「生きて帰って」と「弾除け神社」に奉納 出征兵士の写真返す宮司
2021/07/15 11:00
出征した兵士の軍服やスーツ姿の写真=山口市の三坂神社で2020年11月13日午後3時44分、松田栄二郎撮影
(毎日新聞)
日中戦争や太平洋戦争中に「弾除(よ)け神社」として知られ、出征した兵士の家族が無事を祈願するために兵士の写真を奉納した神社が山口市にある。当時、国内外から寄せられた写真は2万枚を超え、返還を続けてきたが、今なお1万4000枚以上が残る。戦後76年の夏を前に返還先の家族捜しは難航しているが、90歳を超える宮司はあきらめていない。「写真を返すまで私の戦後は終わらない」
同市徳地岸見にある三坂神社の神殿に入ると、左隅に兵士の写真を保管するケースが7箱積み上げられていた。写真は大小さまざまで、出身地ごとに茶封筒に入れて大切に保管されている。写真の人物は軍服姿が多いが、着物やスーツ、学生服姿もいる。
宮司の佐伯治典さん(92)や氏子らによると、三坂神社は日中戦争の勃発(1937年)後に「日清戦争や日露戦争の際、祈願した兵士が全員生還した」と新聞で報道されて「弾除け神社」として知られるようになった。出征した夫や息子の無事を祈って連日多くの人が写真を持って訪れ、1日約880人が参拝したこともあった。奉納された写真は2万枚以上とされる。山口県内が中心だが、北海道や東京、福岡、鹿児島などの県外、日本の統治下にあった旧満州(現中国東北部)や台湾、朝鮮半島から寄せられた写真もあった。
終戦後、先代宮司で佐伯さんの父哲三さん(58年に61歳で死去)は写真を返還するため近所を回ったり、神社の参拝者に「写真を奉納していないか」と尋ねたりして少しずつ返還した。哲三さんの死後、小学校教員だった佐伯さんは79年から写真の裏に書かれた名前や住所を基に名簿を作成。定年退職した89年からは名簿と電話帳を照らし合わせて往復はがきを送り、返還の希望を確認した。
返還作業が新聞やテレビで報じられると問い合わせが増え、79〜99年の20年間で計5466枚を返還することができた。1年間で889枚を返還できた年もあった。自分の写真が奉納されていたことを知り「両親に感謝したい」と喜んで受け取る人がいる一方、家族の願いがかなわず戦死していた人も多く、佐伯さんは何度も胸を痛めた。
写真の裏には詳しい住所が書かれておらず、電話帳で返還先を捜す作業は難航した。奉納した家族が亡くなっているのか、往復はがきが宛先不明で戻ってくることも続いたため、97年に送付を中止。その後は、市民団体による協力で写真展を山口県内各地で開くなどし、テレビで報じられれば返還につながったが、一枚も返せなかった年もある。
そんな中、参拝者の中で「自分の住む地域なら」と名簿を見て個人的に協力を申し出る人がいる。そのおかげで、山口県下関市伊倉本町の農業、金田博美さん(63)に2021年2月末、フィリピン・マニラ周辺で戦死した祖父操さん(享年37)の写真(縦約5・5センチ、横約4センチ)が返還された。
金田さんは20年2月、厚生労働省主催の戦没地への慰霊巡拝でフィリピンを訪問した。18年に86歳で他界した父忠雄さんが生前に戦没地での慰霊を望んでいたことや、金田さんに孫ができ「自分のルーツをたどりたい」と思い始めたのがきっかけだった。
帰国後、操さんの経歴や慰霊巡拝をつづった本「祖父に逢いに行く フィリピン慰霊巡拝団に参加して」(ブイツーソリューション)を執筆。操さんの写真が奉納されていると分かったのは本の印刷が始まった頃だった。「祖父が私に本を書かせたのではないか」。金田さんはそう驚く一方で「写真の数だけ人生がある。行政や企業、ボランティアも協力して返還を進めてほしい」と話す。
神社には21年3月末時点で1万4213枚が保管されている。このうち1238枚は写真の裏に書かれた名前や住所の字が読みにくかったり、記載自体がなかったりして誰のものなのかも分からない。神社は18年1月にホームページを開設し、県外から奉納された写真約2800枚の住所と名前や、287枚の写真を公開して情報提供を呼び掛けている。
「どれも『生きて帰ってほしい』という家族の思いが伝わる大切な写真だ」。佐伯さんは、命の尊さを伝える写真が残ることなく返還されることを願ってやまない。【松田栄二郎】
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