強い個人と、柔らかな国家と企業の組合せが、しなやかで相対的に安定した社会への
王道といきなり言われても、企業に隷属することで安寧を得てきた日本人が直ちに
「はい、そうですか」といくわけもない。・・・・・・・気の遠くなるような作業も必要になる
だろう。
末村 篤:「人本主義」から「資本主義」へ
「証券アナリストジャーナル」 2000.3
日本人は、ここに戦前の皇軍国家主義のファッシズムと戦後の日本型資本主義=会社主義の実験・経験を踏まえて、<国家-企業-個人>の経路を求めていくことになるのでしょう。心もとない民意度の状態ですが。
それでも、2000年4月に日本型資本主義に対する退職給付債務の<PBO爆弾>が投下されました。<自分たちの金>から<人様のお金>へ、代理人契約から信認契約へ、大陸法から英米法へ、法人から個人へ、時代は急激に動きだしたところです。
●インフラストラクチャーの再構築
ストックの積み上げである年金マネーの膨張は、単なる国内問題に留まらず一国の壁を軽々と瞬時に飛び越えて活動する場面を創りだし、それが『国家の退場』(S.ストレンジ)という無国家時代の到来を招き、国際政治までも左右する程になってきたというのが現実です。
地球規模の観点からのシステムとそのインフラストラクチャーの構築が問題になりつつあるということでしょう。
そのような視野の下、当面日本の<人様のお金>を担保するインフラは、日本型資本主義の破綻ということ、即ち従来型の官僚統制インフラの機能不全と官僚統制にマッチングして創出された株式持合い構造による擬似資本主義の破綻が明らかになったところで、どのような形のものになるのでしょうか。右に倣うというマイナス思考ではなく、せめてキャッチ・アップのプラス思考だけは不可避でしょう。
数分後、修正ずみの標準契約書式、つまり、最小限に簡略化された信認契約書を手に
してもどってきた。契約書は三ページにわたるもので、その条文の大半が、依頼人は、
自分の金に何が起ころうと、信認代理人に対して決して償還請求を行わないことに同意
する、という定めにあてられている。また、こうした厳粛な誓約があるにもかかわらず、
やぼな依頼人が代理人にたいして法的訴訟を起こそうとするときには、チューリッヒ州
の裁判所のみがその争いに関する裁判権を有する旨もうたわれている。もっとも、そう
した不満を抱いた依頼人が勝訴した例は、チューリッヒ州の歴史始まって以来一度も
ない、といった事実にはこの契約書は触れていない。
P.アードマン『無法投機』
(原題:The SetーUp )
国民の金(税金)並びに株主資本を<自分たちの金>にしていた日本型資本主義下のインフラ、つまり統制的な政府による信用創造、業際障壁による与信の配分、産業資金配分のための間接金融システム、銀行の株式保有・生保の政策運用等による株式市場のPKO、企業の株式持合い構造による経営の保身、政府の統制に対する協力の一環である米国債投資、証券会社の推奨販売等による反市場行動等々は、市場操作のPKOに最も象徴的に現象していると考えられます。つまり、本来<人様のお金>であるものを全て<自分たちの金>にすり替える操作、オペレーション、管理を主眼としましたケイジアン的手法でした。
それは、経験を度外視した<始めに理念有りき>の思考スタイルをベースにした手法であり、英米法理(エクィティ裁判)ではなく、ドイツ風大陸法理、帰納論ではなく演繹論です。具象でもなく抽象です。ドメスティックなものの管理、つまりドメスティックなものの統制・支配を旨とする思考スタイルです。
ソ連の崩壊に続いた日本の破綻は、共に統制経済の機能不全という点では同列の事象であって、このことは併せてドメスティックなものの統制・支配を旨とする思考スタイルそのものの敗北を意味しているということになりましょう。つまり、<人様のお金>のパワーエンジンが点火されたということです。
ごく最近までアメリカの制度は、部分的で断続的かつ間接的な政府介入を受けながら、
民間企業が信用を創造し、取引するものだった。一方で日本の制度は、管理された市場
から民間の利害がしだいに利益機会を得られるようになったとはいえ、国家が信用創造
と信用の価格を管理する統制制度だった。
S.ストレンジ『マッド・マネー』
-世紀末のカジノ資本主義
ということは、新たなインフラストラクチャーはドメスティックなものの試行錯誤な切磋琢磨によってしか構築し得ないのでしょう。ドメスティックなもののバイタリティに負託することになりましょう。
日本型資本主義における<自分たちの金>の世界でメイン・インフラとなっていたのは、大陸法理をバックとした自己責任を強く要請する契約概念でした。
そうではありましたが、日本型資本主義は法人化(組織)という手法で巧妙にこれをすり替えてしまい、誰も責任をとらなくてよい構造を組成し、野村、住専、山一、大和銀行等の事件で明らかになりましたように、関係した官民共に責任感も倫理も地に堕ちてしまい、結果的に組織的な詐欺集団となりおおせてしまいました。
性悪説に基づく自己防衛を基本理念とする<契約概念>は、本来厳しい自己規律が求められるところですが、これらの事件が自分に甘くなってしまえばどうにも打つ手のなくなるひ弱なインフラであることを図らずも明らかにしてしまったのです。
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