金田博美

「祖父に逢いに行く」フィリピン慰霊巡拝団に参加して
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2020年5月30日山口新聞「東流西流」 フィリピン祖父の戦没地へ慰霊

2020-05-30 17:28:11 | Weblog

厚生労働省主催「令和元年度フィリピン慰霊巡拝団」に参加して
フィリピン・ルソン島を南下してラムット川に着く。
開戦前マニラには多くの日本の商社や病院、学校が造られ、貿易や商いをするために日本から来た人々で活気あふれる邦人社会があった。
開戦後、侵攻してきた敵と戦うため男は戦闘員として現地招集され、女や子は敵から逃れるためマニラを離れ北上する。雨期で増水した川に足止めされるが敵から追われ川を渡る途中で一斉射撃され、二千人もの武器を持たない犠牲者を出した川である。
今、子供たちが笑顔で川遊びをする景色の中には75年前の悲惨な記憶の片鱗もない。

祖父は明治41(1908)年、農家の長男として生を受け21歳で結婚、5人の子に恵まれ、昭和19年37歳で召集される。37歳での召集年齢は比較的高く、戦況の逼迫を感じる。翌年5月17日ルソン島マニラ周辺方光山付近にて戦死する。この日は方光山麓にあるワワ・ダムで水源確保のための激しい攻防戦が繰り広げられ他部隊が転身する中、ダム死守の命令による戦いの末に戦死したと推察される。
入隊後1年足らずでの戦死、遺骨は無い。

祖父の戦没地モンタルバン着。穏やかに木々が揺れ小鳥が鳴いている。祖父が戦い、戦死した時と同じ山に囲まれ、悲しいほどの静寂の中、75年間待ち続けてくれた祖父へ手紙を渡す。



2020年5月23日山口新聞「東流西流」 フィリピン・ルソン中部慰霊

2020-05-24 11:54:46 | Weblog
「フィリピン・ルソン中部慰霊」
2020年2月15日

フィリピン3日目、ルソン島北部から南下し、現地追悼式を行うオリオン峠へ向かう。途中で雨が降りだすが、天気雨なのかジャングルの上には青空が広がり、通過する村々にはキリスト教の白い小さな教会が見える。
オリオン峠着。

戦地では峠は敵を迎え撃つ拠点となり、兵隊には死守する命令が下される。当時の戦況下で死守とは文字通り兵隊の死ぬ場所を意味する。フィリピン北部から南下してきた敵との戦いで、戦死者や戦病死者を合わせ多数の兵隊が亡くなった峠であり、付近では今もなお日本兵と思われる人骨やヘルメットなどが出土するという。
慰霊碑は峠を走る幹線道路沿いの集落内にある。日本の遺族会や戦友会の会員減少による解散や消滅で慰霊碑の維持が困難な状況でも、現地の方が維持管理されている。このようにフィリピンには人々の善意により守られている日本兵の慰霊碑が多くあるそうだ。
2020年2月16日


フィリピン4日目、再び南下してバレテ峠へ向かい現地追悼式を行う。バレテ峠はルソン島の中央に位置し、北上する敵をくい止める重要な拠点である。ここでも峠を守る多数の兵隊が亡くなり、故郷への帰還を果たせない無念の魂が眠る峠となった。

慰霊碑は今もなお、攻め登って来る敵を見下ろすかのように、風を受け立っている。

2020年5月16日山口新聞【東流西流】 ルソン島サゲガラオとバシー海峡で現地追悼式

2020-05-22 11:28:09 | Weblog
2020年2月12日から19日
フィリピン慰霊巡拝団に参加して

フィリピン3日目はツゲガラオとバシー海峡で慰霊を行う。マニラ市街の建物や乗り物は暖色系で明るく彩られ、森の緑と混ざり合い、上空には街を包み込むように真っ白な入道雲が沸き立っている。その熱帯の日差しの中を空港へ移動し、ルソン島北部のツゲガラオへ飛ぶ。

飛行機の窓から見ると、全てを覆いつくすかのように広がる熱帯のジャングルの木々は無念の死を遂げた多くの人々が両手を上げて叫んでいるように感じる。
ツゲガラオ空港着。空港のすぐ傍まで建っている民家と滑走路とを隔てる柵が低い。空港ではドゥテルテ大統領のポスターが笑顔で迎えてくれ、多くの乗り合いバスが出てくる人を探している。

私達のバスはしばらく走り、幹線道路山側の野原にてツゲガラオ周辺で亡くなった戦没者追悼式を行う。紐でつながれた水牛はのんびり草を食(は)んで、こちらを眺めている。

今日2回目の追悼式となるバシー海峡を望むアパリ海岸へ。
バシー海峡は台湾とフィリピンの間に位置しており、南方に向う船舶が敵潜水艦の魚雷に撃沈させられ、多くの犠牲者を出した海峡である。バシー海峡の方向を方位磁石で確かめ、祭壇を作り追悼式を行うが海風が強く難儀する。花とお酒を海へ手向ける。
この海は故国へと続いている。



2020年5月9日山口新聞【東流西流】フィリピン慰霊巡拝に出発

2020-05-22 11:24:53 | Weblog
フィリピン慰霊巡拝団に参加して
慰霊巡拝団のしおりには「日本国政府派遣の慰霊巡拝団は、先の大戦において戦域となった全ての地域戦没者の慰霊を行うことを目的としており、戦没された全ての遺族の代表として慰霊を行う責務があることを理解願う」とある。
私が行くフィリピンには想像を絶する悲惨な戦況の中で無念の死を遂げ、未だ故郷へ帰れない多くの魂が眠っていると思うと改めて気が引き締まる。
2月12日夕刻、結団式で参加者の顔合わせと最終説明を受け、13日早朝、成田空港からニイノ・アキノ国際空港へ飛び立つ。
この日から最終日まで参加者は毎朝、体温と血圧を測定する。私の血圧は若干高めだが、逸る気持ちのせいか。
機上、眼下の積乱雲の間に輝く美しい洋上に、今も領海について国家間の駆け引きが存在している事を残念に思う。
昼過ぎ、空港に到着。エアコンの効いている空港からバスに乗る間にも日本との気温差25度以上の熱風と、刺すような強い日差しを感じる。
移動してマニラ湾を望む。70年以上前、制海権、制空権を奪われ潜水艦や戦闘機に攻撃され、多くの日本人がこの地を踏むことなく海に消えていく中、祖父には無事に上陸できた事への安堵はあったと思う。
そして当時のマニラは祖父の目にどう映ったのだろうかと思いをはせる。

2020年5月2日山口新聞【東流西流】間隙を縫ってのフィリピン慰霊巡拝となる

2020-05-22 11:19:08 | Weblog
会社を60歳で退職し、家の農業を継いで3年目。最近は新玉ねぎとタケノコを近くの産直市場に出荷しています。
今年2月に厚労省主催のフィリピン慰霊巡拝団の一員として、祖父が戦死したフィリピン・ルソン島での現地追悼式に参加しました。

実施期間は2月12日から8日間。全国から募った慰霊巡拝の参加者は、戦没地のルソン島西部とミンダナオ島、レイテ島とパナイ島、私が参加したルソン島北東部の3班に分かれました。
各班に厚労省職員2人と添乗員、看護師が付き、現地の通訳兼ガイドと現地サポート員2人体制で行動します。
出発の1カ月前にはルソン島のタール火山の噴火で噴煙は1500mにも達しマニラ都市部でも降灰があり、私たちの利用するニイノ・アキノ国際空港も1時閉鎖されました。
また新型コロナウイルス感染は徐々に全世界に拡大しており、2月にはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客から陽性反応が出て集団感染が懸念される中での出発でした。

私たちが慰霊巡拝を終えて帰国後の3月末ごろから、フィリピンへの入国も査証免除特権を停止され入国が実質不可となり、今も全く先の見通せない状況が続いています。間隙を縫ってのフィリピン慰霊巡拝となりました。

金田操1945年5月17日フィリピン・マニラ周辺放光山付近において戦死

2020-05-16 15:54:18 | Weblog
金田操
1945年5月17日フィリピン・ルソン島マニラ周辺放光山付近において戦死
参考文献
ルソン島負残実記(矢野正美著)
戦場で死んだ兄をたずねて(長部日出雄著)
見知らぬ戦場(長部日出雄著)
ルソン戦―死の谷(阿利莫時二著)
ルソンに消えた星(岡田梅子・新実彰著)
比島山中 彷徨記(加藤春信著)
巡拝と留魂 マニラ東方高地 阪東部隊 (阪東康夫著)


昭和19年(1944年)
3月6日
金田操 教育召集のため歩兵第42連隊補充隊に応招。同日、第1機関銃中隊に編入。陸軍二等兵。
6月4日
金田操 招集解除。
7月
金田操 山口第四部隊入隊。
8月
金田操 下関出港、フィリピン派遣。臨時歩兵第7大隊西川機関銃中隊。
バシー海峡を敵の潜水艦から襲われにくいようにジグザグに動き静かな、しかし不気味な二日間を無事に通り抜ける。船は、今でも硝煙の匂いがしているようなコレビドール島の横を通って、マニラ湾に入る。戦場だったと思わせるものは、マニラ湾の中に半分首を突っ込んだ幾隻かの船のあわれな姿のほか、それらしいものは何一つ見当たらない。(ルソン島に消えた星)
船はゆっくり桟橋に横付けになる。さあ、この暑い国への第一歩である。(彷徨
記17頁)
全島緑と強烈な原色の花々の咲き乱れるマニラ港へ上陸した私たちは、しばら
く埠頭で待機した後、トラックに貨物のように無造作に積み込まれ、合歓木(ね
むのき)のアーチ形に空を蔽った並木道を次々と運ばれていった。
走っていく舗道の両端にはローマ字で書かれた看板をかかげた店や、赤い屋根
の住宅が並び、それらのどの窓からも、見慣れない人々が首を乗り出して、妙
なアクセントで、「バンザイ! バンザイ!」と叫び、日の丸の旗を振っている。
外国映画の一コマのようなエキゾチックな雰囲気の中で、私はもう夢見心地で
有頂天になっていた。(彷徨記4頁)

車道には、二階建ての真赤な大型バスが時折通過し、輪タクやカロマタ(馬車)
が頼りなしに走り、人道では真白なシャツをピッタリ身につけた清楚な感じ
の青年たちや、形よく上部に突き出た袖が蝶の羽のように見える鮮やかな色彩
の晴着をつけた婦人たちが、楽しそうに語らいながら散歩している。
(彷徨記17頁)


昭和19年末
マニラには旧城内、平站を中心に海没部隊の生存者や、船便が無くて本体に追及できない者、日本国への後送途中やむなくマニラに上陸した者、飛行機のなくなった航空関係部隊、船のなくなった船舶部隊、陸軍あり、海軍あり、在留邦人で家財道具を二束三文で処分して内地へ引き揚げようとする者、やむなく日本軍と運命を共にしょうとする者、現地招集された者等でごった返していた。
わが第七大隊と同じように臨時歩兵第八大隊まで八個大隊が編成された模様で、他に迫撃砲大隊、噴進砲大隊、船舶部隊、航空地上部隊等々でマ防(マニラ防衛隊)司を中心に小林兵団(長:小林隆少佐(巡拝と留魂26期))が編成された。 (巡拝と留魂49項)
いつの頃からか臨時歩兵第七大隊では長ったらしい。
威四二二部隊では分かりにくい。
最期までどこの指揮下にも入らず、兵団直属でしかも多くの隊が編入または配属されたので、兵団でも隊内でも、「阪東部隊」と呼ぶようになっていた。(巡拝と留魂50項)
主力はマニラ東方高地に陣地占領し、持久戦をはかることになる。
12月25日
「阪東部隊は空挺撃滅隊を兼ねて、マリキナ西方台地に拠点を占領、マリキナ
鉄橋を確保して、兵団のマニラ東方高地への転進を擁護せよ」の命令を受ける。
12月27日
マニラ=マニキナ=サンマテオ=モンタルバン=ワワ・ダムに通ずる幹線道路の陣地配備を定め陣地構築にかかる。(巡拝と留魂51頁)ワワ・ダムの入口には空地もあり、傍に荷物をのせるのに都合のよい岩石が数多くあるので、多人数の運搬兵が休息をとっていた。(彷徨記22頁)
昭和20年1月 
マリキナ=モンタルバン街道沿いに、米軍機の機銃掃射で頻繁に攻撃してく。
(52頁)モンタルバンは幅広い河に臨んだ山の入り口にある。(彷徨記17頁)

昭和20年(1945年)
2月3日
夕刻85高地に米軍の戦車一両が、不用意に給水塔の根元に突っ込んで来た。
先ず戦車一両を擱坐(かくざ)させ士気大いに上がる。
小林兵団としては最初の米軍との接触である。思うに米軍のバララ浄水場確保のための先遣隊の偵察将校か。(巡拝と留魂53頁)
2月3日
85高地に転進した部隊は初めて米軍に接触。(巡拝と留魂16頁)
※擱座(かくざ) ① 船舶が座礁して動けなくなること。 ② 戦車などが破壊されて、動けなくなること。三省堂大辞林より
2月4日 
9時頃から敵の砲撃が始まる。
ここに我が軍の前進陣地のあることを確認して、攻撃態勢を整えたようである。なるべく多くの敵を引きつけて、主陣地に対し陣地構築の猶予を与えるのが前進基地の目的だから、こちらの思うつぼだ。
砲撃は三連装の砲撃砲である。「トン」「トン」「トン」と発射の三連音が聞こえた瞬間「バン」「バン」「バン」と前進陣地全面に打ち込まれる。
レイテ戦線を戦った兵隊は別として、殆どの者は初めての敵弾の洗礼である。
握り飯も喉を通らなかった。かくてその後の半年以上の死闘の幕が切って落とされたのである。
2月4日
敵からの砲撃は続くが我が方には大した損害もなく、改めてたこ壺の威力を再確認する。
2月5日 
迫撃砲の数が三倍くらいに増え、猛烈な砲撃が始まった。
ひっきりなしに射って来る。敵の攻撃の要領は第一線の歩兵は自動小銃のほか大した武器を持たず、無線機を携帯して、後方の砲に「10米右、20米伸ばせ」など英語が聞こえる。
なるべく引きつけておいて一斉射撃を浴びせるとサッと後退するが、一層激しく砲撃してくる。
我が大隊砲も陣前の敵や集結地に照準を合わせて砲撃する。まさか砲を持っているとは思わなかったのか攻撃の効果は大きかった。
然し残念ながら敵の迫撃砲をたたくには、観測所不充分だったし届かない。
敵は観測機を上空に常駐させ、こちらが一発射てば白煙を目標に百発もお返しが来る。
敵との物量差は歴然であり、我が軍にかなりの損害が出る。
日没と共に砲撃はピタリと止み、夜は時々照明弾を打ち上げる程度である。
昼間戦った隊員は夜間に負傷者の手当て、破損した陣地の補強、食事、翌日の握り飯作りと不眠不休作業を行い、睡眠と言えばしばしまどろむ程度であった。
不思議と飛行機からの爆撃がなかったのと、雨が降らなかったのが幸いした。
2月7日 
激しい攻防が続く。
2月8日 
午後、我が隊の第一線はジリジリ後退の己むなきに至った。
敵にもかなりの損害を与えたが、我が方の死傷者も相当数にのぼった。
敵の戦車から射ち込まれた砲弾は何千発か数えられない。我が隊の陣地全体が耕された畑の様相になる。
2月9日 
戦車と火炎放射器の攻撃で第一線陣地は大敗失陥(しっかん)した。(巡拝と留魂54頁)
※失陥(しっかん) 城や土地を、攻め落とされて失うこと三省堂大辞林より
2月10日 
午後、敵戦車侵入。大隊本部の上にも別の戦車が停止しおり、火炎放射器を持って来られたらひとたまりもない。
昼間の撤退は到底無理である。今晩の撤退の準備をしながら交戦を続ける。
やっと夜がきた。大隊本部のくぼ地に全員集合する。まだ敵兵を一兵もマリキナ川を渡していない。先進陣地の目的は達したと思ったが、戦友の遺体も収容できぬまま退くのは後ろ髪を引かれる思いである。
朝日山を指さす。南方の月夜は明るい。新聞の大きな文字は読める程度である。主陣地の山の形はハッキリ見える。
2月11日 
撤退命令を受けマリキナ川を渡って東方山地へ撤退(巡拝と留魂16頁)
2月13日 
阪東隊は13日夜襲により旧前進陣地奪回の命令を受ける。
満身創痍の阪東隊ではあるが今晩出撃だ。
負傷者、病人は残して行くことにする。(巡拝と留魂56頁)
2月13日 
85高地前進陣地奪回作戦は、帝国陸軍初めてと言われる噴進砲弾援護射撃を受けて、噴進砲弾12発を85高地=給水塔のある方向へ発射する。不発弾が1発の他は轟音と共に爆発する。24時を期し敵陣突入、陣地を奪取するいわゆる夜襲をかけたのだが、噴進砲の方向が定まらず、これでは匍匐前進(ほふくぜんしん)して、敵陣地直前まで到達している我々の部隊がやられてしまうのではないか、と不安がひろがる。(巡拝と留魂27頁)
24時過ぎに突入したが敵は、もぬけの空であった。
我が隊の噴進砲に恐れをなしたか、一名の損失もなく占領できたのは幸いであった。
85高地に立つ。給水塔の北側から一本のマンゴーの大木を望見。(巡拝と留魂29頁)
2月14日 
時々砲撃を受けるが、引き続き85高地の確保に努める。
2月20日 
坂東隊は千秋山を中心に第二線陣地を占有すべし、の命令を受ける。
2月22日 
未明、千秋山に連なる正成山、正行山の麓に近い東斜面に集結した阪東部隊は228名(当初編成時330名)であった。
2月20日 
部隊はサンマテオから第二線陣地千秋山へ撤退し、そしてここから正に生き地獄の苦しみが始まった。(巡拝と留魂16頁)
85高地、ここは阪東部隊の前進陣地であり初戦の地でもある。そして数多くの戦友達が戦死された場所でもある。(巡拝と留魂25頁)
2月21日 
敵の侵攻により各陣地は失陥する。(巡拝と留魂20頁)
ワワ・ダムの瀑音が聞こえて千秋山と天王山が行く手に立ちふさがる。鋭く削り取ったような絶壁の山、千秋山は阪東部隊の第二線陣地の中心であり、阪東部隊が死守を決意したところ。(巡拝と留魂25頁)
2月26日 
米軍本格的攻撃を開始。
4月
第二陣地に対する砲撃、飛行機からの攻撃も激しさを加え、緊迫の度を増してきた。
5月5日 
正成山、正行山より千秋山にかけて、米軍の直接攻撃が始まり戦闘状態に入った。敵は猛烈な砲撃のもとにジリジリと一寸刻みに攻撃してきて、決して無理をしない。 
それで第一線陣地からここまで二か月以上もかかっているのである。マニラ周辺になるべく多くの米軍を釘づけにしておくことが阪東部隊の作戦だから、目的は達成せられていると信じていた。
まもなく千秋山は正面と正成山、正行山の稜線伝いの敵の攻撃を受け、芙蓉山より砲の直撃を受けるようになる。
5月6日頃  
モンタルバン=ワワ街道を来た敵兵が原住民の道案内で崖を登り千秋山稜線に出現し攻撃を加えてきた。
そのうち敵は芙蓉山頂に戦車を上げ、砲撃してくる。
本部は千秋山頂上の岩陰にいるが、その岩が砲弾でだんだんと壊されていく。全山が石灰岩で壕は全く掘れない。砲撃がやんだかと思うと米兵の投げる手榴弾の炸裂、火炎放射器も持っている。
まばらに生えている、しのべ竹や灌木がパチパチ燃えているのを背嚢で叩き消す。山頂は六帖一間位の広さしかない。稜線上の石灰岩は風化されてとんがり、一面針の山の様相で、鋭いのを踏みつけると、はいている地下足袋の底にプツリと穴があく。(59頁)
5月17日
金田操 ルソン島マニラ市周辺方光山付近にて戦死(陸軍伍長)
6月3日
阪東隊に対する米軍の攻撃がめっきり少なくなった。
敵は阪東隊に対し監視兵だけを残し、両側を迂回してどんどん東進して行く。
部隊は完全に敵中にとり残された。食料は極度に欠乏していた。わずかに附近に自生している芋の葉っぱを食べていた。
6月8日
方山光失陥。ごろりと横になれば、みな睡魔に襲われる。降り出した雨で地面が濡れ、地面に接している背中まで滲みてくる。それでも眠った。目が覚めると枕元に白骨があった。あまり驚かない。死というものに鈍感になっていた。「今に行くからな!」と片手で拝む。埋めてやる力がない。(巡拝と留魂64頁)
「兵隊が寝ているのかな」と思って近づくと、軍装したまま白骨になっている者もあった。暑いし、スコールで洗われ、すぐに奇麗な白骨になってしまう。貯金通帳と子供の写真をおし頂くように、うつぶせの白骨のものもある。その写真の子供が笑っている。やるせない。(巡拝と留魂66頁)

戦いは全部が劣勢下の防禦で、希望亡きものであった。余程心がしっかりしていないと任務達成は出来ない。
不惑、不屈、不動、辛抱強く戦ったものだと思う。
千秋山を中心とする主陣地の死闘は地獄のそれであつた。
即ち、山頂で敵中に孤立。頭上よりの火焔と手榴弾に攻め立てられ、眼下の満々たるワワ・ダムを眺めつつ、取水に術なく、一滴の飲み水すらなく、飲まず食わず戦い抜くこと旬日余、耐えに揕えて陣地を死守した。到底人間業とは思えない。
戦闘には色々あるが、これ程残酷な事はまちとあるまい。隊長も偉いが部下も立派である。阪東隊の真髄はこれに尽きる。よくも自暴自棄にならなかったものだと思う。不動の隊長を信じ最後まで、よくもついて行ったものだと感嘆するばかりである。(巡拝と留魂37項)
阪東部隊に配属された者たちは、決して精鋭第一師団の名に恥じなかったこと。部隊は終始命令通りに行動し、しかもみんな勇敢に戦ったことは確かであ。(巡拝と留魂47項)




令和元年度フィリピン慰霊巡拝団

2020-05-16 15:28:01 | Weblog
令和元年度フィリピン慰霊巡拝団(ルソン島東北部)

フィリピンでは、制空権、制海権も敵に奪われ、物資の補給もなく、自活自戦・永久抗戦・アメリカ軍の日本本土決戦を遅らせるための時間稼ぎのために、30万人の兵士が亡くなっている。
新聞の記事・・今の若い人に第二次世界大戦で日本と戦った相手国は、ドイツ、イタリア、アメリカ、どこの国と戦ったのでしょうか?の問いに多くの人がドイツと答えたそうだ。映画の影響かも知れないが、近代史について学習する時間がほとんどなく、それが原因なのかも知れない。多くの日本の兵隊が、祖国を守り家族を思い、軍の命令に従い、遠くの地で戦死した事が風化されている事実。
祖父のフィリピンでの戦死に至る経緯を調べるにあたり、特別な武勲をあげたわけではないし、戦地からの手紙や遺書が残っているわけでもない。骨壺の中には何もなかった。でも、多くの戦没者は祖父と同じ状況ではないだろうか。その中でも個人として集められる限り資料を取り寄せ、各機関への問合せや残された著書や映像により、祖父の足跡をたどることとする。私に孫が生まれ私が祖父となったが、私にとっての祖父は遺影でしか知らない。私の祖父が戦死したことは、子供の頃から遺影を見ていて知っているつもりでも、祖父はどこでどのような状況下で戦死したか、戦死した祖父の年を過ぎ、還暦を迎えた今、調べてみたくなった。


フィリピン慰霊巡拝について
慰霊巡拝団のしおりには「日本国政府派遣の慰霊巡拝団は、先の大戦において戦域となった全ての地域戦没者の慰霊を行うことを目的としており、戦没された全ての遺族の代表として慰霊を行う責務があることを理解願う」とある。私が行くフィリピンには想像を絶する悲惨な戦況の中で無念の死を遂げ、未だ故郷へ帰れない多くの魂が眠っていると思うと改めて気が引き締まる。
2月12日夕刻、結団式で参加者の顔合わせと最終説明を受け、13日早朝、成田空港からニイノ・アキノ国際空港へ飛び立つ。この日から最終日まで参加者は毎朝、体温と血圧を測定する。私の血圧は若干高めだが、逸る気持ちのせいか。
機上、眼下の積乱雲の間に輝く美しい洋上に、今も領海について国家間の駆け引きが存在している事を残念に思う。
昼過ぎ、空港に到着。エアコンの効いている空港からバスに乗る間にも日本との気温差25度以上の熱風と、刺すような強い日差しを感じる。移動してマニラ湾を望む。70年以上前、制海権、制空権を奪われ潜水艦や戦闘機に攻撃され、多くの日本人がこの地を踏むことなく海に消えていく中、祖父には無事に上陸できた事への安堵はあったと思う。そして当時のマニラは祖父の目にどう映ったのだろうかと思いをはせる。
実施期間は令和2年(2020年)2月12日から2月19日までの8日間であり、このうち、フィリピン派遣期間は2月13日から19日までである。
全国から募ったフィリピン慰霊巡拝団の参加者の団編成は戦没地により、大きく3班に分けられ、1班はルソン島西部とミンダナオ島で参加者21名、2班はレイテ島とパナイ島で参加者14名、我が3班はルソン島北東部の21名である。各班にはそれぞれ厚生労働省職員2名と添乗員、看護師が付き現地で通訳兼ガイドと現地サポート2名の体制で行動を共にする。
出発の1カ月前にはルソン島のタール火山の噴火で噴煙は1,500mにも達しマニラ都市部でも降灰があり、私たちの利用するニイノ・アキノ国際空港も一時閉鎖された。
また新型コロナウイルス感染は徐々に全世界に拡大しており、2月にはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客から陽性反応が出て集団感染が懸念される中での出発となる。
私たちが慰霊巡拝を終えて帰国後の3月末ごろから、フィリピンへの入国も査証免除特権を停止され入国が実質不可となり、今も全く先の見通せない状況が続いており、間隙を縫ってのフィリピン慰霊巡拝となる。

結団式兼説明会が2月12日16時から日航ホテル成田で開催され翌日からフィリピンへ飛び慰霊巡拝となる。解団式は2月19日20時帰国後、成田空港到着ロビーにて団長挨拶の挨拶により解散となる。20時成田空港の解散なのでその日は羽田空港からの飛行機に間に合わないので、上野の安宿に泊まり翌日20日の山口宇部空港行きの便に乗る。
しおりの注意事項として、水や氷、カットフルーツは控えるように、持参物として、蚊取り線香やポンプ式の虫除けスプレー(ガス式は機内持ち込み禁止)、
日焼け止めクリーム、日よけ帽子、サングラス、常備薬などが記載されている。ほとんどの海外では生水が飲めないことは常識で分かっているが、日本で一番寒い2月に蚊取り線香や日よけ帽子を用意するとは思わなかった。
フィリピンとの時差は1時間しかないが、気温差は25℃以上ある。
以前この時期にシンガポールに行って風をこじらせたことがあり、現地での水にも原因があったかもしれないが、帰国後の気温差により体調が崩れる事にも注意が必要だと切実に思う。行くときは着ているものを脱げばよいが、帰りは飛行機の中で既に寒く感じるだろう。帰り飛行機の中で着るものは手荷物で預けずに機内持ち込みとしなければと、また一つ心配事が増えた。
私の常備薬としては花粉症と高血圧の薬が該当するが、参加者には高齢者の方も多いので常備薬も多岐にわたるものと思う。
参加者は各々慰霊フィリピン巡拝時の食事の前後には、カラフルな錠剤を飲んでいたが、そのおかげもあり我が3班はからは誰一病気せず無事に帰ることが出来た。

(2020年)
【2月12日(火) 下関市雨】
午前6時起床 今日からフィリピン巡拝慰霊の旅が始まる
先ずは16時からホテル日航成田で開催される結団式に遅れないようにしなければ。
7時30分朝食を済ませ山口宇部空港へ向かう。
巡拝慰霊から帰って来るのは今日から9日先である。とりあえずの第一歩は宇部空港まで遅れず、事故もせず行くことだ。
9時30分宇部空港着。手荷物検査等済ませ、持参した「戦場で死んだ兄をたずねて」長部日出雄著を読んで10時25分羽田行きJAL292便の搭乗時間を待つ。
昨日録画していたNHK番組「マンゴーの木の下で」を観る。フィリピン・ルソン島での過酷な戦況下、かろうじて生き延びた在留邦人の史実に基づいたドラマの前編・後編。
これから行くルソン島は、無念の死を遂げ、今だ帰れない数多くの魂が待っていると思うと、改めて気持ちが引き締まる。
宇部空港には修学旅行で多くの学生の姿がある。
10時25分宇部空港発JAL292。
11時50分予定通り羽田空港着。空港線エアポート快速成田空港行き浅草駅にて、京成成田スカイアクセス成田空行きに乗り換え。
13時50分空港第2ビル駅着。空腹なので、とりあえず何かお腹に入れようと思い、駅の中のお店を探すが、時間を節約してマックに入る。
今日の唯一の目標である14時からの結団式に間に合わなくては。
駅前でホテル日航成田専用迎えのバスに乗り14時過ぎにホテル着。
予想外に迷う事も無く無事にホテル日航成田に着く。
15時30分受付を済ませ、チェックイン。

16時から結団式。1班から3班までの全体結団式後、班ごとに分かれ具体的な説明会、夕食。
20時、明日からの、8日間のフィリピン慰霊巡拝への期待と不安とで早めに就寝する。

【2月13日(水)晴れ】 市内戦跡視察 リサール公園
5時起床。5時30分ホテル内レストランで朝食。
各自チェックアウトを済ませ、6時50分までにホテルフロントに集合。
フロント集合時に同行する看護師より体温、血圧の測定がある。
新型コロナウイルス感染拡大の関係で、体温血圧はこの旅が終わるまで、毎日測定するとの事。
血圧の薬は飲んでいるが少し高い。看護師曰く、逸る気持ちが血圧を押し上げているのだろうとの事。確かに地に足がついていない感じ。
落ち着こう、深呼吸、深呼吸。
7時ホテル日航成田からバスにて成田空港第2ターミナルへ移動。
搭乗まで時間が出来たので、我ら3班のリーダー(厚生労働省職員)に、祖父操の戦没地について、軍歴や戸籍謄本、靖国神社への問合せでは戦没地がフィリッピン、ルソン島 方光山付近となっている。
菩提寺の過去帳はマニラ湾沖、墓石にはレイテ島と書かれている。
亡き父が国から祖父の戦没地、フィリッピン・ルソン島方光山付近との知らせを受けた後、当時の戦友から聞いた話などで、マニラ沖やレイテ島に修正したのではないか、祖父の戦没地は正確に分かっていないのではないかと尋ねる。
リーダーから、厚生労働省は、今回参加者の戦没地について詳しく調べており、祖父操は間違いなくフィリッピン・ルソン島に上陸して戦っている。
徴兵も40歳以上になると免除されることが多いが、徴兵された中では比較的年齢の高い36歳で徴兵されている。
2月17日に該当戦没者の追悼式をモンタルバン周辺で行うので、前日夜の食事後、再度調べた内容について知らせるとのこと。
現地9時30分成田発JL741便にてフイリピン ニイノ・アキノ国際空港へ出発。途中揺れも少なく、機内食を頂く。
この眼下に輝く美しい南方の海の上にも、国家間の複雑な領海問題が存在しているのだと思う。
13時30分 フイリピン ニイノ・アキノ国際空港到着。手荷物を受け取り空港から待機していたバスに乗り込む。エアコンの効いている空港からバスに乗る間にも日本との気温差25度以上の熱風と、刺すような強い日差しを感じる。大型バスで席に余裕があり、一人で二席は使えそうだ。私たち3班で年長者の一名はフィリピン日本大使館表敬訪問をし、残りの物はリサール公園を目指す。

15時マニラ市内戦史、リサール公園を散策する。 
広い公園で中央に大きな銅像がある。スペインの植民地政策と戦ったホセ・リサール氏の銅像で、氏は今でもフィリッピンの人から尊敬されており、銅像を守るように衛兵が立っている。暑いのに微動だにしない。
マニラ湾を右手に見ながらマニラの市街地にあるヘリテージ・ホテルへ向かう。今見ているマニラ湾に70年以上前、祖父が上陸したのだと、改めて感じる。制海権、制空権を奪われ潜水艦や戦闘機に攻撃され、多くの日本人がフィリッピンの地を踏むことなく、海の底に消えていくなか、先ずは無事にこの地に上陸出来た安堵感はあったと思う。
そして当時のマニラは、祖父の目にどのように映ったのだろうかと思いを馳せる。

ホテルのエアコンはオン、オフの切り替えしかなく、温度調整が出来そうにない。エアコンをオンの状態のまま、寝てしまえば風邪をひきそうだ。
ホテルからマニラ市街地を眺める。建物や乗り物に、黄色や赤色の暖色系が多く使われているが、この温暖な気候と熱帯の力強い樹木がある風景に溶け込み、不自然感は無くむしろ心地よい。
部屋で少し横になる。ホテルでの電源不備も想定してモバイル・バッテリーを3つ持参したが重く(3個で1.1kg)難儀する。ホテルには電源があるし、コンセントの口もそのまま使える。
電圧は高いが、最近の電化製品は携帯電話も含め、ほとんど200V以上でも対応するように作られているので、必要なさそうである。
そう思うと、これまでリュックサックの中で重く難儀していたモバイル・バッテリーが、これまで以上に重く感じる。
この時には、まだ先で使うことも有るかも知れないと思っていたが、とうとう旅の終わりまで、モバイル・バッテリーは一度も使われることはなく、ただ重くて難儀をするだけで終ってしまう。
17時30分ホテルのロビーに集合し、夕食はホテル外でとる。
和洋中のバイキング形式で各々好きなものを取る。フィリッピンの人も多く利用するお店のようだ。
店内にクラシックギターとウッドベース、パーカッションを演奏するトリオがいる。日本人が多いテーブルでは日本の曲を演奏してくれる。
日本や中国でヒットした、元アリスのリーダー谷村新司の昴(すばる)は、少し離れた席から中国のお客様からも拍手が沸き起こる。
食事を済ませ、ホテルに帰り、シャワーを浴びる。
このまま後何日シャワーで過ごさないといけないのか考えると、熱い湯船に首まで浸かって旅の疲れを流したいと初日にして思う。
明日の朝も早くから出発なので、エアコンを切って早めに就寝。
明日から、いよいよ現地追悼式が始まる。
私の現地追悼式は、ほぼ最終日にあたる2月17日(月)午前、モンタルバン周辺(芙蓉山山麓周辺)である。先はまだまだ長い。



(14日(金)晴れ) マニラ空港発→ツゲガラオ空港着→ツゲガラオ周辺巡拝→バシー海峡周辺巡拝
4時45分モーニングコールがある。
5時よりホテル1階の食堂に集合、一般客朝食会場準備前のため、簡易なサンドイッチで済ませる。
朝食終了後、各自チェックアウトを済ませ、6時までにロビー集合。
出発までの待ち時間を利用し、今日も看護師が参加者の体温と血圧測定をする。
待ち時間前に測定の出来なかった者は、出発後バスの中で測定を済ませる。
6時10分、マニラ市街の建物や乗り物は暖色系で明るく彩られ、森の緑と混ざり合い、上空には街を包み込むように真っ白な入道雲が沸き立っている。マニラの街は既に多く人々が通勤や通学で混んで活気に満ちている。
熱帯の日差しの中を空港へ移動し、国内線の搭乗手続きを済ませ、7時50分発5J504便でルソン島北部のツゲガラオ行へ飛ぶ。
飛行機の窓から見ると、全てを覆いつくすかのように広がる熱帯のジャングルの木々は無念の死を遂げた多くの人々が両手を上げて叫んでいるように感じる。

8時45分ツゲガラオ空港着。空港のすぐ傍まで建っている民家と滑走路とを隔てる柵が低い。空港ではドゥテルテ大統領のポスターが笑顔で迎えてくれ、多くの乗り合いバスが出てくる人を待っている。

空港をしばらく走り、カガヤン川沿い幹線道路の山側の野原で、ツゲガラオ周辺で亡くなった戦没者の祭壇を作り、現地追悼式をする。紐でつながれた水牛はのんびり草を食(は)んで、こちらを眺めている。

追悼式終了後、ホテルに移動。チェックイン後、昼食を済ませ、今日2か所目の追悼式を行う、バシー海峡を望むアパリ海岸へほぼ直線の道を2時間北上する。
道の正面に海が見え、その手前を左折しアパリ海岸に着く。今日2回目の追悼式となるバシー海峡を望むアパリ海岸へ。
バシー海峡は台湾とフィリピンの間に位置しており、南方に向う船舶が敵潜水艦の魚雷に撃沈させられ、多くの犠牲者を出した魔の海峡である。バシー海峡の方向を方位磁石で確かめ、祭壇を作り追悼式を行うが海風が強く難儀する。

現地の子供たちが埠頭で魚釣りをしている平和な風景がある。

その風景を背にして、追悼式を行う。
花と日本酒を海へ手向ける。この海は故国へと続いている。
その後、今晩の宿ツゲガラオのホテル・ロリータへ向かう。
途中の、ヤシの木の奥に沈む夕焼けがとても大きくきれいだ。

祖父も戦時下、どのような思いで夕焼けを見ていたことだろうと思う。
私たち慰霊団の様に、故郷に帰れるものでも夕焼けは郷愁を誘う。
死を目前にした兵士たちの目にはどの様に映り、何を感じたであろうか
18時ホテルに到着。ホテルの窓が閉まりきらないで、隙間が少し空いている。今日は2月14日、バレンタインデーの関係か、車のクラクションや人々の歓声で浅い眠りとなる。

中でも、けん制するように鳴らすクラクションは、何度も浅い夢の中で飛び起き、冷や汗で目を覚ます。
夢の内容は道路の上で行倒れた私に、車から轢かれそうになりクラクションで目が覚める。夢の中で、これは夢だから大丈夫と分かっていても、クラクションはやはり運転する身からすれば嫌な冷や汗で目覚める。


(2月15日(土)晴れ) オリオン峠周辺巡拝 オリオン峠にある慰霊碑
           市内戦史跡視察 カガヤン川支流のラムット川
6時30分朝食。8時ホテル出発。
今日の現地追悼式のオリオン峠に向かう。
バスから見ていて、フィリピンには意外と平野が多いいことに気づく。
米は年に三回も収穫できるそうだ。小雨が降っているのに、ジャングルの上には青い空を背景に大きな入道雲が、わき上がっている。
通り過ぎる村々に、教会が建っている。
バスの中で、多くの参加者が、昨夜泊ったホテルのシャワーからお湯が出なかったと言っているのが聞こえる。
幸いにしてわたしの部屋はお湯が出たが、これは窓が閉まらなく騒音が直に部屋に入って来るのと比べると、どちらが辛いのかなと比べたりする。
シャワーはその時だけで完結するが、眠りが浅いのはその時も、翌日にも影響する。やはり私の騒がしくて眠りが浅い方がツライいかなと、心の中で「勝った・・」と寝不足で頭の中でつぶやく。バスの窓に頭を付けると、振動が心地よい。
国道なのに舗装が悪くバスの揺れが酷いが、それでも気づいたら、少しの首の痛みを伴い寝ている。

オリオン峠に着く。

戦地では峠の死守に拠点が置かれることが多く、ここでは南下してきた敵との戦いで、戦死者、戦病死者を合わせ千名以上の兵隊が亡くなっている。
慰霊碑は柵の中にあり、地元の市役所の方が定期的に草刈りをされているそうだ。

日本の戦友会や遺族会の高齢化により解散されている状況下、草もきれいに刈られ、ありがたいと思う。
フィリピンにはこのように地元の方々の手によって清掃され、管理されている慰霊碑がたくさんあるそうだ。
慰霊碑には「一瀬部隊玉砕散華之戦跡」「はるか異郷の山野にちりし、み霊よこ々に集い来りて安らかに眠り給え」と刻まれている。
慰霊後、地元の方が裏山の洞窟から日本兵の認識番号を収得したと持ってきたので、見せてもらう。洞窟からは骨やヘルメットなど遺品と思われるものがまだ出るのだと言う。

慰霊に捧げたお菓子を子供たちに分けると、笑顔で喜んでくれる。子供の笑顔は本当に可愛い。
その後、今日の宿泊地ガーデンホテルで昼食を取り、ラムット川へ向かう。

ここカガヤン川支流のラムット川は雨期の増水で、逃げ遅れた邦人家族や兵隊が足止めされ、追ってきた米軍からの砲撃や戦闘機からの爆撃と機銃掃射で二千人以上が虐殺された川である。

ラムット川では子供たちが川遊びをしており、護岸には「I LOVE LAMUT RIVER」の文字がペイントされ、当時の面影はない。
18時ガーデンホテル到着。Wi-Fiが不安定。
板張りの床に、ワックスを塗ったばかりなのだろう。
床がべとべとしており、スリッパが無いと歩けず、匂いも強い。この匂いと一夜を共にする。

(2月16日(日)晴れ) バレテ峠方面巡拝 バレテ峠にある慰霊碑
          カバナンツアへ移動
6時30分朝食。8時ガーデンホテルをチェックアウト。
この時期、フィリピンは乾季のため、この慰霊巡拝中に天候の心配はなく好天に恵まれ助かる。
班のリーダー(厚労省職員)は、携帯で日本での新型コロナウイルス感染拡大のニュースを日々チェックしている。
今になって思うと、この慰霊巡拝の日程が、少しでも遅れていたらフィリピンへの入国(3月22日より入国実質不可)が叶わなかった。
バレテ峠へ向かう。

バレテ峠はルソン島のほぼ中心部にあり、北上する米軍を阻止するための重要な要の場所。
1945年1月上旬バレテ峠、サラクサク峠が戦闘状態となり、日本軍は、南部から転進してきた兵站部隊までもバレテ峠、サラクサク峠前線へ投入したが、一万二千以上の戦死者、戦病死者を出し、熾烈な戦いが繰り広げられた戦跡である。

ここでもアメリカ軍の本土攻撃の時間稼ぎの為に、峠を死守する命令で、未だ帰れぬ多くの戦没者の眠る死の山となる。

慰霊碑は今でも峠を攻め上って来るアメリカ兵を見下ろすかのように、風を受け建っている。
碑文にはこう刻まれている。

「ここバレテをめぐる山野は一九四五年一月から半年にわたり『鉄・撃・泉』の日本軍と米比軍が壮絶な死闘を続け阿修羅の鮮血で染められた天地慟哭の戦跡である。この決戦は北部ルソンの命運をかけ祖国のため一万七千百余の両軍の戦士が砲火の中に散った。ここにその遺烈をしのび鎮魂の祈りを捧げ人類永遠の平和を願ってこの碑を建てる。バレテ慰霊会」

慰霊後、サンホセにて昼食、その後カバナツアンへ移動。
16時カバナツアンにあるハーベストホテルにチェックイン。
リーダー(厚労省職員)から、毎日バスに長時間乗っているので、皆で運動不足解消のためにホテルから1.5㎞の所にあるスパーマーケット行こうと提案があり、ほとんどが参加する。いつもはバスの窓越しからではなく、街の雑踏の中を歩くと、現地の人々の生活の音や匂いがして嬉しい。
夕方17時、太陽は上下にグラデーションをつけ横に少し歪み、この街にゆっくりと沈もうとしている。この太陽は故郷の綾羅木の海岸に沈む太陽とほんとに同じか、いや、違う、全く別物だと思う。
ドライフルーツのマンゴーを土産にいくらか買う。
夕食後、明日の現地追悼式該当者は残り、リーダー(厚労省職員)から、戦没地について詳しく説明を受ける。厚労省でも今回の慰霊巡拝参加者について、事前に国の資料から精査した「個人調査票」を作成してくれていた。
個人調査票なの内容は、
・死亡年月日:昭和20年5月17日
・戦没地(戸籍)ルソン島マニラ周辺方光山付近(当局資料)リザール州モンタルバン方光山
・戦没状況:戦死
・最終所属部隊:臨時歩兵第七大隊
・戦没者の略歴:昭和19年7月山口第四部隊入隊
・昭和19年8月下関出港、比島派遣。臨時歩兵第七大隊西川機関銃中隊
・昭和20年3月29日モンタルバン河とポソポソ河の合流点に集結し正成山、正行山の陣地を守備す
・昭和20年5月17日ルソン島マニラ市周辺方光山付近にて戦死(陸軍伍長)とある。
昭和3年12月1日に第一補充兵役(祖父20歳)を受けており、その後昭和19年(祖父36歳)に徴兵される。
当時40歳過ぎの徴兵は行われておらず、その中で、36歳での徴兵は高齢に属し、若い兵隊と一緒に熾烈な激戦の中、5月17日まで、終戦の三ヵ月前までよく生き抜いてくれたと思う。
想像を絶する苦労があったと思うし、そこまで生き抜けたのは、家族の待つ家に帰りたい、子供の顔を見たい一心だったと思う。

明日はやっと、モンタルバン周辺で祖父の現地追悼式の番だ。
写真や供物、数珠等、追悼式で使うものが直ぐに取り出せるように準備をする。
ここの窓も2月14日に宿泊したローリータホテル同様、窓を閉めても1センチ位閉まりきらないため蚊が部屋に入っている。
ここで用意してきた蚊取り線香が初の出番となる。
蚊取り線香と虫よけスプレーは慰霊の栞「準備するものリスト」にも記載されており、部屋から蚊の気配が消えてしまう前に眠くなる。
今日の移動は山道が多く、慰霊参拝も五日目となり疲れが出たのか、すぐに就寝する。


(2月17日(月)晴れ)モンタルバン周辺巡拝(芙蓉山山麓周辺)
          マニラ周辺巡拝(フィリピン国鉄パコ駅近く片山右近像)
6時朝食、ホテルのチェックアウトを済ませ、7時にバスに乗り込むが、バスはなかなか出発しない。添乗員はホテルの受付係と、まだ何か話をしている。
10分後、添乗員が、フロント係から「205号室(私の部屋)は禁煙室なのに、煙草の匂いがする。清掃代金として三万円支払えと」言われている。
私は添乗員に、窓も完全に閉まらず、部屋に入った時には既に蚊がいたので、蚊取り線香は使ったが、喫煙はしていないと説明する。
添乗員からフロント係に経緯を説明してもらう。不服そうな顔をしているフロント係を後に、出鼻をくじかれた感じだが、いよいよ祖父の戦没地モンタルバンへ向かう。

12時頃モンタルバンにある、小学校近くにある雑踏を抜け、芙蓉山山麓へ続く道へ入ろうとするが、小学校の下校時と重なり、子供を迎えに来た親たちの車と離合できず立往生する。
私たちのバスが、行く先観光地があるわけでもなく、この細い生活道路を行き来する車やバイクと比べ、大きく小回りのきかないバスが、道幅いっぱいに通る事は滅多に無い事であろうと推察する。
それが原因で起こった渋滞はだんだんと拡大し、バスを取り囲むように人々が集まり、身振り手振りで怒りの感情を表す人や、罵声を浴せる人の数が増え非常に険悪な雰囲気となる。
すると、一人の老人がバスに近づき運転手と暫く相談していたが、何か話をまとめた様子。
老人はバスの後ろをふさいでいた、現地の運転手に何か指示を出し、その運転手はまた後方の運転手へと老人の指示が伝言ゲームの様に伝わっていく。
バスの後方の一番遠い車から徐々に下がり始め、バスも少し広いところまでバックし、渋滞は解消することが出来た。
町の中で何かトラブルが起きると仲裁してくれる長老がいるのだと思う。
私が子供の頃には確かに、そういう村の困りごとを仲裁してくれる人がいた。
昔の日本にも、そのような心強い長老が村々に、いたのかも知れない。

1キロほど進むと現地追悼地に着く。
森の中はとても静かだ。
穏やかに木々が揺れている。
遠くで小鳥が鳴いている。
この辺りで祖父が亡くなったのか。
祖父もここから見える山を見ていたのか。
写真でしか見た事のない祖父が最後に見たであろう、その風景の中に孫の私がいる。

あわただしく祭壇を作り、今年の正月に長男家族と靖国神社参拝時に頂いたおさがり(神酒、お札、お菓子)や、出兵時の家族や兄弟の写真を祭る。
献花後、祖父への手紙を読む。

名残り惜しいが、祖父の戦没地芙蓉山を後に、今日二か所目の現地追悼会場であるマニラ市にあるフィリピン国鉄パコ駅周辺へ向かう。
フィリピン国鉄のパコ駅に近い道路に囲まれた広場にある片山右近像前で追悼式を行う。
キリシタン大名片山右近は、徳川家康がキリシタン禁止令を出した後も、信仰を捨てきれず、フィリピンへの国外追放となるが、事情を知ったマニラの人々は大歓迎で迎えた。しかし1か月後には熱病になり亡くなり、手厚い葬儀が行われ、貫いた強い信仰心を称え銅像が立てられている。
パコ駅近くの銅像はその一つである。

1945年2月から始まったマニラでの戦闘で、フィリッピン国鉄に勤めていた多くの在留邦人の命が奪われ、両軍の戦いでマニラ市民10万人が亡くなっと言われている。
米軍の制空権下、逃げ場の無い状況で、敵戦闘機からの機銃掃射は悲惨な事だったろうと思う。
現地追悼を終え、ザ・ヘリテージ・ホテルへ向かう。
祖父の現地追悼式が無事に行えて、安堵する。
夕食会場まで移動するときに見えた、マニラ湾に沈む夕日がとても綺麗だった。

(2月18日(火)雲/雨)  合同追悼式(比島戦没者の碑)
           マニラ市内戦争跡視察
7時ザ・ヘリテージ・ホテルをチェックアウトする。
カラヤンにある合同追悼式会場へ向かう。
途中から雨が降る。今回の巡拝に来て初めての雨。
10時合同追悼式会場である比島戦没者の碑へ着く。

カバンから始めてカッパと傘を取り出し、きれいに整備された庭園を早足で通り抜け会場に着く。
会場の「比戦没者の碑」の前にはテントが張られ、日の丸を中心として各県知事からの花輪が左右に広がっている。

「比戦没者の碑」はマニラから南東へ110キロにあるカリラヤの日本庭園内に建ち、フィリピンで戦没した約50万人の日本人を追悼する慰霊碑である。
慰霊碑は、遺骨箱を型どった石碑を台石の上に安置し、後方に障壁が設けられている。碑には「比島戦没者の碑」と刻まれ、この慰霊碑を中心として、日本的雰囲気のあふれる庭園が整備されている。

事前に会場入りしていた厚労省の職員が、日の丸の国旗が濡れないようにとビニールシートを掛けるほど雨が降っていたが、式が始まり遺児代表が挨拶をする時には、雨がピタリと止み、個人での献花の時には虹が出た。
これで全ての現地追悼式が終わったが、式の中で一度も雨に濡れることは無かった。
祖父の遺品は何も無いので、バスに向かう途中、比戦没者の碑に続く階段で小石を二つ拾う。
この石は、下関市戦没者慰霊祭開催時に忠霊塔が解放されるので、その時に祖父の骨壺に入れようと思う。
石について空港で質問されないか、没収されて皆に迷惑を掛けないか心配になったが、ここで持ち帰らないとずっと後悔するのと思い、迷いを断ち切ち石をポケットに入れる。

マニラのザ・ヘリテージ・ホテルへ向かう。
夕食時に1班から3班までの全参加者が集まり夕食をとる。
私たち3班は、これまで病気や怪我が無くて良かった。私は孫で参加したのだが、子供で参加した方は80歳を超えている。巡拝に申し込むくらいだから、皆元気だろうとは思っていたが、よく歩き、大きな声で笑い、前向きな人ばかりだと感じる。いよいよ明日は最終日、日本に帰る日だ。

(2月19日(水)晴れ) マニラ市内戦跡視察 
ニイノ・アキノ国際空港から成田空港へ
8時ザ・ヘリテージ・ホテルをチェックアウト。
マニラ市内のサン・オーガスティン教会の視察を済ませ、ニイノ・アキノ国際空港へ向かう。
14時50分JL742便にて成田へ。
20時成田空港着。1時間の時差を修正、飛行機に預けていた荷物を受け取り、解団式。上野の旅館に宿泊するために移動。
9時40分上野の旅館着、久しぶりの畳に布団、熱い風呂に首まで浸かる。部屋は狭いが熟睡できる。

(2月20日(木)晴れ) 靖国神社へお礼の参拝をするために向かう。

両親が若い頃に靖国神社に参拝したことがあったと聞いた事がある。
その時、祖父の隊の上官がおり、母が「あなたは、生きて帰れたけど、あなたの部下、旦那の父は戦死した。」と、怒鳴ったと言た、母の7回忌の法要は昨年行った。
今年の正月に来たときは、特別参拝の広い待合室には多くの人が順番待ちをしていたのに、今日は平日という事もあり私1人だけだ。
靖国神社の歴史や参拝の作法が大型画面に流れているので、しばらく見ていたがやはり私1人のまま30分経過。
そのうち宮司が呼びに来られ、後に続き本殿へと向かうが、本殿手前に手や口を清める場所があり、先ほど見た作法で行おうと思うが、宮司も振り返り私の方を向いており、靖国神社での宮司との一対一はすごく緊張するが、どうにかごまかし切り抜ける。
本殿に上り中央に座する、神社ではいつも間違いなく行っている二礼二拍手一礼も、本殿中央での宮司と向かい合いでは緊張し、二礼一拍手一礼になってしまい、拍手が一回抜けてしまった。。
多分、拍手を一回した後一礼をしてしまったから、取り返しが出来ない。
特別参拝が終わり、一般参拝で一拍手して特別参拝の不足分にプラスする。
一般参拝の方は、いきなり拍手一回だけしかしない私を、変な人だと横目に見ているのが気配で感ずるが、これで特別参拝での不足分をプラス出来て安心。
国会図書館に移動して、フィリピンで祖父の属していた小林兵団阪東隊、阪東康夫氏の「巡拝と留魂」という本を探す。
靖国神社の図書館にあるが、今日は休館日だから、明日でも行ってくださいと言われるが、それは無理。
下関市長府図書館の係の人から、下関市中央図書館が休みだから明日でも来てくださいね、と言われるのとはわけが違うと思うけど、言わない。
夕方の羽田発便で宇部空港に着く。

夕方家に着き、ふるさとの火の見の山を見る。
月が出てる。祖父の戦没地フィリピンで見た月と同じ丸い月が出ている。
故郷の山は穏やかだ。
月もゆっくりと山にもたれかかっている。
祖父が見ていた山と、丸い月が自分の目の前にある。
祖父の子供(私の父)もこの風景を見て育ち、祖父が戦死した後、16歳で家督を継ぎ、結婚して、男の子二人を育てたその父母ももういない。
故郷の山は穏やかだ。

先祖の供養
墓に行き手を合わせるのが供養と思っていた。
だが、農業を継いで父親が結んだロープをほどく事、そして自分が結ぶこと。親父が使っていた鍬(くわ)の片方が摩耗して親父が使っていた癖を継承する事、山に筍を掘りに行って、親父よりも前の先祖の存在を感じる事。農業をしている事全てが先祖の供養になると思う。農業とは唯一そういう仕事だと思う。