HOGロングツーリングラリーin四国編(讃岐五色台・高知・瀬戸内東予)
平成27年10月21日(水)・22(木)・23(金)・24(土)・25(日)
参加人数 : 6名(千葉チャプター6名)
天候 : 快晴の5日間でした
一日目 10月21日(水曜日)
今回のツーリングはHOGロングツーリングラリーに合わせては四国の大自然を満喫しながらのバイク移動でお城と橋を満喫する旅でした。全国の参加者は指宿が55名、海辺の果樹園が65名、瀬戸内東予が60名の参加でした。千葉チャプターからの参加の6名は四国での3泊に加えて姫路で1泊を加えて4泊5日の旅の行程となりました。そして今回のツーリングは5日間とも天候に恵まれツーリングも十分に楽しむことができました。
日本の城で現存天守閣のある城は12城です。江戸時代には170余もあったのですが今でも昔のままの天守閣が現存するのは12城にすぎない。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、高知城、松山城、宇和島城の12城です。
今回、この中から5つの城を見学に行く計画でした。
一日目は海老名サービスエリアで集合して、6時出発です。いつも通り皆さん1時間前に集まっています。
一番最後に到着したSさんでも30分以上前でした。
海老名以降は高速道路を乗り継ぎ淡路島を経由して香川県坂出市の「休暇村 讃岐五色台」をめざします。約750㎞のツーリングです。
出発前の集合写真です。10月後半と会って朝晩は少し寒くなってきましたが、皆さんうれしそうです。
そして今回のテーマの一つ橋にスポットを当ててツーリングを楽しむこととしました。まず最初に渡る橋が伊勢湾岸道路の『名港トリトン(めいこうトリトン)』です。
『名港トリトンの豆知識』
名港トリトン(めいこうトリトン)とは、伊勢湾岸自動車道のうち伊勢湾岸道路(国道302号の愛知県東海市 - 海部郡飛島村間)の東海ICから飛島ICの間にある、3つの橋の愛称である。正式には3つの橋の愛称であるが、東海ICから飛島ICの区間のことをさして呼ばれることもある。また、単に「トリトン」と略されて呼ばれることも多い。1985年(昭和60年)、名港西大橋が暫定2車線対面通行により単体で供用開始される(後に伊勢湾岸道の東京方面行き車線、片側3車線として供用)。1997年(平成9年)には伊勢湾岸道の開通に伴い名港中央大橋(片側3車線ずつ計6車線)と名港東大橋(片側3車線ずつ計6車線)および名港西大橋(大阪方面行き片側3車線)がそれぞれ建設される。3つの橋は、それぞれ赤、白、青の3色に色分けられており、愛称を募集した結果、多数の応募の中から選ばれた。トリトンが海の神ポセイドンの息子であることや、「トリ」が「3つ」を意味する「tri-」に通じることからこの愛称が使用されることになった。橋長は、それぞれ西から758m、1,170m、700mに及び、世界的にも大規模な往復6車線の海上斜張橋梁群である。
次は明石海峡大橋です。パールブリッジと云われていることをご存知でしたか?
明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ、明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。パールブリッジの愛称がある(ただしほとんど定着していない)。全長3,911m、中央支間1,991mで世界最長の吊り橋である。開業以来、10年以上の長きにわたり「ギネス世界記録」に認定・掲載されている。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス(300.0m)に次ぎ、横浜ランドマークタワー(296.3m、海抜は300mで同じ高さとなる)を超える高さの構造物である。1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5,000億円。着工から竣工に至るまでの施工における事故死者はいなかった。
建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mであったが、1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)による地盤のずれが発生し、図らずも全長が1m伸張することとなってしまった。
四国へのツーリングでは必ず立ち寄る記念撮影のポイントです。
到着しました高松城、公園内の無料駐車場に止めて城址公園を歩きます。
今回のもう一つのデーマである『日本の城』、最初の見学は高松城です。
『高松城の豆知識』
高松城(たかまつじょう)は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。別名・玉藻城(たまもじょう)。国の史跡に指定されている。別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。 かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられている。最盛期には66万m²(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m²(約2万4千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されている。
到着しました、最初の宿泊地「休暇村 讃岐五色台」
予定通り到着した私たちは風呂も入らず、まずは『乾杯!』 『お疲れ!』
そしていつもの宴会の始まりです。
九州に一緒にツーリングをしてくれた「ともちゃん」は今回は「仙台の関さん」とツーリングです。
いつもの2次会の様子です。
二日目 10月22日(木曜日)
二日目も快晴です。二日目は瀬戸大橋記念館から丸亀城、高知城桂浜を経由して宿泊地である高知の『海辺の果樹園』を目指します。
出発前の記念撮影です。
到着しました。下から見る瀬戸大橋、とにかく規模がデカイ!
『瀬戸大橋の豆知識』
瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海をまたいで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ10の橋の総称であり、本州四国連絡橋のひとつ。 なお、「瀬戸内海大橋」という誤記が見られることもあるが、これは本来西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)のことである。かつて2橋の混同を避けるため、瀬戸大橋のことを「備讃瀬戸大橋」と呼称することもあった。
1978年の着工から9年6ヶ月を経て1988年4月10日供用開始され、総事業費はおよそ1兆1,338億円である。橋梁上部構造部分は、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)が通る2階建ての構造であり、用途が2通りあることから「鉄道道路併用橋」と呼ばれている。塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持つ。これは鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星写真でも確認できる。橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。工事の際には当時世界初の技術が導入され、「海底無線発破」「設置ケーソン工法」などが実用化された。また、気象条件や荷重による変形が著しいこの規模の吊り橋への鉄道の敷設は世界初の事例であり、橋梁の変形から線路を保護するための技術が新規に開発された。
2番目のお城、丸亀城に到着です。城址公園内の駐車場にバイクを停めて、お城見学をします。
たまたま公園に散歩に来ていた地元のおじさんに丸亀城のガイドツアーを引き受けていただきました。「どこから上がればいいですかね?」と聞いた一言から30分かけて石垣から天守閣まで詳しく説明して頂けました。「勉強になりまいた。ありがとうございました。」
「お城と云えば皆さんは天守閣とか建物に注目するが、お城とは石垣のことで石垣が最も需要なのだ」と即席ガイドツアーで教えていただきました。
『丸亀城の豆知識』
丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、輪郭式の平山城である。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存する。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15メートルあり、現存三重天守の中で最も小規模である。
丸亀城を後にして高知城に向かいます。
高知ではバイクの駐車場がなく高知城の専用駐車場が開いていてもバイクをとめさせてくれません。どうしたらいいのと相談すると「庁の守衛さんに聞いてみな!」と素っ気ない態度、ところが、県庁前まで行くと守衛さんが手招きで我々を誘導してくれました。不親切と思いきや実は親切でした。
バイクを停めたらまずは腹ごしらえ、ひろめ市場で「明神丸」のカツオのたたきと「安兵衛」の餃子を頂きました。超満員で30分並んで購入です。『大変美味しく頂ました』高知へお出かけの際は是非ご賞味ください。
『ひろめ市場の豆知識』
土佐藩家老の屋敷跡付近にあり,屋敷が消えた維新後もその一帯は親しみを込めて「弘人屋敷(ひろめやしき)」と呼ばれていたことから,その名をとり「ひろめ市場」と名づけられました。ひろめ市場の中は「お城下広場」や「龍馬通り」など7ブロックからなり,鮮魚店や精肉店,雑貨・洋服屋,飲食店など,個性的なお店が集まっています。市場内の至る所にテーブルと椅子が並べられていて,それぞれ自分の好きなものを,好きなお店で買ってきて,持ち寄って食べるスタイルとなってます。なので市場内のほとんどの飲食店にはテーブルがありません。食事後は食器をまとめておけばスタッフがすべて回収してくれます。食べる・買う・見る・遊ぶ…と,楽しみ方は無限大。自分に合わせた楽しみ方ができます。
お腹も満たされたし、腹ごなしに押し見物に出かけます。
『知城の豆知識』
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった日本の城。別名鷹城(たかじょう)。江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。
戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。
上の写真は高知城天守閣からの城下町の景色です。下の写真は折角高知城まで来て階段を上がるのが嫌だと下で休憩している面々の写真です。
次の目的地は桂浜です。桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られています。
到着しました二日目の宿泊地『海辺の果樹園』今日はバーベキューです。
今日も有志が集まって、2次会の開催です。
三日目 10月23日(金曜日)
三日目は四万十川と沈下橋を見て宇和島城大洲城を見て『休暇村 瀬戸内東予』に向かいます。
「道の駅なぶら」で休憩して、昼食予定の四万十屋に向かいます。
四万十屋は今は稀少となった川のり・天然うなぎ・川えび・あゆ等、 四万十川の大自然が育んだ食材と、流域の食文化を伝えるお店です。 創業以来、無添加・手作りを守り続ける本物の“川の幸”をどうぞ、とのことです。
四万十川と沈下橋を渡ります。平日とはいえ、沈下橋見物の人たちはたくさんいました。若い女性たちが見ているのはハーレーがかっこいいからではありません。自分たちが写真を撮ろうとしているところへ爆音のハーレーが来たので、困惑しているのです。
次の目的地は宇和島城です。こちらも駐車場はりますが、バイクは駐車場前のスペースに駐車します。(慣例になっているようです)
『宇和島城の豆知識』
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。国の史跡に指定されている。
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。
標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
宇和島城の後は大洲城です。高速で30分ぐらいで到着です。大洲城の駐車場はお城のすぐ近くでバイクは無料でした。
『大洲城の豆知識』
大洲城(おおずじょう)は伊予国喜多郡大洲(四国・愛媛県大洲市大洲)にあった日本の城である。別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城(大洲の旧称)などがある。
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
この後、松山城へ行く予定でしたが、多数決で宿泊地へ向かうこととなってしまいました。
『松山城の豆知識』
松山城(まつやまじょう)は、愛媛県松山市にあった日本の城。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。各地の松山城と区別するため、伊予松山城とも呼ばれる。現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。
そのほか、昭和初期の1933年に大天守を残して焼失した、連立式天守群の小天守以下5棟をはじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元されている。2009年のミシュラン観光版(ギード・ベール)日本編では二つ星に選定された。
到着しました。愛媛県の『休暇村 瀬戸内東予』
ひとり二人と眠くなってきたようです。明日もありますから今日はお開きにします。
お休みなさーい!!