韓国の「戒厳令事態」で、尹錫悦の支持者が掲げていたプラカードの中に、「Stop the Steal」というのがあった。あれはトランプの支持者が使った言葉で、 その後2021年1月6日にトランプ支持者による議会襲撃が起きた。「Stop the Steal」というのは、選挙で不正が行われて「勝利が盗まれた」と言う意味である。そもそも「選挙不正」を云々するのならば、民主党リベラルもニューヨークタイムズなどのリベラルメディアと結託して、「ロシアがアメリカの選挙に介入している」「トランプとプーチンが結託している」などというデマを拡げた(ロシアゲート事件)。民主党やニューヨークタイムズなどのリベラルメディアは、トランプ派をアメリカの民主主義を破壊する「過激主義者」「惨めな連中」などと呼んで周辺化しようとしたが、それが出来なかった。議会になだれ込んだ面々は、基本的に右翼だが、ああいう出来事が起こるのには、それだけの理由があって、襲撃自体は「氷山の一角」に過ぎない。よって、韓国の裁判所乱入も、「氷山の一角」と考えざるをえない。問題の核心は経済ーとりわけ「生存権」ーにあると考えられる。
私もかつて使っていたから、あまり人のことは言えないが、今では「ネトウヨ」という言葉を使うことをやめている。「ネトウヨ」なる言葉は、ある種の「マジョリティ意識」の表出であり、問題なのは「トンデモ」な一部であって、「日本という国自体は問題ない」という意味合いを含んでいる。こういうことを言うと、すぐさま「トランプを擁護するのか」などと言い出す人が出てくるが、リベラルはトランプをプーチン、金正恩、習近平と同列に扱っていること忘れてはならない。アメリカのリベラルは、トランプとトランプの支持者を「ネトウヨ」扱いしながら、結局自分たち自身も、その本質においてトランプ派と大差ない存在であることに気づいていなかったのであり、その結果が、トランプのホワイトハウス返り咲きである。同様のことは日本のリベラルにも言える。
「生存権」の問題を「民族」を軸に考えるか、経済を軸に考えるかということだが、経済を軸に考えれば、被差別少数派が、一定の社会進出を果たしてたことを以て、差別の問題は解消したと考える立場がありうる。しかし、植民地主義の問題を踏まえた場合、両者は不可分であり、西側のどの国の社会経済構造も植民地主義の岩盤に乗っかっている。アメリカでは、アフリカ系のオバマが大統領になり、バイデン政権には、アフリカ系など多数の少数派がいて、カマラ・ハリスもアフリカ系で女性なのだから、アメリカにはかつてのような差別はないと主張することが可能で、実際、90年代以降は、人種や民族を軸に差別を語る者こそが差別を助長するレイシストなのだという議論さえ出て来た。要するに、「政治を語る者が、問題を悪化させているのだ」という謬論だが、これ自体が植民者意識の内面化である。「生存権」の問題に着目して現実を見ると、今日でも貧困率は、先住アメリカ人が20%、アフリカ系が18%、ヒスパニックが17%と、白人の7%をはるかに上回る。そもそも、いかに少数派の社会進出が達成されても、アメリカの帝国主義的行動様式にはいささかの変化もない。
日本でも同じことだ。経済を個人の問題として考えれば、例えば孫正義のように、平均的な日本人以上に経済的成功を収めている民族少数派や外国人は存在する。だが、差別問題の本質はその構造的側面にあって、朝鮮学校差別は、国の経済施策から朝鮮学校のみを排除していると言う意味で、経済の問題と民族差別が構造的に結びついていることの証明である。2022年のコロナ感染拡大期に、埼玉朝鮮幼稚園にマスクが配布されなかったという事件が起きた。さいたま市は、各種学校は市の「管轄外」などと言いながら、本来県の監督下にある事業内保育所や私立幼稚園は配布対象に含めていたのである。それを正当化する理由として、さいたま市は、事業内保育所や私立幼稚園は、「市が運営に関与できる」幼保無償化の対象施設であるから配布対象に含まれるが、埼玉朝鮮幼稚園はその対象から外れているので、配布先に含めなかったと言うのである。幼保無償化から朝鮮学校が排除されているという前提条件があって、そのことが「マスク不配布」の問題と結びついているのだ。このことは、コロナウィルス感染拡大期という、住民の生命に関わる重大問題が発生しているときに、幼保無償化からの排除という差別的措置があり、そのことが「マスク不配布」というもうひとつの差別的措置につながったと言う意味で、市職員の差別的意図の有無にかかわらず、「生存権」の否定が、二重に立ち現れていることを意味する。また、幼保無償化の財源である消費税の本質は価格転嫁であり、一般大衆にとっては物価高として現れるため、実質賃金が低下している現状においては、市民生活や地域経済を圧迫することになり、待機児童問題の解消にもつながらない。そもそも、幼保無償化自体が、福祉政策というよりは、女性の就業率を高めるための経済政策であって、この場合の「就業」とは、社会進出などとは無縁の非正規雇用の増加でしかない。日本の非正規雇用率は40%だが、男性の20%に対して、女性が54%であることを忘れてはならない。
大西広氏は、近著の『反米の選択』において、第二次世界大戦における日米の戦争は帝国主義間の戦争であり、ベトナム戦争やパレスチナを例に挙げて、被支配民族の「抵抗」としての戦争は「道義」のあるものであって、「反戦」には「『正義の戦争』と『不正義の戦争』を区別する論理が弱く、全てを区別せずに否定してしまう弱点がある」と述べている。この氏の見解には概ね賛成できるが、対米従属を民族としての「日本人」の問題であるとして、かつての「大アジア主義」や「興亜論」のようなものに拠り所を求める見解は俄かに首肯しがたい。「民族の問題を優先する」という立場はありえるが、「大アジア主義」や「興亜論」の本質は日本中心主義であって、それらの終着点が大東亜共栄圏であったのは、歴史が証明している。氏の議論からは、植民地支配責任の問題が欠落しているように思える。「生存権」の問題を「民族」を軸にして考えると、「日本民族主義」のような考え方が立ち上がり、その立場からは、小林よしのりや一水会のような民族右派とも接点を持ちうるということになるのだが(実際大西広氏はそのような議論をしている)、彼らの考え方には、「自主独立」はともかくも、植民地支配責任の視点が皆無である。日本人が、植民地支配責任の克服なくして、自らを「被支配民族」のような位置において、米帝国主義に「抵抗」できる足場を確保できるとは思えず、それだと、現在のアメリカのように、却って排外主義が持ち上がる危険性もある。この点は、主に竹内好への反論として記された梶村秀樹の議論を踏まえるべきである。かと言って、アメリカの民主党リベラルが、現在のアメリカの問題を解決できないのと同じように、「戦後民主主義」という既存のシステムにどっぷりつかった日本のリベラルも、対米従属を打破できる勢力とは思えず、危機的な状況が生じれば、むしろファッショ的な方向に動く可能性さえある。「生存権」の問題において、経済と民族の問題は不可分であるがゆえに、日本の植民地支配責任の問題を踏まえて、「看板に偽りあり」みたいな過去の遺物ではなく、「生存権」の確保を軸に、現行の搾取と収奪の体制の変革ー社会主義的方向性ーを目指し、中国、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)、韓国、ロシアと共存していくことの中に活路を見出すべきと考える。