和宮(16才は数えなので満15才)のお嫁入りの行列は、反対派の襲撃を避けて中山道を通り、従者人足を含めて3万人、50kmの長さに及び、通過するのに大変時間がかかった
沿道には多くの藩が警護に出、輿の中の和宮は主要な宿場の名主の家に泊まった
ほとんど初めて都の外に出た和宮には、不安の方が大きかったろう
彼女は結婚を決意した時、こんな歌を残している
惜しまじな君と民とのためならば
身は武蔵野の露と消ゆとも
(兄の天皇と国民を救うためならば、この身は遠い関東の地で朽ち果ててもかまいません)
当時外国人がいて不穏な町で風習も違う武家に嫁ぐことは、相当な勇気がいった
又、彼女は旅の途中でこのような歌も詠んでいる
落ちてゆく身と知りながらもみぢ葉の
人なつかしくこがれこそすれ
この「人」とは都の人々のことなのでしょうか
いろいろな解釈があるそうです