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事前公開<自分年金に強くなる法「厚生年金基金の話」>連載35

2010年07月05日 | 厚生年金基金


つまり、日本の法理における契約概念には、法理としての厳密さが欠け、勝手な解釈を許容する曖昧さが含有されているうえに、互いに互いの善意にもたれ合う相互依存によって形成されていたのです。

島国の同一文化圏に生活する者の<和をもって貴っとしとする>心情が個別事項の確認を羞恥・逡巡させ、性善説への依存によって曖昧なまま放置するのです。本来、契約概念は性悪説で構成・構造化されるところを性善説の日本人の契約概念には論理性、合理性等の観念が希薄だったと言えるでしょう。

一方、一般事業会社においても、株式持合い、含み益経営、三種の神器による低コスト化等々のアンフェアな契約に反する得手勝手な法人行動で、本来株主の金や従業員の金である<人様のお金>を<自分たちの金>に勝手に読み変えて契約を反故にして無法状態を作り出してきたのです。

とは言え、契約が当事者間の自立した自己責任で文字通り構成されているのであれば、裁判とか賠償とかということになるのでしょうが、日本型資本主義の世界ではそれをさえ巧妙に法人組織の構造にすり替えてしまっているので、契約本来の機能が完全に不全状態にされているのです。「法すらない日本」ということでしょう。

つまり、日本は官僚と法人がつるんで契約も無い法理も無視の無法状態を組成した統制統治国家となってしまったのです。民間人が法人という蓑を被って、中央統制の統治を目論む官僚に迎合している不様な国民国家に成り下がってしまったのです。実に、明治は遠くになりきです。

ここに日本型資本主義は個の完全な隠蔽を成就したのです。その手法は、官僚・法人の文脈への強制的ないざないと村八分、そのために強制されるドメスティックなもののひたかくし、つまり遮蔽の一事につきるでしょう。その結果、押さえ込まれ窒息した個が奔流となって想像もし得ない社会的事件・社会現象を引き起こしていると言えるでしょう。




二十世紀が「国家の世紀」「組織の世紀」だったとすれば、二十一世紀は「個人の世紀」
になるというのが一般に共通した見方だ。もたれ合い型ではなく、多元的な価値観にもと
づく自立した「個」による自己決定・自己責任型の経済社会である。

芹川洋一:21世紀へ憲法改革を
日本経済新聞 2000/5/3 朝刊




このような無法状態の中で、<人様のお金>をどう保全し、どう効率運用したらよいのか。うかうかしていると、又いつ何時<自分たちの金>にすり替えられるかもしれないのです。こういうのを年金資産運用保全の本当のリスクというのでしょう。これほど大掛かりな一網打尽に仕掛けられるリスクは他に余り例が無いでしょう。カントリーリスクとか政治リスクもこれに比べれば一過性のリスク、テクニックレベルのリスクに過ぎやしません。

幸いなことに、このような日本型資本主義の敗北が明らかになったころ、嫌々ながらの応諾ではありますが、国際会計基準に添うことが本決まりになりました。新たに時価会計、連結決算、キャッシュ・フロー計算書、退職給付債務等々のインフラが採用されることになり、アンシャンレジームの断罪と編成変えが強要されることになってきました。




アメリカ人は、一人ひとりが、英語でいう principle(プリンシプル)をもっている。
主張、主義、あるいは生活信条、いろいろ訳すことはできるが、とにかく芯がある。
グニャッとしていてつかみどころがなく、大勢に身をまかすという人はほとんどいない。
individualistic あるいは individualism 。そんな彼らの習癖を、個人主義的あるいは
個人主義思想と難しく考えるよりも、生れながらにして「自分は自分」という考え方が
あると考えたほうがいい。

寺澤芳男『ウォール・ストリートの風』





要するに、日本型資本主義のインフラの下での<人様のお金>は、一定のストックの積み上げを果たし福祉国家の達成という官僚の野望を曲がりなりにも実現したのは事実ですが、「積立不足の凍結」という結果に終ったと断罪して、おおよそ間違いのないところでありましょう。

逆に言えば、<人様のお金>を担保するには日本型資本主義の統制的なインフラとは別個の市場型インフラが必要ということでしょう。そのインフラ足りえるのではないかと考えられるのが、このたびの国際会計基準が引き連れてきた上記の時価会計、連結決算、キャッシュ・フロー計算書、退職給債務等々のインフラです。

更に、先にも触れましたように官僚の産業社会育成と福祉国家達成のための統制経済故に官の民への介入が正統化され、それが結果的に日本における法理不全・法律無視、<契約概念>の機能不全という事態を招いてしまいました。




第一は、官をうしろに退けるため、経済的な自由をきちんと保障するよう制度化する
ことだ。それにはまず二十五条の生存権について考える必要がある。この条文を根拠に
「社会国家」「福祉国家」を実現するためには、経済活動の規制をはじめ、官による民へ
の介入は許されるという考え方が官主導を許してきたからだ・・・・・。
規制行政についても、自由な競争秩序を守るための規制は許されるが、競争制限的な
規制は原則として認められないことを憲法に明示することが考えられる。・・・・・・。
官を後方に回すもうひとつの方法は政治を使うものだ。チェック機関としての国会の
機能強化がそれである。

芹川洋一:21世紀へ憲法改革を
日本経済新聞 2000/5/3 朝刊




そこで、この場面を打開するために要請されるのが、<人様のお金>の無言のプレッシャーがもたらす「決まる」という事態を促進するために憲法記念日の日経記事のように憲法25条等を見直し憲法上に官僚介入の排除を担保することを明記することも不可避と考えられます。

ここで重要なことは、契約概念に付けくわえられるべきは英国のエクィティの伝統により培われたトラスティ、またはフィデュシャリーから派生した<信認概念>のインフラです。<人様のお金>を担保するインフラとして契約概念に欠けるところを補うには最適の理念でありましょう。その一つが愈々日本でも展開の始まりました<受託者責任>という考え方です。

<人様のお金>を担保するこの<信認概念>を根本理念として、日本の経済・社会を取り囲む様々なインフラストラクチャーが見直され、点検を受け、再構築されることになりましょう。最終的には、<人様のお金>はこれら国際会計基準、効率市場、受託者責任等々のインフラによって守られるようになるでしょう。

ということは、<人様のお金>が上記のようなインフラを持つことによって、従来のような統制経済、官僚の民間介入、<自分たちの金>、PKO、株式持ち合い、銀行の株式保有、生保の大蔵迎合、証券の反市場行動等々を見逃さなくなっていくでしょう。それらのアンシャンレジームが旧態依然のままであれば、<人様のお金>は、それらから一斉に引き上げることになります。


さらに、「引き上げる」などという受動的対応から、積極的に投資拒否に至るのはほんの一歩です。<人様のお金>の選別が始まるのです。そのことが厚生年金基金の資産運用機関選択・戦略アセット・ミックス等ですでに動き出しています。

つまり、<人様のお金>のパワーは、ヘッジファンドがイングランド銀行を叩きのめしたような力を獲得しつつあるということ、日本に『見えざる革命』を強要する現実を生みだしているということ、日本型資本主義の統制経済に引導をわたしたということ、と同時に、将来に向けて<人様のお金>が日本のインフラストラクチュアーを創り出していく最も重要な概念となってきたということでしょう。


出所:「人様のお金」平成12年


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