金田操
1945年5月17日フィリピン・ルソン島マニラ周辺放光山付近において戦死
参考文献
ルソン島負残実記(矢野正美著)
戦場で死んだ兄をたずねて(長部日出雄著)
見知らぬ戦場(長部日出雄著)
ルソン戦―死の谷(阿利莫時二著)
ルソンに消えた星(岡田梅子・新実彰著)
比島山中 彷徨記(加藤春信著)
巡拝と留魂 マニラ東方高地 阪東部隊 (阪東康夫著)
昭和19年(1944年)
3月6日
金田操 教育召集のため歩兵第42連隊補充隊に応招。同日、第1機関銃中隊に編入。陸軍二等兵。
6月4日
金田操 招集解除。
7月
金田操 山口第四部隊入隊。
8月
金田操 下関出港、フィリピン派遣。臨時歩兵第7大隊西川機関銃中隊。
バシー海峡を敵の潜水艦から襲われにくいようにジグザグに動き静かな、しかし不気味な二日間を無事に通り抜ける。船は、今でも硝煙の匂いがしているようなコレビドール島の横を通って、マニラ湾に入る。戦場だったと思わせるものは、マニラ湾の中に半分首を突っ込んだ幾隻かの船のあわれな姿のほか、それらしいものは何一つ見当たらない。(ルソン島に消えた星)
船はゆっくり桟橋に横付けになる。さあ、この暑い国への第一歩である。(彷徨
記17頁)
全島緑と強烈な原色の花々の咲き乱れるマニラ港へ上陸した私たちは、しばら
く埠頭で待機した後、トラックに貨物のように無造作に積み込まれ、合歓木(ね
むのき)のアーチ形に空を蔽った並木道を次々と運ばれていった。
走っていく舗道の両端にはローマ字で書かれた看板をかかげた店や、赤い屋根
の住宅が並び、それらのどの窓からも、見慣れない人々が首を乗り出して、妙
なアクセントで、「バンザイ! バンザイ!」と叫び、日の丸の旗を振っている。
外国映画の一コマのようなエキゾチックな雰囲気の中で、私はもう夢見心地で
有頂天になっていた。(彷徨記4頁)
車道には、二階建ての真赤な大型バスが時折通過し、輪タクやカロマタ(馬車)
が頼りなしに走り、人道では真白なシャツをピッタリ身につけた清楚な感じ
の青年たちや、形よく上部に突き出た袖が蝶の羽のように見える鮮やかな色彩
の晴着をつけた婦人たちが、楽しそうに語らいながら散歩している。
(彷徨記17頁)
昭和19年末
マニラには旧城内、平站を中心に海没部隊の生存者や、船便が無くて本体に追及できない者、日本国への後送途中やむなくマニラに上陸した者、飛行機のなくなった航空関係部隊、船のなくなった船舶部隊、陸軍あり、海軍あり、在留邦人で家財道具を二束三文で処分して内地へ引き揚げようとする者、やむなく日本軍と運命を共にしょうとする者、現地招集された者等でごった返していた。
わが第七大隊と同じように臨時歩兵第八大隊まで八個大隊が編成された模様で、他に迫撃砲大隊、噴進砲大隊、船舶部隊、航空地上部隊等々でマ防(マニラ防衛隊)司を中心に小林兵団(長:小林隆少佐(巡拝と留魂26期))が編成された。 (巡拝と留魂49項)
いつの頃からか臨時歩兵第七大隊では長ったらしい。
威四二二部隊では分かりにくい。
最期までどこの指揮下にも入らず、兵団直属でしかも多くの隊が編入または配属されたので、兵団でも隊内でも、「阪東部隊」と呼ぶようになっていた。(巡拝と留魂50項)
主力はマニラ東方高地に陣地占領し、持久戦をはかることになる。
12月25日
「阪東部隊は空挺撃滅隊を兼ねて、マリキナ西方台地に拠点を占領、マリキナ
鉄橋を確保して、兵団のマニラ東方高地への転進を擁護せよ」の命令を受ける。
12月27日
マニラ=マニキナ=サンマテオ=モンタルバン=ワワ・ダムに通ずる幹線道路の陣地配備を定め陣地構築にかかる。(巡拝と留魂51頁)ワワ・ダムの入口には空地もあり、傍に荷物をのせるのに都合のよい岩石が数多くあるので、多人数の運搬兵が休息をとっていた。(彷徨記22頁)
昭和20年1月
マリキナ=モンタルバン街道沿いに、米軍機の機銃掃射で頻繁に攻撃してく。
(52頁)モンタルバンは幅広い河に臨んだ山の入り口にある。(彷徨記17頁)
昭和20年(1945年)
2月3日
夕刻85高地に米軍の戦車一両が、不用意に給水塔の根元に突っ込んで来た。
先ず戦車一両を擱坐(かくざ)させ士気大いに上がる。
小林兵団としては最初の米軍との接触である。思うに米軍のバララ浄水場確保のための先遣隊の偵察将校か。(巡拝と留魂53頁)
2月3日
85高地に転進した部隊は初めて米軍に接触。(巡拝と留魂16頁)
※擱座(かくざ) ① 船舶が座礁して動けなくなること。 ② 戦車などが破壊されて、動けなくなること。三省堂大辞林より
2月4日
9時頃から敵の砲撃が始まる。
ここに我が軍の前進陣地のあることを確認して、攻撃態勢を整えたようである。なるべく多くの敵を引きつけて、主陣地に対し陣地構築の猶予を与えるのが前進基地の目的だから、こちらの思うつぼだ。
砲撃は三連装の砲撃砲である。「トン」「トン」「トン」と発射の三連音が聞こえた瞬間「バン」「バン」「バン」と前進陣地全面に打ち込まれる。
レイテ戦線を戦った兵隊は別として、殆どの者は初めての敵弾の洗礼である。
握り飯も喉を通らなかった。かくてその後の半年以上の死闘の幕が切って落とされたのである。
2月4日
敵からの砲撃は続くが我が方には大した損害もなく、改めてたこ壺の威力を再確認する。
2月5日
迫撃砲の数が三倍くらいに増え、猛烈な砲撃が始まった。
ひっきりなしに射って来る。敵の攻撃の要領は第一線の歩兵は自動小銃のほか大した武器を持たず、無線機を携帯して、後方の砲に「10米右、20米伸ばせ」など英語が聞こえる。
なるべく引きつけておいて一斉射撃を浴びせるとサッと後退するが、一層激しく砲撃してくる。
我が大隊砲も陣前の敵や集結地に照準を合わせて砲撃する。まさか砲を持っているとは思わなかったのか攻撃の効果は大きかった。
然し残念ながら敵の迫撃砲をたたくには、観測所不充分だったし届かない。
敵は観測機を上空に常駐させ、こちらが一発射てば白煙を目標に百発もお返しが来る。
敵との物量差は歴然であり、我が軍にかなりの損害が出る。
日没と共に砲撃はピタリと止み、夜は時々照明弾を打ち上げる程度である。
昼間戦った隊員は夜間に負傷者の手当て、破損した陣地の補強、食事、翌日の握り飯作りと不眠不休作業を行い、睡眠と言えばしばしまどろむ程度であった。
不思議と飛行機からの爆撃がなかったのと、雨が降らなかったのが幸いした。
2月7日
激しい攻防が続く。
2月8日
午後、我が隊の第一線はジリジリ後退の己むなきに至った。
敵にもかなりの損害を与えたが、我が方の死傷者も相当数にのぼった。
敵の戦車から射ち込まれた砲弾は何千発か数えられない。我が隊の陣地全体が耕された畑の様相になる。
2月9日
戦車と火炎放射器の攻撃で第一線陣地は大敗失陥(しっかん)した。(巡拝と留魂54頁)
※失陥(しっかん) 城や土地を、攻め落とされて失うこと三省堂大辞林より
2月10日
午後、敵戦車侵入。大隊本部の上にも別の戦車が停止しおり、火炎放射器を持って来られたらひとたまりもない。
昼間の撤退は到底無理である。今晩の撤退の準備をしながら交戦を続ける。
やっと夜がきた。大隊本部のくぼ地に全員集合する。まだ敵兵を一兵もマリキナ川を渡していない。先進陣地の目的は達したと思ったが、戦友の遺体も収容できぬまま退くのは後ろ髪を引かれる思いである。
朝日山を指さす。南方の月夜は明るい。新聞の大きな文字は読める程度である。主陣地の山の形はハッキリ見える。
2月11日
撤退命令を受けマリキナ川を渡って東方山地へ撤退(巡拝と留魂16頁)
2月13日
阪東隊は13日夜襲により旧前進陣地奪回の命令を受ける。
満身創痍の阪東隊ではあるが今晩出撃だ。
負傷者、病人は残して行くことにする。(巡拝と留魂56頁)
2月13日
85高地前進陣地奪回作戦は、帝国陸軍初めてと言われる噴進砲弾援護射撃を受けて、噴進砲弾12発を85高地=給水塔のある方向へ発射する。不発弾が1発の他は轟音と共に爆発する。24時を期し敵陣突入、陣地を奪取するいわゆる夜襲をかけたのだが、噴進砲の方向が定まらず、これでは匍匐前進(ほふくぜんしん)して、敵陣地直前まで到達している我々の部隊がやられてしまうのではないか、と不安がひろがる。(巡拝と留魂27頁)
24時過ぎに突入したが敵は、もぬけの空であった。
我が隊の噴進砲に恐れをなしたか、一名の損失もなく占領できたのは幸いであった。
85高地に立つ。給水塔の北側から一本のマンゴーの大木を望見。(巡拝と留魂29頁)
2月14日
時々砲撃を受けるが、引き続き85高地の確保に努める。
2月20日
坂東隊は千秋山を中心に第二線陣地を占有すべし、の命令を受ける。
2月22日
未明、千秋山に連なる正成山、正行山の麓に近い東斜面に集結した阪東部隊は228名(当初編成時330名)であった。
2月20日
部隊はサンマテオから第二線陣地千秋山へ撤退し、そしてここから正に生き地獄の苦しみが始まった。(巡拝と留魂16頁)
85高地、ここは阪東部隊の前進陣地であり初戦の地でもある。そして数多くの戦友達が戦死された場所でもある。(巡拝と留魂25頁)
2月21日
敵の侵攻により各陣地は失陥する。(巡拝と留魂20頁)
ワワ・ダムの瀑音が聞こえて千秋山と天王山が行く手に立ちふさがる。鋭く削り取ったような絶壁の山、千秋山は阪東部隊の第二線陣地の中心であり、阪東部隊が死守を決意したところ。(巡拝と留魂25頁)
2月26日
米軍本格的攻撃を開始。
4月
第二陣地に対する砲撃、飛行機からの攻撃も激しさを加え、緊迫の度を増してきた。
5月5日
正成山、正行山より千秋山にかけて、米軍の直接攻撃が始まり戦闘状態に入った。敵は猛烈な砲撃のもとにジリジリと一寸刻みに攻撃してきて、決して無理をしない。
それで第一線陣地からここまで二か月以上もかかっているのである。マニラ周辺になるべく多くの米軍を釘づけにしておくことが阪東部隊の作戦だから、目的は達成せられていると信じていた。
まもなく千秋山は正面と正成山、正行山の稜線伝いの敵の攻撃を受け、芙蓉山より砲の直撃を受けるようになる。
5月6日頃
モンタルバン=ワワ街道を来た敵兵が原住民の道案内で崖を登り千秋山稜線に出現し攻撃を加えてきた。
そのうち敵は芙蓉山頂に戦車を上げ、砲撃してくる。
本部は千秋山頂上の岩陰にいるが、その岩が砲弾でだんだんと壊されていく。全山が石灰岩で壕は全く掘れない。砲撃がやんだかと思うと米兵の投げる手榴弾の炸裂、火炎放射器も持っている。
まばらに生えている、しのべ竹や灌木がパチパチ燃えているのを背嚢で叩き消す。山頂は六帖一間位の広さしかない。稜線上の石灰岩は風化されてとんがり、一面針の山の様相で、鋭いのを踏みつけると、はいている地下足袋の底にプツリと穴があく。(59頁)
5月17日
金田操 ルソン島マニラ市周辺方光山付近にて戦死(陸軍伍長)
6月3日
阪東隊に対する米軍の攻撃がめっきり少なくなった。
敵は阪東隊に対し監視兵だけを残し、両側を迂回してどんどん東進して行く。
部隊は完全に敵中にとり残された。食料は極度に欠乏していた。わずかに附近に自生している芋の葉っぱを食べていた。
6月8日
方山光失陥。ごろりと横になれば、みな睡魔に襲われる。降り出した雨で地面が濡れ、地面に接している背中まで滲みてくる。それでも眠った。目が覚めると枕元に白骨があった。あまり驚かない。死というものに鈍感になっていた。「今に行くからな!」と片手で拝む。埋めてやる力がない。(巡拝と留魂64頁)
「兵隊が寝ているのかな」と思って近づくと、軍装したまま白骨になっている者もあった。暑いし、スコールで洗われ、すぐに奇麗な白骨になってしまう。貯金通帳と子供の写真をおし頂くように、うつぶせの白骨のものもある。その写真の子供が笑っている。やるせない。(巡拝と留魂66頁)
戦いは全部が劣勢下の防禦で、希望亡きものであった。余程心がしっかりしていないと任務達成は出来ない。
不惑、不屈、不動、辛抱強く戦ったものだと思う。
千秋山を中心とする主陣地の死闘は地獄のそれであつた。
即ち、山頂で敵中に孤立。頭上よりの火焔と手榴弾に攻め立てられ、眼下の満々たるワワ・ダムを眺めつつ、取水に術なく、一滴の飲み水すらなく、飲まず食わず戦い抜くこと旬日余、耐えに揕えて陣地を死守した。到底人間業とは思えない。
戦闘には色々あるが、これ程残酷な事はまちとあるまい。隊長も偉いが部下も立派である。阪東隊の真髄はこれに尽きる。よくも自暴自棄にならなかったものだと思う。不動の隊長を信じ最後まで、よくもついて行ったものだと感嘆するばかりである。(巡拝と留魂37項)
阪東部隊に配属された者たちは、決して精鋭第一師団の名に恥じなかったこと。部隊は終始命令通りに行動し、しかもみんな勇敢に戦ったことは確かであ。(巡拝と留魂47項)
1945年5月17日フィリピン・ルソン島マニラ周辺放光山付近において戦死
参考文献
ルソン島負残実記(矢野正美著)
戦場で死んだ兄をたずねて(長部日出雄著)
見知らぬ戦場(長部日出雄著)
ルソン戦―死の谷(阿利莫時二著)
ルソンに消えた星(岡田梅子・新実彰著)
比島山中 彷徨記(加藤春信著)
巡拝と留魂 マニラ東方高地 阪東部隊 (阪東康夫著)
昭和19年(1944年)
3月6日
金田操 教育召集のため歩兵第42連隊補充隊に応招。同日、第1機関銃中隊に編入。陸軍二等兵。
6月4日
金田操 招集解除。
7月
金田操 山口第四部隊入隊。
8月
金田操 下関出港、フィリピン派遣。臨時歩兵第7大隊西川機関銃中隊。
バシー海峡を敵の潜水艦から襲われにくいようにジグザグに動き静かな、しかし不気味な二日間を無事に通り抜ける。船は、今でも硝煙の匂いがしているようなコレビドール島の横を通って、マニラ湾に入る。戦場だったと思わせるものは、マニラ湾の中に半分首を突っ込んだ幾隻かの船のあわれな姿のほか、それらしいものは何一つ見当たらない。(ルソン島に消えた星)
船はゆっくり桟橋に横付けになる。さあ、この暑い国への第一歩である。(彷徨
記17頁)
全島緑と強烈な原色の花々の咲き乱れるマニラ港へ上陸した私たちは、しばら
く埠頭で待機した後、トラックに貨物のように無造作に積み込まれ、合歓木(ね
むのき)のアーチ形に空を蔽った並木道を次々と運ばれていった。
走っていく舗道の両端にはローマ字で書かれた看板をかかげた店や、赤い屋根
の住宅が並び、それらのどの窓からも、見慣れない人々が首を乗り出して、妙
なアクセントで、「バンザイ! バンザイ!」と叫び、日の丸の旗を振っている。
外国映画の一コマのようなエキゾチックな雰囲気の中で、私はもう夢見心地で
有頂天になっていた。(彷徨記4頁)
車道には、二階建ての真赤な大型バスが時折通過し、輪タクやカロマタ(馬車)
が頼りなしに走り、人道では真白なシャツをピッタリ身につけた清楚な感じ
の青年たちや、形よく上部に突き出た袖が蝶の羽のように見える鮮やかな色彩
の晴着をつけた婦人たちが、楽しそうに語らいながら散歩している。
(彷徨記17頁)
昭和19年末
マニラには旧城内、平站を中心に海没部隊の生存者や、船便が無くて本体に追及できない者、日本国への後送途中やむなくマニラに上陸した者、飛行機のなくなった航空関係部隊、船のなくなった船舶部隊、陸軍あり、海軍あり、在留邦人で家財道具を二束三文で処分して内地へ引き揚げようとする者、やむなく日本軍と運命を共にしょうとする者、現地招集された者等でごった返していた。
わが第七大隊と同じように臨時歩兵第八大隊まで八個大隊が編成された模様で、他に迫撃砲大隊、噴進砲大隊、船舶部隊、航空地上部隊等々でマ防(マニラ防衛隊)司を中心に小林兵団(長:小林隆少佐(巡拝と留魂26期))が編成された。 (巡拝と留魂49項)
いつの頃からか臨時歩兵第七大隊では長ったらしい。
威四二二部隊では分かりにくい。
最期までどこの指揮下にも入らず、兵団直属でしかも多くの隊が編入または配属されたので、兵団でも隊内でも、「阪東部隊」と呼ぶようになっていた。(巡拝と留魂50項)
主力はマニラ東方高地に陣地占領し、持久戦をはかることになる。
12月25日
「阪東部隊は空挺撃滅隊を兼ねて、マリキナ西方台地に拠点を占領、マリキナ
鉄橋を確保して、兵団のマニラ東方高地への転進を擁護せよ」の命令を受ける。
12月27日
マニラ=マニキナ=サンマテオ=モンタルバン=ワワ・ダムに通ずる幹線道路の陣地配備を定め陣地構築にかかる。(巡拝と留魂51頁)ワワ・ダムの入口には空地もあり、傍に荷物をのせるのに都合のよい岩石が数多くあるので、多人数の運搬兵が休息をとっていた。(彷徨記22頁)
昭和20年1月
マリキナ=モンタルバン街道沿いに、米軍機の機銃掃射で頻繁に攻撃してく。
(52頁)モンタルバンは幅広い河に臨んだ山の入り口にある。(彷徨記17頁)
昭和20年(1945年)
2月3日
夕刻85高地に米軍の戦車一両が、不用意に給水塔の根元に突っ込んで来た。
先ず戦車一両を擱坐(かくざ)させ士気大いに上がる。
小林兵団としては最初の米軍との接触である。思うに米軍のバララ浄水場確保のための先遣隊の偵察将校か。(巡拝と留魂53頁)
2月3日
85高地に転進した部隊は初めて米軍に接触。(巡拝と留魂16頁)
※擱座(かくざ) ① 船舶が座礁して動けなくなること。 ② 戦車などが破壊されて、動けなくなること。三省堂大辞林より
2月4日
9時頃から敵の砲撃が始まる。
ここに我が軍の前進陣地のあることを確認して、攻撃態勢を整えたようである。なるべく多くの敵を引きつけて、主陣地に対し陣地構築の猶予を与えるのが前進基地の目的だから、こちらの思うつぼだ。
砲撃は三連装の砲撃砲である。「トン」「トン」「トン」と発射の三連音が聞こえた瞬間「バン」「バン」「バン」と前進陣地全面に打ち込まれる。
レイテ戦線を戦った兵隊は別として、殆どの者は初めての敵弾の洗礼である。
握り飯も喉を通らなかった。かくてその後の半年以上の死闘の幕が切って落とされたのである。
2月4日
敵からの砲撃は続くが我が方には大した損害もなく、改めてたこ壺の威力を再確認する。
2月5日
迫撃砲の数が三倍くらいに増え、猛烈な砲撃が始まった。
ひっきりなしに射って来る。敵の攻撃の要領は第一線の歩兵は自動小銃のほか大した武器を持たず、無線機を携帯して、後方の砲に「10米右、20米伸ばせ」など英語が聞こえる。
なるべく引きつけておいて一斉射撃を浴びせるとサッと後退するが、一層激しく砲撃してくる。
我が大隊砲も陣前の敵や集結地に照準を合わせて砲撃する。まさか砲を持っているとは思わなかったのか攻撃の効果は大きかった。
然し残念ながら敵の迫撃砲をたたくには、観測所不充分だったし届かない。
敵は観測機を上空に常駐させ、こちらが一発射てば白煙を目標に百発もお返しが来る。
敵との物量差は歴然であり、我が軍にかなりの損害が出る。
日没と共に砲撃はピタリと止み、夜は時々照明弾を打ち上げる程度である。
昼間戦った隊員は夜間に負傷者の手当て、破損した陣地の補強、食事、翌日の握り飯作りと不眠不休作業を行い、睡眠と言えばしばしまどろむ程度であった。
不思議と飛行機からの爆撃がなかったのと、雨が降らなかったのが幸いした。
2月7日
激しい攻防が続く。
2月8日
午後、我が隊の第一線はジリジリ後退の己むなきに至った。
敵にもかなりの損害を与えたが、我が方の死傷者も相当数にのぼった。
敵の戦車から射ち込まれた砲弾は何千発か数えられない。我が隊の陣地全体が耕された畑の様相になる。
2月9日
戦車と火炎放射器の攻撃で第一線陣地は大敗失陥(しっかん)した。(巡拝と留魂54頁)
※失陥(しっかん) 城や土地を、攻め落とされて失うこと三省堂大辞林より
2月10日
午後、敵戦車侵入。大隊本部の上にも別の戦車が停止しおり、火炎放射器を持って来られたらひとたまりもない。
昼間の撤退は到底無理である。今晩の撤退の準備をしながら交戦を続ける。
やっと夜がきた。大隊本部のくぼ地に全員集合する。まだ敵兵を一兵もマリキナ川を渡していない。先進陣地の目的は達したと思ったが、戦友の遺体も収容できぬまま退くのは後ろ髪を引かれる思いである。
朝日山を指さす。南方の月夜は明るい。新聞の大きな文字は読める程度である。主陣地の山の形はハッキリ見える。
2月11日
撤退命令を受けマリキナ川を渡って東方山地へ撤退(巡拝と留魂16頁)
2月13日
阪東隊は13日夜襲により旧前進陣地奪回の命令を受ける。
満身創痍の阪東隊ではあるが今晩出撃だ。
負傷者、病人は残して行くことにする。(巡拝と留魂56頁)
2月13日
85高地前進陣地奪回作戦は、帝国陸軍初めてと言われる噴進砲弾援護射撃を受けて、噴進砲弾12発を85高地=給水塔のある方向へ発射する。不発弾が1発の他は轟音と共に爆発する。24時を期し敵陣突入、陣地を奪取するいわゆる夜襲をかけたのだが、噴進砲の方向が定まらず、これでは匍匐前進(ほふくぜんしん)して、敵陣地直前まで到達している我々の部隊がやられてしまうのではないか、と不安がひろがる。(巡拝と留魂27頁)
24時過ぎに突入したが敵は、もぬけの空であった。
我が隊の噴進砲に恐れをなしたか、一名の損失もなく占領できたのは幸いであった。
85高地に立つ。給水塔の北側から一本のマンゴーの大木を望見。(巡拝と留魂29頁)
2月14日
時々砲撃を受けるが、引き続き85高地の確保に努める。
2月20日
坂東隊は千秋山を中心に第二線陣地を占有すべし、の命令を受ける。
2月22日
未明、千秋山に連なる正成山、正行山の麓に近い東斜面に集結した阪東部隊は228名(当初編成時330名)であった。
2月20日
部隊はサンマテオから第二線陣地千秋山へ撤退し、そしてここから正に生き地獄の苦しみが始まった。(巡拝と留魂16頁)
85高地、ここは阪東部隊の前進陣地であり初戦の地でもある。そして数多くの戦友達が戦死された場所でもある。(巡拝と留魂25頁)
2月21日
敵の侵攻により各陣地は失陥する。(巡拝と留魂20頁)
ワワ・ダムの瀑音が聞こえて千秋山と天王山が行く手に立ちふさがる。鋭く削り取ったような絶壁の山、千秋山は阪東部隊の第二線陣地の中心であり、阪東部隊が死守を決意したところ。(巡拝と留魂25頁)
2月26日
米軍本格的攻撃を開始。
4月
第二陣地に対する砲撃、飛行機からの攻撃も激しさを加え、緊迫の度を増してきた。
5月5日
正成山、正行山より千秋山にかけて、米軍の直接攻撃が始まり戦闘状態に入った。敵は猛烈な砲撃のもとにジリジリと一寸刻みに攻撃してきて、決して無理をしない。
それで第一線陣地からここまで二か月以上もかかっているのである。マニラ周辺になるべく多くの米軍を釘づけにしておくことが阪東部隊の作戦だから、目的は達成せられていると信じていた。
まもなく千秋山は正面と正成山、正行山の稜線伝いの敵の攻撃を受け、芙蓉山より砲の直撃を受けるようになる。
5月6日頃
モンタルバン=ワワ街道を来た敵兵が原住民の道案内で崖を登り千秋山稜線に出現し攻撃を加えてきた。
そのうち敵は芙蓉山頂に戦車を上げ、砲撃してくる。
本部は千秋山頂上の岩陰にいるが、その岩が砲弾でだんだんと壊されていく。全山が石灰岩で壕は全く掘れない。砲撃がやんだかと思うと米兵の投げる手榴弾の炸裂、火炎放射器も持っている。
まばらに生えている、しのべ竹や灌木がパチパチ燃えているのを背嚢で叩き消す。山頂は六帖一間位の広さしかない。稜線上の石灰岩は風化されてとんがり、一面針の山の様相で、鋭いのを踏みつけると、はいている地下足袋の底にプツリと穴があく。(59頁)
5月17日
金田操 ルソン島マニラ市周辺方光山付近にて戦死(陸軍伍長)
6月3日
阪東隊に対する米軍の攻撃がめっきり少なくなった。
敵は阪東隊に対し監視兵だけを残し、両側を迂回してどんどん東進して行く。
部隊は完全に敵中にとり残された。食料は極度に欠乏していた。わずかに附近に自生している芋の葉っぱを食べていた。
6月8日
方山光失陥。ごろりと横になれば、みな睡魔に襲われる。降り出した雨で地面が濡れ、地面に接している背中まで滲みてくる。それでも眠った。目が覚めると枕元に白骨があった。あまり驚かない。死というものに鈍感になっていた。「今に行くからな!」と片手で拝む。埋めてやる力がない。(巡拝と留魂64頁)
「兵隊が寝ているのかな」と思って近づくと、軍装したまま白骨になっている者もあった。暑いし、スコールで洗われ、すぐに奇麗な白骨になってしまう。貯金通帳と子供の写真をおし頂くように、うつぶせの白骨のものもある。その写真の子供が笑っている。やるせない。(巡拝と留魂66頁)
戦いは全部が劣勢下の防禦で、希望亡きものであった。余程心がしっかりしていないと任務達成は出来ない。
不惑、不屈、不動、辛抱強く戦ったものだと思う。
千秋山を中心とする主陣地の死闘は地獄のそれであつた。
即ち、山頂で敵中に孤立。頭上よりの火焔と手榴弾に攻め立てられ、眼下の満々たるワワ・ダムを眺めつつ、取水に術なく、一滴の飲み水すらなく、飲まず食わず戦い抜くこと旬日余、耐えに揕えて陣地を死守した。到底人間業とは思えない。
戦闘には色々あるが、これ程残酷な事はまちとあるまい。隊長も偉いが部下も立派である。阪東隊の真髄はこれに尽きる。よくも自暴自棄にならなかったものだと思う。不動の隊長を信じ最後まで、よくもついて行ったものだと感嘆するばかりである。(巡拝と留魂37項)
阪東部隊に配属された者たちは、決して精鋭第一師団の名に恥じなかったこと。部隊は終始命令通りに行動し、しかもみんな勇敢に戦ったことは確かであ。(巡拝と留魂47項)
ありがとうございました。 残暑では有りますが厳しい暑さですのでお身体に気おつけてお過ごし下さい。
迫 耕三