(4)平成10年度現在の状況
さて、厚生年金基金の資産運用方法の輪郭について述べていくに際して、平成10年現在の基金を取り巻く状況はどのようになっているのでしょうか。
一般的な状況は、制度発足後30年経過し、確定給付型年金制度は日本経済の10年に及ぶ経済低迷・超低金利政策により、事前積立方式の倒壊を招きつつ積立不足基金を続出させ、制度の是非が問われて何年になるでしょうという状態にあります。一方、現実の年金給付は、代行スタイルの本邦基金の代行部分(国の老齢厚生年金の報酬比例部分)の年金が加入期間の長期化に伴い、厚生年金本体から給付される老齢基礎年金等(厚生年金の定額部分)と、同額程度まで実績を積み上げており、加入員の老後生活の安定という基金制度の初期の目的を達成しつつあります。
しかし、年金給付はさておき、制度発足時の民間活力活用という大義名分は、30年に渡る代行制度の継続のうちにまったく官僚支配に押さえ込まれてきました。それでも、基金制度の内部に仕掛けられていました<資産運用>という反官僚的時限爆弾が積立不足という炸裂を10年に渡ってそこここで起こし始めて、行政の裁量を縮小させ規制緩和の歩みから規制撤廃をもたらしつつ、事後監視型行政に移行しつつあるという状況でありましょう。
次の10年の民間活力活用目標は、<代行>という官僚的国家的仕組みが商工民族風<資産運用>という民間事業とは水と油の取合せであることから、自から<厚生年金基金の完全民営化>に収斂していくことでありましょう。仮りに、官僚が民営化を阻止したいのであれば、基金制度から<資産運用>という仕組みを外さなければならないでしょうが、ここまでの現実の積み上げがあるなかではそれはまったくの暴挙、傲慢以外のなにものでもないでしょうし、世論の大きな流れはそれを許さないでしょう。
併せて、加算部分に組み込まれた終身雇用と年功序列賃金を基本構造とする退職金制度の矛盾(功労報奨退職金)が露呈し、国際会計基準の導入(平成12年4月)により引導を渡される場面(要支給額方式から退職給付債務方式)を迎えています。このことは、いまひとつの大義名分でありました<退職金の年金化>が、基金制度発足の時から信託・生保のセールス・トークではありましたが年金化の進展は思うに任せないまま経過し、世界の常識という国際会計基準のフレームワークの強制力が作用して、実現へ向けて現実的な歩みを始めようとしていることを意味するのでしょう。このような二つの観点からだけでも、基金制度はフレームワークの変更の時期を迎えていると言えるでありましょう。
厚生年金基金の内部構造に組み込まれている<資産運用>そのものの状況は、5・3・3・2規制の撤廃を受け、「運用自由化の時代」(厚生年金基金連合会:資産運用研究会)を迎えてはいます。各基金とも、現在その対応に懸命に取り組んでいるところですが、超低金利の中、<お任せ運用>から<運用指図>という場面転換を迎え、積立不足を抱えながら基金制度の再点検、経営指針の再設定、組織の再構築、運用技術の修得等々が緊急の課題となっていますが、歩みはそうそうスピードアップを期待出来ません。
一方、本邦金融機関・金融市場・金融行政は金融破綻・金融不祥事の状況からの脱出を目指してインフラ整備に取り組んでいますが、こちらも同様でしょう。反対に、金融の世界のグローバリゼーションは猛烈なスピードで展開しており、日本の<資産運用>がキャッチ・アップするのは当分見込めない状態にあると考えて誤りはないでしょう。
ヴァーチャル化し、グローバル化した市場資本主義の動きは速い。それは、
人間の物理的能力をおそらくこえたスピードで動いている。ロシアからラテン・アメリ
カ、そしてウォール・ストリート、東京と、場面は次々とまわっていく。
榊原英資『国際金融の現場』
基金サイドにも徐々に変化が現われ、ゼネラリストの無能が露呈し一般認識が進捗して資産運用のプロフェッショナル(金融機関等からのハンティング)の採用、セカンド・ベターな選択として企業の財務畑人材の登用が増加しつつあります。基金自体の研鑽も進み、証券アナリスト試験に合格された人も現われましたし、将来はMBA取得者も数理人も公認会計士もSEも法律家も輩出するのではないでしょうか。或いは、基金が招請することになりましょう。
長い年月、基金業務を黙々と担当・経験してきた職員も増加し、ベテランとなりスペシャリストとなりプロ化しつつあります。そうではあっても、30年も勤務していれば自動的にプロだということもないのですが、単なる永年勤続表彰と違い「基金のプロ」というのは公認のものになってはいませんが、年金アロケーターとしてその多様な業務(財政・法律・制度設計・啓蒙・資産運用等の経営マネジメント業務と、機関管理・掛金徴収・年金給付・福祉施設・情報公開等のバックオフィス業務のない混ぜになった事業)を掌握・展開している人が基金に続々と輩出してきたということであります。
和を乱し、村八分にされたならば、田の水がもらえなくなる。私たちは一人では
生きていけない米社会民族の子孫であり、競争が不得意だ。
・・・・・・・。ところが、一人ひとりの競争になると、日本人はまるで弱い。個人で
競争し、人を押しのけて自己を売り出すのは、気品がないことだとしつけられてき
た。逆境のなかで、孤独に闘う力はまったくない。日本にはノーベル賞学者が極端
に少ないのも、ベンチャー・ビジネスが出にくいのも、そのためだ。また、私たち
は集団のなかで平等に生きることにすっかり慣れたため、自分の努力不足や判断ミ
スによる不幸を、すべて集団の責任にする癖がついてしまった。判断力と責任感を
失ってしまったのである。
竹内 宏『金融敗戦』
(5)資産運用マネジメント
厚生年金基金の資産運用マネジメントというものは、いろいろ資料に当たり諸外国を見ても出来上がった体系があるという状態ではありません。そもそも資産運用マネジメントというものは、演繹的に物事を取り決め計画して現実をとり押さえていけるほどのものを対象にしているわけではなく、仮置きしたものから始めて日々現実のキャパシティからの見返りを浴びつつ帰納的に立ち上げていく経過的なものであり、体系化には馴染まないものでありましょう。
ということは、厚生年金基金の資産運用マネジメントは、月並みではあるが基金制度の目的、基金の事業内容、基金を取り巻く環境、基金が抱えている問題等々をよくよく熟慮しつつ、試行錯誤の経験を積み重ねつつ、徐々に変動し続ける輪郭として形成されるものでしょう。言ってみれば、アメーバー状の活動であり、蓄積されたものの増殖によってテリトリーを獲得していく態のものであるのでしょう。厚生年金基金の資産運用マネジメントが今後どう構築されていくのか、その行方については確認も予想も出来がたいのですが、従来の日本の文化にまったくなかったと言ってよいだろう<資産運用>というものが根づくためには、単にこれは厚生年金基金の問題ということではなく、法制度から始まって政治・行政・企業活動等を含めた経済・社会の日本全体を巻き込んだ日本人の生き方のレベルまでが問われる問題なのでしょう。
ここでは、厚生年金基金の資産運用マネジメントに限定して、最近基金の現場で行われ始めた試行錯誤のマネジメントの概要について触れてみます。とは言っても、これは形成途上の遅れてきた者のコラージュ(切り貼り・寄せ集め)に過ぎませんが、それでもその素材の衝突から理路整然たる学者風理論ではない、より実効性の高い現実的な或る調和を形成したものが生まれることは確実であると考えられます。ここで求められる資質は、ただ、<切磋琢磨の試行錯誤>の希求心だけです。その素材になるものは、情報操作や情報隔離、情報遮断や議論遺棄等の統制的手法を覆す多種多様・多量な情報です。ここでは無知が取敢えずの敵です。
たとえば、96年の大和銀行ニューヨーク支店の110億ドルに上る損失を大蔵
省に相談しその公表を遅らせるといった方法が、なぜ日本でまかり通るのか。市場
経済が効率的であるということは、参入と退出が自由であり、その失敗は司法で裁
かれるのが自由主義国家の条件であるはずなのに、日本ではそれが官僚の判断に委
ねられている。ここに現在の金融危機の本質的問題がある。
住専7社の経営破綻に伴い大蔵省が発表した報告書で、「住専の元凶は、財務諸
表の分析もできなかった低劣なる審査能力にあった」と自己批判を行っている意味
は深い。
平成11年版「企業年金白書」:加藤 寛「「信」無くば立たず」
ちなみに、その素材になるものの幾つかを拾い上げれば、資産運用技術、グローバル金融、本邦市場の後進・特異性、法制、財政、税制、経済学史、哲学史、社会科学、金融理論、官僚、社会保障、社会・経済状況、企業活動等々・・・・・・であり、個別な事項を上げていけば、厚生省の政省令・通知、情報収集の場として基金連合会の運用研修であり、総研や外資系運用機関のセミナー、地方協議会の研修、単独・連合基金連絡協議会等の資産運用問題委員会、現代金融理論研究会、年金経営問題研究会、海外金融機関調査等があり、情報機器のTV、ビデオ、Eメール、インターネット、ホームページ等もあります。古来から最大の情報収集手段としての著作物、それも関係部門の本について、500冊ほども目を通せばおおよそのことは見えてくるでありましょう。
関係する多様な事項については、例えば非継続基準、積立水準、確定給付と確定拠出、利害関係者と受託者責任、5・3・3・2規制、お任せ運用、集中投資と分散投資、長期運用とデーリング、リスクとリターン、ボラティリティと為替ヘッジ、MPTとシティの経験、ばかなヘッジアンと非均衡論者のヘッジアン、アングロサクソン的経営とアジア的経営、政策的資本配分と市場メカニズム、国富論の読み直し、インデビュジアルと国家、金融業界裏話、官僚の処遇、紡績業裁判、会社都合要支給額と退職給付債務、三種の神器の機能不全、民営化論と代行返上論、社会保険方式と税法式、REOからEVAへ、戦略アセット・ミックスと資産運用指図、運用機関選択法と運用機関解約法、生保の使い方、本邦運用機関との内外商品比較、「外ー内の視線」、年金資産極大下の2ケタ運用利回り、ケイジアンと構造改革論者とマネタリストの論争、MBAとケンブリツジのケース・メソッド、均衡論に対する相互作用性、契約と倫理、フィランソロピーと非営利経営、チリの年金、北欧の市場政策、オルタナティブ、オーバーレイカレンシー、デリバティブ、オフショア、非相関運用、401(k)・・・・・・と、読点もないまま、息も付かず、判断を中断したままこのような世界に身を晒す切磋琢磨が求められるのです。
厚生年金基金の業務を展開するのにこれだけ多種多様な方面・事項について承知し、ガバナンスしてマネジングしつづける方法とは、いったいどういうものになるのでしょう
官僚好みのデカルト風科学的合理主義のような推論で、はたして問題をとりおさえられるでしょうか。「問題を調べ、それを細分化し、各部文を分析して解答を見出し、次ぎにその解答を再び組み上げて新しいシステムを作り、全般的に再検討することによってそのプロセスを締めくくる。それが「方法」である。」(R.オーブレー.P.M.コーヘン『「考える組織」の経営戦略』)とするならば、現代の「現実」ははるかに17世紀当時より重層的・水平的であり、時間のミクロ化が進展しているので、ミスマッチになると言えるでしょう。ここは、オーブレー逹の言う、①超越的な知恵でもなく、②神秘的知恵でもなく、③WORKING WISDOMと呼ぶ実践的知恵の出番であるのかもしれません。
資産運用について、大半がお任せ運用でしたとはいえ30年の経緯を持つ厚生年金基金の現段階での資産運用マネジメントの概要というものがありうるとすれば、一般的に次のように考えるのは妥当なことではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/68/7eb6e225749fb3aabde4af7830f2105a.jpg)
・厚生年金基金の組織
基金制度発足の資産運用が問題にもならなかった時代に、誰が現在の基金組織の骨格を作ったのでしょうか。例のごとく、関係金融機関の企画部の仕掛け、あるいは又、世評に高い官僚主導の<何々審議会>であったのでしょうか。どちらにしても、目論見・計画・構想というものは現実に対面したときどうしても馬脚をあらわすもので、そうですから当初の詳細な計画というものは机上論・空中楼閣になりやすく、そういうものは大枠・方向だけを決めておいて、都度工夫加工の試行錯誤を繰り返せばよいものでありましょう。統制計画経済が失敗した原因はこの演繹論であり、人間の愚かしさは演繹論で世界を掌中にしたと考えやすい点です。
資産運用が問題になってきたばかりの今の日本において、始めからこれはと言う厚生年金基金の資産運用組織が確立されている訳ではありません。過去の経験の上に、グローバルな金融事情を調査し、欧米の資産運用経験・理論・技術に学びつつ本邦金融市場・金融機関を見定めつつ、<切磋琢磨の試行錯誤>を繰り返すしか方法は無いのでしょう。とは言え、始めの問題として資産運用に取り組む基金関係者の意識・認識レベルが資産運用業務に反した農耕民族風世界観である<運営>意識であるなら、そこをまず改めざるをえないであろうとい点は強調されていいでしょう。
というのも、現在のグローバル金融の資産運用業務は商工民族風世界観による<経営>、
オーナー意識により行われているのであり、<運営>意識の最たる計画経済的資産運用(ゼネラリスト運用)などというのは世界の金融界広く見ても日本の年金福祉事業団と基金位しかないでしょう。運用結果についても、太陽または風水のせいにするのではなく、自分の能力不足を断言出来なければならないでしょう。単なるジョブ・ローテションで済まされるものではないのです。つまり、厚生省の言う文字通りの「熱意を有するもの」が執行する業務です。とても、「内-内の視線」しか持ち合わせません日本のゼネラリストには出来がたい業務ですし、やらせてはならない業務です。
自由でオープンな金融市場がなければ、政府や中央銀行は政策の失敗を官僚的な
壁の裏側に隠すことができる。金融市場は政府の経済運営を民主的にチェックでき
る唯一の民主的手段である。それは三、四年に一度しかない選挙と異なり毎日機能
する仕組みである。
米タイガー・マネジメント社M・Dイェスパー・コール
「ヘッジファンド対策」日本経済新聞社:経済教室 99.4.23
そうではあっても、厚生年金基金の資産運用は利害関係者が数多く、特定少数の個人の資産運用(個人の退職金の運用とか、バフェットとか100人以下に制限されている私募形式のヘッジファンド等)と違い、不特定多数を対象にしていますので、組織的な関わりの多い資産運用となるのは避けられない特質です。(この組織的関わりを遮断したインハウス運用を行うところが数年先には出て来るでありましょう。)
このため、効率と責任とセキュリティを組織の中で如何に確保するか、使命感を醸成し、
倫理感を高揚させるインセンティブを如何に仕掛けられるか、利害関係者に如何に資産効果を高め還元したらよいのか、官僚の口出しを如何に排除したらよいのか、効率的な非営利団体の経営を如何に達成したらよいのか・・・・・・・等々。厚生年金基金の経営は非常に難しい問題ですと共に、単なる営利企業の製造業には無い経営の面白みがあり、経営の専門家であれば本来食指の動く経営体でありましょう。将来、MBA取得者を理事長に就任させるような時代になるのではないでしょぅか。
さて、現実に戻って、このような資産運用に取り組む現段階での厚生年金基金の組織関係図は下図のように縦割り組織として考えられるでありましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/5f/5562d946006942e2a06425efd3daa682.jpg)
実際には、このような組織図は静的・理念的でしかなく、単独・連合設立の基金では理事長は企業業務との兼務であったり、常務理事は健康保険組合を兼務したり、さらには運用執行理事を兼務するのが一般的であり、事務長・職員ですら専任というのが珍しいほどです。さらに、従来の厚生年金基金の事務所は社会保険行政の一端を執行する部署という社内事情で、社会保険担当部署の人事ローテーション上の一キャリアポストにしか過ぎなかったのです。共通するのは学ぼうという姿勢が無い、「内-内の視線」の優先、なりふりが最優先、過去にすがり付く、先送り体質・・・・・・・つまり、過去の基金事務所はサラリーマンの墓場になっていたということです。
<運営>の時代は、これでも足りていましたが、資産運用問題が浮上してから<経営>の時代になってはそうはいかなくなってきています。基金事務所も戦術的な武装が必要になり、機械化も進展しインターネットの操作も不可欠であり、金融理論を始め法制・財政等の理論武装も欠かせなくなってきていて、資産運用の手法・技術など0からのスタートです。まったく新しく学習・修得することばかりになってきています。
このような基金の現場では、従来のゼネラリストが当然と考えていました、業務は<部下からの提供・説明>というジョブ・ローテーションの仕組・慣習が機能しなくなってきています。つまり、資産運用については、暗中模索の状態であり、引継ぎ書も業務基準書も出来ていないのですから、ジョブ・ローテーションのゼネラリスト達は踊るに踊れず、「もっと、音楽を! 」と、事務所で叫び出すことになっています。
このように、資産運用という新規業務が誕生してから、事務所自体の再生も不可欠でありますが、一方関係する業務にも多彩な人材・多様な専門家を要することになってきています。オーナー経営者・財務マン・指定年金数理人・弁護士・公認会計士・金融理論の大学教授・記者・ファンドマネジャー・証券アナリスト・為替ディーラー・コンサルタント・カストディアン・SE・・・・・・・要するに、厚生年金基金を廻る内外の状況は一変し、ゼネラリストからスペシャリスト、プロフェッショナルの時代になったということ。サラリーマンは、ましてやゼネラリストは機能しないし、不要、無用、通りの邪魔になるだけになっています。
このような多彩・多様な専門家との接点を基金事務所は維持・拡大しつつ、付加価値の高い専門情報を取り込み事業展開を図ることになりますので、自ずから組織も水平方向に延びていくことになりましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/f4/eee35cd649b167f95ac9a2435960ea63.jpg)
さて、厚生年金基金の資産運用方法の輪郭について述べていくに際して、平成10年現在の基金を取り巻く状況はどのようになっているのでしょうか。
一般的な状況は、制度発足後30年経過し、確定給付型年金制度は日本経済の10年に及ぶ経済低迷・超低金利政策により、事前積立方式の倒壊を招きつつ積立不足基金を続出させ、制度の是非が問われて何年になるでしょうという状態にあります。一方、現実の年金給付は、代行スタイルの本邦基金の代行部分(国の老齢厚生年金の報酬比例部分)の年金が加入期間の長期化に伴い、厚生年金本体から給付される老齢基礎年金等(厚生年金の定額部分)と、同額程度まで実績を積み上げており、加入員の老後生活の安定という基金制度の初期の目的を達成しつつあります。
しかし、年金給付はさておき、制度発足時の民間活力活用という大義名分は、30年に渡る代行制度の継続のうちにまったく官僚支配に押さえ込まれてきました。それでも、基金制度の内部に仕掛けられていました<資産運用>という反官僚的時限爆弾が積立不足という炸裂を10年に渡ってそこここで起こし始めて、行政の裁量を縮小させ規制緩和の歩みから規制撤廃をもたらしつつ、事後監視型行政に移行しつつあるという状況でありましょう。
次の10年の民間活力活用目標は、<代行>という官僚的国家的仕組みが商工民族風<資産運用>という民間事業とは水と油の取合せであることから、自から<厚生年金基金の完全民営化>に収斂していくことでありましょう。仮りに、官僚が民営化を阻止したいのであれば、基金制度から<資産運用>という仕組みを外さなければならないでしょうが、ここまでの現実の積み上げがあるなかではそれはまったくの暴挙、傲慢以外のなにものでもないでしょうし、世論の大きな流れはそれを許さないでしょう。
併せて、加算部分に組み込まれた終身雇用と年功序列賃金を基本構造とする退職金制度の矛盾(功労報奨退職金)が露呈し、国際会計基準の導入(平成12年4月)により引導を渡される場面(要支給額方式から退職給付債務方式)を迎えています。このことは、いまひとつの大義名分でありました<退職金の年金化>が、基金制度発足の時から信託・生保のセールス・トークではありましたが年金化の進展は思うに任せないまま経過し、世界の常識という国際会計基準のフレームワークの強制力が作用して、実現へ向けて現実的な歩みを始めようとしていることを意味するのでしょう。このような二つの観点からだけでも、基金制度はフレームワークの変更の時期を迎えていると言えるでありましょう。
厚生年金基金の内部構造に組み込まれている<資産運用>そのものの状況は、5・3・3・2規制の撤廃を受け、「運用自由化の時代」(厚生年金基金連合会:資産運用研究会)を迎えてはいます。各基金とも、現在その対応に懸命に取り組んでいるところですが、超低金利の中、<お任せ運用>から<運用指図>という場面転換を迎え、積立不足を抱えながら基金制度の再点検、経営指針の再設定、組織の再構築、運用技術の修得等々が緊急の課題となっていますが、歩みはそうそうスピードアップを期待出来ません。
一方、本邦金融機関・金融市場・金融行政は金融破綻・金融不祥事の状況からの脱出を目指してインフラ整備に取り組んでいますが、こちらも同様でしょう。反対に、金融の世界のグローバリゼーションは猛烈なスピードで展開しており、日本の<資産運用>がキャッチ・アップするのは当分見込めない状態にあると考えて誤りはないでしょう。
ヴァーチャル化し、グローバル化した市場資本主義の動きは速い。それは、
人間の物理的能力をおそらくこえたスピードで動いている。ロシアからラテン・アメリ
カ、そしてウォール・ストリート、東京と、場面は次々とまわっていく。
榊原英資『国際金融の現場』
基金サイドにも徐々に変化が現われ、ゼネラリストの無能が露呈し一般認識が進捗して資産運用のプロフェッショナル(金融機関等からのハンティング)の採用、セカンド・ベターな選択として企業の財務畑人材の登用が増加しつつあります。基金自体の研鑽も進み、証券アナリスト試験に合格された人も現われましたし、将来はMBA取得者も数理人も公認会計士もSEも法律家も輩出するのではないでしょうか。或いは、基金が招請することになりましょう。
長い年月、基金業務を黙々と担当・経験してきた職員も増加し、ベテランとなりスペシャリストとなりプロ化しつつあります。そうではあっても、30年も勤務していれば自動的にプロだということもないのですが、単なる永年勤続表彰と違い「基金のプロ」というのは公認のものになってはいませんが、年金アロケーターとしてその多様な業務(財政・法律・制度設計・啓蒙・資産運用等の経営マネジメント業務と、機関管理・掛金徴収・年金給付・福祉施設・情報公開等のバックオフィス業務のない混ぜになった事業)を掌握・展開している人が基金に続々と輩出してきたということであります。
和を乱し、村八分にされたならば、田の水がもらえなくなる。私たちは一人では
生きていけない米社会民族の子孫であり、競争が不得意だ。
・・・・・・・。ところが、一人ひとりの競争になると、日本人はまるで弱い。個人で
競争し、人を押しのけて自己を売り出すのは、気品がないことだとしつけられてき
た。逆境のなかで、孤独に闘う力はまったくない。日本にはノーベル賞学者が極端
に少ないのも、ベンチャー・ビジネスが出にくいのも、そのためだ。また、私たち
は集団のなかで平等に生きることにすっかり慣れたため、自分の努力不足や判断ミ
スによる不幸を、すべて集団の責任にする癖がついてしまった。判断力と責任感を
失ってしまったのである。
竹内 宏『金融敗戦』
(5)資産運用マネジメント
厚生年金基金の資産運用マネジメントというものは、いろいろ資料に当たり諸外国を見ても出来上がった体系があるという状態ではありません。そもそも資産運用マネジメントというものは、演繹的に物事を取り決め計画して現実をとり押さえていけるほどのものを対象にしているわけではなく、仮置きしたものから始めて日々現実のキャパシティからの見返りを浴びつつ帰納的に立ち上げていく経過的なものであり、体系化には馴染まないものでありましょう。
ということは、厚生年金基金の資産運用マネジメントは、月並みではあるが基金制度の目的、基金の事業内容、基金を取り巻く環境、基金が抱えている問題等々をよくよく熟慮しつつ、試行錯誤の経験を積み重ねつつ、徐々に変動し続ける輪郭として形成されるものでしょう。言ってみれば、アメーバー状の活動であり、蓄積されたものの増殖によってテリトリーを獲得していく態のものであるのでしょう。厚生年金基金の資産運用マネジメントが今後どう構築されていくのか、その行方については確認も予想も出来がたいのですが、従来の日本の文化にまったくなかったと言ってよいだろう<資産運用>というものが根づくためには、単にこれは厚生年金基金の問題ということではなく、法制度から始まって政治・行政・企業活動等を含めた経済・社会の日本全体を巻き込んだ日本人の生き方のレベルまでが問われる問題なのでしょう。
ここでは、厚生年金基金の資産運用マネジメントに限定して、最近基金の現場で行われ始めた試行錯誤のマネジメントの概要について触れてみます。とは言っても、これは形成途上の遅れてきた者のコラージュ(切り貼り・寄せ集め)に過ぎませんが、それでもその素材の衝突から理路整然たる学者風理論ではない、より実効性の高い現実的な或る調和を形成したものが生まれることは確実であると考えられます。ここで求められる資質は、ただ、<切磋琢磨の試行錯誤>の希求心だけです。その素材になるものは、情報操作や情報隔離、情報遮断や議論遺棄等の統制的手法を覆す多種多様・多量な情報です。ここでは無知が取敢えずの敵です。
たとえば、96年の大和銀行ニューヨーク支店の110億ドルに上る損失を大蔵
省に相談しその公表を遅らせるといった方法が、なぜ日本でまかり通るのか。市場
経済が効率的であるということは、参入と退出が自由であり、その失敗は司法で裁
かれるのが自由主義国家の条件であるはずなのに、日本ではそれが官僚の判断に委
ねられている。ここに現在の金融危機の本質的問題がある。
住専7社の経営破綻に伴い大蔵省が発表した報告書で、「住専の元凶は、財務諸
表の分析もできなかった低劣なる審査能力にあった」と自己批判を行っている意味
は深い。
平成11年版「企業年金白書」:加藤 寛「「信」無くば立たず」
ちなみに、その素材になるものの幾つかを拾い上げれば、資産運用技術、グローバル金融、本邦市場の後進・特異性、法制、財政、税制、経済学史、哲学史、社会科学、金融理論、官僚、社会保障、社会・経済状況、企業活動等々・・・・・・であり、個別な事項を上げていけば、厚生省の政省令・通知、情報収集の場として基金連合会の運用研修であり、総研や外資系運用機関のセミナー、地方協議会の研修、単独・連合基金連絡協議会等の資産運用問題委員会、現代金融理論研究会、年金経営問題研究会、海外金融機関調査等があり、情報機器のTV、ビデオ、Eメール、インターネット、ホームページ等もあります。古来から最大の情報収集手段としての著作物、それも関係部門の本について、500冊ほども目を通せばおおよそのことは見えてくるでありましょう。
関係する多様な事項については、例えば非継続基準、積立水準、確定給付と確定拠出、利害関係者と受託者責任、5・3・3・2規制、お任せ運用、集中投資と分散投資、長期運用とデーリング、リスクとリターン、ボラティリティと為替ヘッジ、MPTとシティの経験、ばかなヘッジアンと非均衡論者のヘッジアン、アングロサクソン的経営とアジア的経営、政策的資本配分と市場メカニズム、国富論の読み直し、インデビュジアルと国家、金融業界裏話、官僚の処遇、紡績業裁判、会社都合要支給額と退職給付債務、三種の神器の機能不全、民営化論と代行返上論、社会保険方式と税法式、REOからEVAへ、戦略アセット・ミックスと資産運用指図、運用機関選択法と運用機関解約法、生保の使い方、本邦運用機関との内外商品比較、「外ー内の視線」、年金資産極大下の2ケタ運用利回り、ケイジアンと構造改革論者とマネタリストの論争、MBAとケンブリツジのケース・メソッド、均衡論に対する相互作用性、契約と倫理、フィランソロピーと非営利経営、チリの年金、北欧の市場政策、オルタナティブ、オーバーレイカレンシー、デリバティブ、オフショア、非相関運用、401(k)・・・・・・と、読点もないまま、息も付かず、判断を中断したままこのような世界に身を晒す切磋琢磨が求められるのです。
厚生年金基金の業務を展開するのにこれだけ多種多様な方面・事項について承知し、ガバナンスしてマネジングしつづける方法とは、いったいどういうものになるのでしょう
官僚好みのデカルト風科学的合理主義のような推論で、はたして問題をとりおさえられるでしょうか。「問題を調べ、それを細分化し、各部文を分析して解答を見出し、次ぎにその解答を再び組み上げて新しいシステムを作り、全般的に再検討することによってそのプロセスを締めくくる。それが「方法」である。」(R.オーブレー.P.M.コーヘン『「考える組織」の経営戦略』)とするならば、現代の「現実」ははるかに17世紀当時より重層的・水平的であり、時間のミクロ化が進展しているので、ミスマッチになると言えるでしょう。ここは、オーブレー逹の言う、①超越的な知恵でもなく、②神秘的知恵でもなく、③WORKING WISDOMと呼ぶ実践的知恵の出番であるのかもしれません。
資産運用について、大半がお任せ運用でしたとはいえ30年の経緯を持つ厚生年金基金の現段階での資産運用マネジメントの概要というものがありうるとすれば、一般的に次のように考えるのは妥当なことではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/68/7eb6e225749fb3aabde4af7830f2105a.jpg)
・厚生年金基金の組織
基金制度発足の資産運用が問題にもならなかった時代に、誰が現在の基金組織の骨格を作ったのでしょうか。例のごとく、関係金融機関の企画部の仕掛け、あるいは又、世評に高い官僚主導の<何々審議会>であったのでしょうか。どちらにしても、目論見・計画・構想というものは現実に対面したときどうしても馬脚をあらわすもので、そうですから当初の詳細な計画というものは机上論・空中楼閣になりやすく、そういうものは大枠・方向だけを決めておいて、都度工夫加工の試行錯誤を繰り返せばよいものでありましょう。統制計画経済が失敗した原因はこの演繹論であり、人間の愚かしさは演繹論で世界を掌中にしたと考えやすい点です。
資産運用が問題になってきたばかりの今の日本において、始めからこれはと言う厚生年金基金の資産運用組織が確立されている訳ではありません。過去の経験の上に、グローバルな金融事情を調査し、欧米の資産運用経験・理論・技術に学びつつ本邦金融市場・金融機関を見定めつつ、<切磋琢磨の試行錯誤>を繰り返すしか方法は無いのでしょう。とは言え、始めの問題として資産運用に取り組む基金関係者の意識・認識レベルが資産運用業務に反した農耕民族風世界観である<運営>意識であるなら、そこをまず改めざるをえないであろうとい点は強調されていいでしょう。
というのも、現在のグローバル金融の資産運用業務は商工民族風世界観による<経営>、
オーナー意識により行われているのであり、<運営>意識の最たる計画経済的資産運用(ゼネラリスト運用)などというのは世界の金融界広く見ても日本の年金福祉事業団と基金位しかないでしょう。運用結果についても、太陽または風水のせいにするのではなく、自分の能力不足を断言出来なければならないでしょう。単なるジョブ・ローテションで済まされるものではないのです。つまり、厚生省の言う文字通りの「熱意を有するもの」が執行する業務です。とても、「内-内の視線」しか持ち合わせません日本のゼネラリストには出来がたい業務ですし、やらせてはならない業務です。
自由でオープンな金融市場がなければ、政府や中央銀行は政策の失敗を官僚的な
壁の裏側に隠すことができる。金融市場は政府の経済運営を民主的にチェックでき
る唯一の民主的手段である。それは三、四年に一度しかない選挙と異なり毎日機能
する仕組みである。
米タイガー・マネジメント社M・Dイェスパー・コール
「ヘッジファンド対策」日本経済新聞社:経済教室 99.4.23
そうではあっても、厚生年金基金の資産運用は利害関係者が数多く、特定少数の個人の資産運用(個人の退職金の運用とか、バフェットとか100人以下に制限されている私募形式のヘッジファンド等)と違い、不特定多数を対象にしていますので、組織的な関わりの多い資産運用となるのは避けられない特質です。(この組織的関わりを遮断したインハウス運用を行うところが数年先には出て来るでありましょう。)
このため、効率と責任とセキュリティを組織の中で如何に確保するか、使命感を醸成し、
倫理感を高揚させるインセンティブを如何に仕掛けられるか、利害関係者に如何に資産効果を高め還元したらよいのか、官僚の口出しを如何に排除したらよいのか、効率的な非営利団体の経営を如何に達成したらよいのか・・・・・・・等々。厚生年金基金の経営は非常に難しい問題ですと共に、単なる営利企業の製造業には無い経営の面白みがあり、経営の専門家であれば本来食指の動く経営体でありましょう。将来、MBA取得者を理事長に就任させるような時代になるのではないでしょぅか。
さて、現実に戻って、このような資産運用に取り組む現段階での厚生年金基金の組織関係図は下図のように縦割り組織として考えられるでありましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/5f/5562d946006942e2a06425efd3daa682.jpg)
実際には、このような組織図は静的・理念的でしかなく、単独・連合設立の基金では理事長は企業業務との兼務であったり、常務理事は健康保険組合を兼務したり、さらには運用執行理事を兼務するのが一般的であり、事務長・職員ですら専任というのが珍しいほどです。さらに、従来の厚生年金基金の事務所は社会保険行政の一端を執行する部署という社内事情で、社会保険担当部署の人事ローテーション上の一キャリアポストにしか過ぎなかったのです。共通するのは学ぼうという姿勢が無い、「内-内の視線」の優先、なりふりが最優先、過去にすがり付く、先送り体質・・・・・・・つまり、過去の基金事務所はサラリーマンの墓場になっていたということです。
<運営>の時代は、これでも足りていましたが、資産運用問題が浮上してから<経営>の時代になってはそうはいかなくなってきています。基金事務所も戦術的な武装が必要になり、機械化も進展しインターネットの操作も不可欠であり、金融理論を始め法制・財政等の理論武装も欠かせなくなってきていて、資産運用の手法・技術など0からのスタートです。まったく新しく学習・修得することばかりになってきています。
このような基金の現場では、従来のゼネラリストが当然と考えていました、業務は<部下からの提供・説明>というジョブ・ローテーションの仕組・慣習が機能しなくなってきています。つまり、資産運用については、暗中模索の状態であり、引継ぎ書も業務基準書も出来ていないのですから、ジョブ・ローテーションのゼネラリスト達は踊るに踊れず、「もっと、音楽を! 」と、事務所で叫び出すことになっています。
このように、資産運用という新規業務が誕生してから、事務所自体の再生も不可欠でありますが、一方関係する業務にも多彩な人材・多様な専門家を要することになってきています。オーナー経営者・財務マン・指定年金数理人・弁護士・公認会計士・金融理論の大学教授・記者・ファンドマネジャー・証券アナリスト・為替ディーラー・コンサルタント・カストディアン・SE・・・・・・・要するに、厚生年金基金を廻る内外の状況は一変し、ゼネラリストからスペシャリスト、プロフェッショナルの時代になったということ。サラリーマンは、ましてやゼネラリストは機能しないし、不要、無用、通りの邪魔になるだけになっています。
このような多彩・多様な専門家との接点を基金事務所は維持・拡大しつつ、付加価値の高い専門情報を取り込み事業展開を図ることになりますので、自ずから組織も水平方向に延びていくことになりましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/f4/eee35cd649b167f95ac9a2435960ea63.jpg)
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