第4章 厚生年金基金経営上の諸問題
(1)基金運営から基金経営へ
①代行故の官依存
厚生年金基金制度の目的は加入員の<老後生活安定の一助>です。これを達成するために、厚生年金の一部代行という形の民間活力活用で制度が発足し、確定給付システムによる事前積立方式で事業展開されているところです。
この日本の「厚生年金基金」は、世界にも例の無い公的年金の一部代行を行う制度のため行政による多様な介入・制約が生じ、事業はほとんど行政により取り仕切られていました。この結果、民間活力活用という制度発足の趣旨とは逆に厚生年金基金にとって裁量の余地が無い統制経済そのものの事業となってしまいました。全てが行政の手のうちで行われるということは、民間の創意工夫など必要とせず、基金は言われるがままに事業運営を展開していれば足りるという官僚依存の運命共同体的体質を作りだしてしまったのです。
②ビルトインされていたものの浮上
そこに、制度発足の時点ですでにビルトインされてはいましたが、その矛盾が表面化していなかっただけの<反統制経済的行為である資産運用>という問題が積立金不足による解散基金の続出により浮上してきたのです。
ところが、厚生省の資産運用に関する規制緩和は平成9年12月の5.3.3.2規制撤廃によりほぼ完了したと言えるでしょうし、制度が発足して30年、資産運用が問題になってからでも10年は経過しているのですが、それでも、年金基金の事業展開において官僚統制の裁量行政がやまず、順法精神あふれる整合性維持の事業<運営>をしていればよいというのでは、制度発足の趣旨、本体代行による民間活力の活用は未達成のままです。
とは言え、余りに時間がかかり過ぎるとだけ言い置く訳にもいかない。というのも、この問題──官僚統制の世界に反統制経済的行為がなされるようになってきたということは、フレームワークを単に替えるだけではすまない人心一新のために多くの議論の積み上げが必要であり、既得権益集団の血塗れの退場が不可欠であり、人々の哲学の更新が求められるような大きな問題であって、とても一朝一夕で事業は成就しやしないからです。
しかし、それも、当初から年金基金制度に仕掛けられていました<資産運用>という反統制経済的行為が起爆剤となり、<運営>からの脱皮が強要されることになってきたのです。というのも、<資産運用>は三種の神器などというピラミッド型組織人間が<運営>するものとはまったく異質の世界観のもとに行われるものであり、農耕民族風統制経済の<運営>から商工民族風自由経済の<経営>へ、基金事業は変わらざるをえないと考えられますし、変わるでしょう。
このことは、何も年金基金だけの問題ではなく、日本全般を被っている問題でもあります。外貨不足に呻吟していた時代から世界一の債権保持国に成り上がり、手持ちの札を如何に取り扱って言いものやら右往左往しているのが日本の今の現実です。
つまり、金融資産を中心にした商工業経済で生きていかざるを得ないのであって、今更、農耕民族面しておれないのです。「しんどいから統制経済のぬるま湯でいいよ」と言うのは既得権益集団内だけのこと、日本の将来を切り開くのはそういう消え行く保守集団ではなく、もつとエネルギッシュな反組織的な猛烈な切磋琢磨を試行錯誤するイノヴェーター逹でしょう。
そう考えていくと、大蔵省は「母性」のかたまりのようであるし、年功序列も終
身雇用も全て「母性」によってつくられ守られてきたのだろう。つまり、金融ビッ
グバンなるものは「母性」によって堅く保護されてきた殻を破って「父性」を発揮
せよ、ということだと考えてみるのもいい。
有澤沙徒志『日本人はウォール街の狼たちに学べ』
現今の統制・規制方式から民営化への流れは歴史の必然でありましょう。そのうえ、基金事業に資産運用がインストール、内蔵されているのですから、基金事業は、<運営>から<経営>へ切り替えざるを得ないということになりましょうし、基金業務は社会保険マターではなく、金融ビジネスなのだという認識が一般的なことになりましょう。
③グローバリゼーションの力学
この流れをさらに促進するためには、現今、次のような点が課題となりましょう。
①行政の関与を最小限に制限すること
②受給権確保のため年金法の施行
③財政基盤確立のためインフラ整備
④明確な年金基金の経営理念の確立
⑤年金基金従事者の金融専門家・プロ化
⑥資本の生産性向上のため徹底した合理化追求
旧体制を新体制に切り替えていくについては、非革命的に、つまり漸進主義で変えていくのが一般的な従来手法(統治・統制手法)ではありますが、それでは変革スピードが遅いということ、資本の生産性が低いということ、規制を嫌って規制の無いところへ国家を捨てて起業する人が増えてきている中(ボーダレス現象)で、既得権益集団の人々の恣意・意図とは別の分野で、資本の論理という強権(例えば、年金の資産運用利回りが5.5%以上必要と要請されている世界で金融ド素人の社会保険行政出身者でも金融の研究をして稼がざるを得ないとか、外資系金融機関が進出して来れば商品特性の比較が当然発生し消え行く金融機関も出てくるとか、スワップ市場での円金利が低コストで調達できるのですから大蔵省の長・短分離政策が無意味になってしまいましたとか、神の見えざる手が機能する市場の力による円高圧力・統制経済破壊等々)が、拒んでも拒みきれない力(グローバル化)で旧体制の強固に仕組まれていた既得権益集団組織を切り崩してしまうのです。
④ゼネラリストの姿勢
平成10年10月、厚生省年金局長は「民間活動に係る規制の改善」に関する政省令を通知しましたが、この改正内容の留意点の中で、運用執行理事の要件として、①基金の財政状況に精通し、②管理運用業務を適正に執行できるものであり、③基金の業務運営に熱意を有するものを充てること、としています。ここには、目新しい点が2つあります。まず、<民間活動に係る規制>という文言ですが、基金制度発足の時点で盛んに言われていました民活という概念が30年ぶりに復活しましたということ、それがさらに、その活動を実態は統制・規制してきましたという事実認識を公式表明したということ。次ぎに、30年間の統制・統治のスタティックな法体系の中にまったく逆の文学的な表現である<熱意を有するもの>などという曖昧模糊たる概念を挿入したということです。
この裏には、厚生官僚の呻吟が透けてくるようです。というのも、官僚の手法というものはどんなに小さな政府を標榜しても原理的にイコール統制ということであり、そういう資質を持っている官僚の手の内に、資産運用という反農耕民族風観念・反統制経済的業務を推進することになってしまいました焦り、手に余るという緊張が<熱意を有するもの>などという表現になったのでしょう。
ところで、<熱意を有するもの>という表現は具体的には何も言ってないのと変わりませんが、一般的に従来の日本のゼネラリスト逹の執務・勤務態度を振り返れば、社内ばかり向いていてグローバルな見方を拒絶する、本を読まない、社外情報を取らない、客観的・合理的・理論的検討を無用とする等々は、とても<熱意を有するもの>とは言えないでしょう。
うがった見方をすれば、厚生官僚はゼネラリスト逹に<熱意を有するもの>という抽象表現によって、責任の所在を曖昧にする一方で、ゼネラリスト逹の世界観の変換を求めているのかもしれません。同じ切磋琢磨も、旧来のゼネラリスト逹のそれは社内事情の観察ですし、<熱意を有するもの>のそれはイノヴェーターの活動になります。
イノヴェーターの活動の実態は、革命的であれ! ということです。厚生省も役所としてそうは言えませんでしょう。それで出てきたのが<熱意を有するもの>という文学的表現の代替語句なのではないでしょうか。
・・・・・・・そして、それ以前に、わが国の機関投資家が根底に置くべき事項として
は、「資産運用の社会的使命感」があります。この使命感を欠いた場合、それはいか
に巨大な運用資産を抱えていても「ローテーション人事によるサラリーマンの単なる
資産運用ごっこ」の域を出ないことになる。
保田圭司『グローバルマネー』
つまり、旧来の統治方法、運営手法、お上と下々のヒエラルキーは機能不全に陥り、イノヴェーター逹の縦横無尽の活躍が期待される事態になってきたということでしょう。このことは、行政サイドにおいても裁量行政から事後監視型行政への転換、政策決定手続きの透明性確保のための「パブリックコメント」等となって表面化してきているようです。
要するに、基金の事業は、官民の渡り鳥ゼネラリストによって整合性維持で<運営され
るもの>から、イノヴェーター逹によって<経営されるもの>へ変貌しつつあるというこ
とであります。
⑤最良執行
厚生年金基金は、その設立主旨(加入員の老後生活安定の一助に年金給付を行う)の達成を図るため、最善を尽くす<最良執行>を求められています。それは単に、職員の人件費削減、または業務費のコスト削減などという管理・運営レベルのものばかりではなく、経営体としての高度な質、受託者として委託者(株主・企業・社員等)にローコスト・ハイリターンな還元を行うこと、インフレやデフレの経済環境を越えて長期に渡る老後生活安定の方策を提供する統治(ガバナンス)が求められています。つまり、金融ビジネスとして利害関係者に付加価値を提供するように経営することが課せられているのです。
これを達成・成就するために、行政サイドからは厚生年金本体との整合性維持を求められ、民間サイド(母体企業)からは費用対効果での成果を要求されます。そのうえ、基金自身は給付の安定性確保のために、様々な社会・経済状況の影響をクリアーしていかなければならないように仕組まれているのです。たとえば、加入員の激減、資産運用手数料・業務委託費のハイコスト、総幹事制の恫喝営業、業者の横並びによる競争メリット享受の排除、持株の政策運用が力を持つ資産運用、受給権保護、裁量行政下の民間活力発揮、金融パニツク下の資産保全策、政府の統制経済(低金利政策等)下、制度維持対策等々の場面で、クオリティの高い最良執行が求められることになるのです。
しかし、残念なことにこれらの圧倒的な力に立ち向かうには基金の最良執行達成能力は余りにも弱体でしたし、限界がありました。基金の事務所体制は、ゼネラリストの2、3年の人事ローテーションがまかりとおるのが一般であって、とても、強固なかたくなな規制を行ってきました行政サイドと大蔵省の虎の威を借りて金融プロを詐称していた業者等に、対抗できる力を充分に蓄積できなかったのが現実です。
それは、たとえ理事長であってもゼネラリストの超短期なローテーションではノウハウと経験を持ち合わせず、行政の規制で身動き取れませんまま業界の事情にも通じていないので運営もままならず、ましてや経営も統治も出来る世界ではなかったと言えるのでしょう。つまり、構造的に基金の最良執行達成の経営権は没収されていたということです。
一方、この<基金の経営権>確立のために、個々の基金の限界を踏まえた団体としての政治的な活動も継続的に熱心に行われきました。各都道府県の厚生年金基金連絡協議会、厚生年金基金連合会の各種委員会・研究会、単独連合厚生年金基金協議会、総合厚生年金基金協議会等々で制度の研究が継続され、厚生省等へ基金のあるべき姿・将来の方向等の要望が再々行われてきました。
個々の場面毎の困難さとは別に、長期的な観点から見ると、このような基金を取り巻きます環境の中で、基金の最良執行を方向付ける<経営指針>はおもむろに立ち上がってきたと
言えるでありましょう。官僚やゼネラリストお得意の「決める」という性急・無知な手法ではなく、社会情勢の変化、諸団体の民意反映の改善要望等と相俟って、小さな基金の30年という長い時間と理事長7、8人、常務理事5人、事務長5人、それに代議員300人程等
々の多数の関係者の手を経て、その時々、場面、場面で大勢の人々の英知が現実と再々の対決をすることで<経営指針>が「決まってきました」とは言えるでしょう。これは多数者構成の市場では、<決める>ではなく<決まる>というのがセオリーになっていることと同じと考えられるのではないでしょうか。
このようにして、個々の基金に蓄積されつつある知識と経験とノウハウは、他の業界に見られない独自なもの、つまり広く日本の資産運用一般を考えたとき、他に例を見ないインフラとノウハウを築き上げたということは間違いのないところでしょう。<決まった>というレベルではなく経過的、途上にあるものですが。
そのささやかな一つの事例を示しますと、次のようなものもそれと言えるのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/43/bf7427fd1e4708f285885215afc719da.jpg)
30年余の経験と執拗な意欲によって諸々の環境が徐々に整備されるにつれて、掛金徴収団体の<運営意識>は、グローバルなボラティリティの高い金融環境の中で、負の遺産の精算を思案しつつ掛金と給付のバランスをとる生産性の高い<経営意識>に変わりつつあります。母体企業または加入員・年金受給者等にローコスト・ハイリターンな還元が行えます
場面に到達しましたということは、まさに<経営の時代>に突入したということでしょう。
ロッキィーズ物語
5 1対1ノック
右手にボールを握ったミット、左手にバットを持って、ネットを背にした少年の
5メーター程手前に立つと、少年と私のバトルが始まる。
ーイクゾォー
ーウオォー、と共に、左手から宙に浮かせたボールを右手のバットがたたくと、
少年の前でボールはワンバウンドしてグローブに吸い込まれる。補球されたボール
はミットめがけて返球され、再びノックが繰り返される。
ーイクゾォー
ーウオォーの繰り返し。捕り損なえば罵声が少年を煽り、更に強いノックが雨霰
と少年をたたく。ノッカーは夜叉みたいになって左のミットと右手のバットを振り
回し、右に左にゴロボール散らしダイレクトな飛球を胸元に飛ばす。機敏さ俊敏さ
が全開する。精神はただひたすら前方へはばたく。常に前へだけがあり過去にこ
だわる暇は一瞬もない。ノッカーはおもむろに距離をせばめつつ、少年もコーチも
夢中になって捕り、打ちしつつ、互いに忘我の境に突入する。打ち、捕りの一時、
そこに少年とコーチの交歓が成就する。
突然、コーチの自分が中学生になり、ノックを受けている田舎の中学校のグラン
ドが沸き起ってきた。先輩の野良着姿の孫ェ門が打つノックをハアハアしながら受
けているところだった。
その頃には、辺りは完全な静寂が支配し、肉体がただゴツゴツと動くだけのそこ
で尺度も水準も別次元の心身一如の摩訶不思議を味わった末に、少年に周りのざわ
めきが遠雷のように湧き起ってきて、その魔界から不思議なエネルギーを充満させ
たまま立ち上がることになる。
そこから、この世を眺めまわすと、いわゆる<現実>と言われているものが如何
に脱色されていることか、或いは脚色されたシナリオが被っているかを見ることに
なる。つまり、ピュアな原始そのものの素材を発見し愕然とさせられ、そしてその
あまりの衝撃に、少年は言葉を失い沈黙する。
(1)基金運営から基金経営へ
①代行故の官依存
厚生年金基金制度の目的は加入員の<老後生活安定の一助>です。これを達成するために、厚生年金の一部代行という形の民間活力活用で制度が発足し、確定給付システムによる事前積立方式で事業展開されているところです。
この日本の「厚生年金基金」は、世界にも例の無い公的年金の一部代行を行う制度のため行政による多様な介入・制約が生じ、事業はほとんど行政により取り仕切られていました。この結果、民間活力活用という制度発足の趣旨とは逆に厚生年金基金にとって裁量の余地が無い統制経済そのものの事業となってしまいました。全てが行政の手のうちで行われるということは、民間の創意工夫など必要とせず、基金は言われるがままに事業運営を展開していれば足りるという官僚依存の運命共同体的体質を作りだしてしまったのです。
②ビルトインされていたものの浮上
そこに、制度発足の時点ですでにビルトインされてはいましたが、その矛盾が表面化していなかっただけの<反統制経済的行為である資産運用>という問題が積立金不足による解散基金の続出により浮上してきたのです。
ところが、厚生省の資産運用に関する規制緩和は平成9年12月の5.3.3.2規制撤廃によりほぼ完了したと言えるでしょうし、制度が発足して30年、資産運用が問題になってからでも10年は経過しているのですが、それでも、年金基金の事業展開において官僚統制の裁量行政がやまず、順法精神あふれる整合性維持の事業<運営>をしていればよいというのでは、制度発足の趣旨、本体代行による民間活力の活用は未達成のままです。
とは言え、余りに時間がかかり過ぎるとだけ言い置く訳にもいかない。というのも、この問題──官僚統制の世界に反統制経済的行為がなされるようになってきたということは、フレームワークを単に替えるだけではすまない人心一新のために多くの議論の積み上げが必要であり、既得権益集団の血塗れの退場が不可欠であり、人々の哲学の更新が求められるような大きな問題であって、とても一朝一夕で事業は成就しやしないからです。
しかし、それも、当初から年金基金制度に仕掛けられていました<資産運用>という反統制経済的行為が起爆剤となり、<運営>からの脱皮が強要されることになってきたのです。というのも、<資産運用>は三種の神器などというピラミッド型組織人間が<運営>するものとはまったく異質の世界観のもとに行われるものであり、農耕民族風統制経済の<運営>から商工民族風自由経済の<経営>へ、基金事業は変わらざるをえないと考えられますし、変わるでしょう。
このことは、何も年金基金だけの問題ではなく、日本全般を被っている問題でもあります。外貨不足に呻吟していた時代から世界一の債権保持国に成り上がり、手持ちの札を如何に取り扱って言いものやら右往左往しているのが日本の今の現実です。
つまり、金融資産を中心にした商工業経済で生きていかざるを得ないのであって、今更、農耕民族面しておれないのです。「しんどいから統制経済のぬるま湯でいいよ」と言うのは既得権益集団内だけのこと、日本の将来を切り開くのはそういう消え行く保守集団ではなく、もつとエネルギッシュな反組織的な猛烈な切磋琢磨を試行錯誤するイノヴェーター逹でしょう。
そう考えていくと、大蔵省は「母性」のかたまりのようであるし、年功序列も終
身雇用も全て「母性」によってつくられ守られてきたのだろう。つまり、金融ビッ
グバンなるものは「母性」によって堅く保護されてきた殻を破って「父性」を発揮
せよ、ということだと考えてみるのもいい。
有澤沙徒志『日本人はウォール街の狼たちに学べ』
現今の統制・規制方式から民営化への流れは歴史の必然でありましょう。そのうえ、基金事業に資産運用がインストール、内蔵されているのですから、基金事業は、<運営>から<経営>へ切り替えざるを得ないということになりましょうし、基金業務は社会保険マターではなく、金融ビジネスなのだという認識が一般的なことになりましょう。
③グローバリゼーションの力学
この流れをさらに促進するためには、現今、次のような点が課題となりましょう。
①行政の関与を最小限に制限すること
②受給権確保のため年金法の施行
③財政基盤確立のためインフラ整備
④明確な年金基金の経営理念の確立
⑤年金基金従事者の金融専門家・プロ化
⑥資本の生産性向上のため徹底した合理化追求
旧体制を新体制に切り替えていくについては、非革命的に、つまり漸進主義で変えていくのが一般的な従来手法(統治・統制手法)ではありますが、それでは変革スピードが遅いということ、資本の生産性が低いということ、規制を嫌って規制の無いところへ国家を捨てて起業する人が増えてきている中(ボーダレス現象)で、既得権益集団の人々の恣意・意図とは別の分野で、資本の論理という強権(例えば、年金の資産運用利回りが5.5%以上必要と要請されている世界で金融ド素人の社会保険行政出身者でも金融の研究をして稼がざるを得ないとか、外資系金融機関が進出して来れば商品特性の比較が当然発生し消え行く金融機関も出てくるとか、スワップ市場での円金利が低コストで調達できるのですから大蔵省の長・短分離政策が無意味になってしまいましたとか、神の見えざる手が機能する市場の力による円高圧力・統制経済破壊等々)が、拒んでも拒みきれない力(グローバル化)で旧体制の強固に仕組まれていた既得権益集団組織を切り崩してしまうのです。
④ゼネラリストの姿勢
平成10年10月、厚生省年金局長は「民間活動に係る規制の改善」に関する政省令を通知しましたが、この改正内容の留意点の中で、運用執行理事の要件として、①基金の財政状況に精通し、②管理運用業務を適正に執行できるものであり、③基金の業務運営に熱意を有するものを充てること、としています。ここには、目新しい点が2つあります。まず、<民間活動に係る規制>という文言ですが、基金制度発足の時点で盛んに言われていました民活という概念が30年ぶりに復活しましたということ、それがさらに、その活動を実態は統制・規制してきましたという事実認識を公式表明したということ。次ぎに、30年間の統制・統治のスタティックな法体系の中にまったく逆の文学的な表現である<熱意を有するもの>などという曖昧模糊たる概念を挿入したということです。
この裏には、厚生官僚の呻吟が透けてくるようです。というのも、官僚の手法というものはどんなに小さな政府を標榜しても原理的にイコール統制ということであり、そういう資質を持っている官僚の手の内に、資産運用という反農耕民族風観念・反統制経済的業務を推進することになってしまいました焦り、手に余るという緊張が<熱意を有するもの>などという表現になったのでしょう。
ところで、<熱意を有するもの>という表現は具体的には何も言ってないのと変わりませんが、一般的に従来の日本のゼネラリスト逹の執務・勤務態度を振り返れば、社内ばかり向いていてグローバルな見方を拒絶する、本を読まない、社外情報を取らない、客観的・合理的・理論的検討を無用とする等々は、とても<熱意を有するもの>とは言えないでしょう。
うがった見方をすれば、厚生官僚はゼネラリスト逹に<熱意を有するもの>という抽象表現によって、責任の所在を曖昧にする一方で、ゼネラリスト逹の世界観の変換を求めているのかもしれません。同じ切磋琢磨も、旧来のゼネラリスト逹のそれは社内事情の観察ですし、<熱意を有するもの>のそれはイノヴェーターの活動になります。
イノヴェーターの活動の実態は、革命的であれ! ということです。厚生省も役所としてそうは言えませんでしょう。それで出てきたのが<熱意を有するもの>という文学的表現の代替語句なのではないでしょうか。
・・・・・・・そして、それ以前に、わが国の機関投資家が根底に置くべき事項として
は、「資産運用の社会的使命感」があります。この使命感を欠いた場合、それはいか
に巨大な運用資産を抱えていても「ローテーション人事によるサラリーマンの単なる
資産運用ごっこ」の域を出ないことになる。
保田圭司『グローバルマネー』
つまり、旧来の統治方法、運営手法、お上と下々のヒエラルキーは機能不全に陥り、イノヴェーター逹の縦横無尽の活躍が期待される事態になってきたということでしょう。このことは、行政サイドにおいても裁量行政から事後監視型行政への転換、政策決定手続きの透明性確保のための「パブリックコメント」等となって表面化してきているようです。
要するに、基金の事業は、官民の渡り鳥ゼネラリストによって整合性維持で<運営され
るもの>から、イノヴェーター逹によって<経営されるもの>へ変貌しつつあるというこ
とであります。
⑤最良執行
厚生年金基金は、その設立主旨(加入員の老後生活安定の一助に年金給付を行う)の達成を図るため、最善を尽くす<最良執行>を求められています。それは単に、職員の人件費削減、または業務費のコスト削減などという管理・運営レベルのものばかりではなく、経営体としての高度な質、受託者として委託者(株主・企業・社員等)にローコスト・ハイリターンな還元を行うこと、インフレやデフレの経済環境を越えて長期に渡る老後生活安定の方策を提供する統治(ガバナンス)が求められています。つまり、金融ビジネスとして利害関係者に付加価値を提供するように経営することが課せられているのです。
これを達成・成就するために、行政サイドからは厚生年金本体との整合性維持を求められ、民間サイド(母体企業)からは費用対効果での成果を要求されます。そのうえ、基金自身は給付の安定性確保のために、様々な社会・経済状況の影響をクリアーしていかなければならないように仕組まれているのです。たとえば、加入員の激減、資産運用手数料・業務委託費のハイコスト、総幹事制の恫喝営業、業者の横並びによる競争メリット享受の排除、持株の政策運用が力を持つ資産運用、受給権保護、裁量行政下の民間活力発揮、金融パニツク下の資産保全策、政府の統制経済(低金利政策等)下、制度維持対策等々の場面で、クオリティの高い最良執行が求められることになるのです。
しかし、残念なことにこれらの圧倒的な力に立ち向かうには基金の最良執行達成能力は余りにも弱体でしたし、限界がありました。基金の事務所体制は、ゼネラリストの2、3年の人事ローテーションがまかりとおるのが一般であって、とても、強固なかたくなな規制を行ってきました行政サイドと大蔵省の虎の威を借りて金融プロを詐称していた業者等に、対抗できる力を充分に蓄積できなかったのが現実です。
それは、たとえ理事長であってもゼネラリストの超短期なローテーションではノウハウと経験を持ち合わせず、行政の規制で身動き取れませんまま業界の事情にも通じていないので運営もままならず、ましてや経営も統治も出来る世界ではなかったと言えるのでしょう。つまり、構造的に基金の最良執行達成の経営権は没収されていたということです。
一方、この<基金の経営権>確立のために、個々の基金の限界を踏まえた団体としての政治的な活動も継続的に熱心に行われきました。各都道府県の厚生年金基金連絡協議会、厚生年金基金連合会の各種委員会・研究会、単独連合厚生年金基金協議会、総合厚生年金基金協議会等々で制度の研究が継続され、厚生省等へ基金のあるべき姿・将来の方向等の要望が再々行われてきました。
個々の場面毎の困難さとは別に、長期的な観点から見ると、このような基金を取り巻きます環境の中で、基金の最良執行を方向付ける<経営指針>はおもむろに立ち上がってきたと
言えるでありましょう。官僚やゼネラリストお得意の「決める」という性急・無知な手法ではなく、社会情勢の変化、諸団体の民意反映の改善要望等と相俟って、小さな基金の30年という長い時間と理事長7、8人、常務理事5人、事務長5人、それに代議員300人程等
々の多数の関係者の手を経て、その時々、場面、場面で大勢の人々の英知が現実と再々の対決をすることで<経営指針>が「決まってきました」とは言えるでしょう。これは多数者構成の市場では、<決める>ではなく<決まる>というのがセオリーになっていることと同じと考えられるのではないでしょうか。
このようにして、個々の基金に蓄積されつつある知識と経験とノウハウは、他の業界に見られない独自なもの、つまり広く日本の資産運用一般を考えたとき、他に例を見ないインフラとノウハウを築き上げたということは間違いのないところでしょう。<決まった>というレベルではなく経過的、途上にあるものですが。
そのささやかな一つの事例を示しますと、次のようなものもそれと言えるのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/43/bf7427fd1e4708f285885215afc719da.jpg)
30年余の経験と執拗な意欲によって諸々の環境が徐々に整備されるにつれて、掛金徴収団体の<運営意識>は、グローバルなボラティリティの高い金融環境の中で、負の遺産の精算を思案しつつ掛金と給付のバランスをとる生産性の高い<経営意識>に変わりつつあります。母体企業または加入員・年金受給者等にローコスト・ハイリターンな還元が行えます
場面に到達しましたということは、まさに<経営の時代>に突入したということでしょう。
ロッキィーズ物語
5 1対1ノック
右手にボールを握ったミット、左手にバットを持って、ネットを背にした少年の
5メーター程手前に立つと、少年と私のバトルが始まる。
ーイクゾォー
ーウオォー、と共に、左手から宙に浮かせたボールを右手のバットがたたくと、
少年の前でボールはワンバウンドしてグローブに吸い込まれる。補球されたボール
はミットめがけて返球され、再びノックが繰り返される。
ーイクゾォー
ーウオォーの繰り返し。捕り損なえば罵声が少年を煽り、更に強いノックが雨霰
と少年をたたく。ノッカーは夜叉みたいになって左のミットと右手のバットを振り
回し、右に左にゴロボール散らしダイレクトな飛球を胸元に飛ばす。機敏さ俊敏さ
が全開する。精神はただひたすら前方へはばたく。常に前へだけがあり過去にこ
だわる暇は一瞬もない。ノッカーはおもむろに距離をせばめつつ、少年もコーチも
夢中になって捕り、打ちしつつ、互いに忘我の境に突入する。打ち、捕りの一時、
そこに少年とコーチの交歓が成就する。
突然、コーチの自分が中学生になり、ノックを受けている田舎の中学校のグラン
ドが沸き起ってきた。先輩の野良着姿の孫ェ門が打つノックをハアハアしながら受
けているところだった。
その頃には、辺りは完全な静寂が支配し、肉体がただゴツゴツと動くだけのそこ
で尺度も水準も別次元の心身一如の摩訶不思議を味わった末に、少年に周りのざわ
めきが遠雷のように湧き起ってきて、その魔界から不思議なエネルギーを充満させ
たまま立ち上がることになる。
そこから、この世を眺めまわすと、いわゆる<現実>と言われているものが如何
に脱色されていることか、或いは脚色されたシナリオが被っているかを見ることに
なる。つまり、ピュアな原始そのものの素材を発見し愕然とさせられ、そしてその
あまりの衝撃に、少年は言葉を失い沈黙する。
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