。
計画停電で、仕事にならない日も幾日かありました。夜の計画停電には、信号機が消灯し、コンビニでさえ真っ暗。信号機が稼動していないので、大きな交差点では警察官の手信号が行われたものの、車は大渋滞。家に帰って、キャンドルの明かりの下で家族で細々と夕飯を食いました。外は、夜の7時、どんなに賑やかな街中でも真っ暗。あんな真っ暗な路地裏は産まれて初めて体験しました。
ガソリン不足も一時期深刻でした。
値段がどうこうよりも、手に入れることが難しく、あまり遠出もできない状態で、近場なら、自転車を多用していました。
そんな状態、あの震災の日から昨日で7ヶ月。
私の住む地域では、いつの間にか平静を取り戻しつつあります。
計画停電は一時期だけで、殆ど苦にならぬ程度で済みました。それでも、車関係のお仕事に携わる人は、ピーク時の電力調整のため、木、金休みだったようですが、この10月から土日休みに戻ったそうです。
建築材料不足もほぼ解消され、地震前の日常を取り戻しつつあります。
私自身、日々仕事に追われ、また以前のように週末は子供の少年野球に追われる日常を過ごすようになりました。
申し訳ないようですが、震災前と何ら変わるところはありません。
被災地では未だ復旧とは程遠いかもしれませんが、遠く離れた我々が頑張って、これからの復興の石杖を築いていかなければ、と改めて思う7ヵ月後でした。