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「被抑圧者の抵抗」と「植民者の意識」ーイスラエルのパレスチナ攻撃とアメリカにおける抗議運動を巡って(2024年5月18日)

2024-05-17 15:49:33 | 時事

 前回は「イスラエルのパレスチナ攻撃とアメリカにおける抗議運動」と題して、アメリカの大学を中心に展開されている「資本引き上げ」(divestment)運動の概略を、アメリカにおける帝国主義批判と植民地主義批判を踏まえて論じた。今回は彼らが、主流マスコミや既存のリベラル勢力が主張する「ハマスの『奇襲攻撃』も悪い」とする議論に抵抗していることについて、彼らの立ち位置と論拠を「被抑圧者の抵抗」と「植民者の意識」という観点から論じると同時に、彼らの運動が抱えている潜在的な問題点についても触れたい。

 2023年10月7日の「ハマスの奇襲攻撃」を巡る議論につていは、2023年11月2日にロンドン・レビュー・オブ・ブックス(London Review of Books)に掲載された、同誌編集長のアダム・シャツ(Adam Shatz)の「報復の病理」(Vengeful Pathologies)と題する論考と、それに対する反論として提出されたアブダルジャワド・オマー(Abdaljawad Omar)による「パレスチナの戦争における希望の心理ーアダム・シャツへの返答」(Hopeful Pathologies in the War for Palestine: a reply to Adam Shats)と題する論考が大変興味深い。オマーは、パレスチナのラマッラーを拠点に活動するライター及び研究者である。

 シャツは、「人種主義、嫌悪、怒り、そして“正当な復讐の欲求”のみでは、解放闘争を生み出すことは出来ない。身体を不穏の領域に投げ込むこれらの意識の閃光は、他者の目撃が眩暈を引き起こし、我が血が他者の血を渇望する、ほとんど夢想状態の心理を呼び起こし、初期段階におけるこの情熱の爆発は、制御されなければ、頽廃するのみである」と言うフランツ・ファノンの言葉を引用しつつ、アルジェリア独立戦争に関するファノンの発言を参照して、「彼(ファノン)はムスリムの同胞と共に、アルジェリアのアイデンティティと市民社会が、民族性や信仰ではなく、共通の理想によって形作られる将来を模索したアルジェリアの非ムスリムにも大いなる敬意を払った。しかし、それが、フランスの暴力とアルジェリア民族解放戦線(FLN)の権威主義的なイスラム・ナショナリズムによって霧散して、アルジェリアがその影響から今日も回復していないのは悲劇である」と語り、ハマスの「奇襲攻撃」を「抵抗」として語るのは、被抑圧者による「報復の病理」であると一蹴する。さらに、ハマスの行為を肯定的に語ることは、民族的部族主義(ethno-tribalism)であるという、パレスチナの歴史家Yezid Sayighの言葉を引いて、脱植民地主義(decolonial)左派の民族的部族幻想は「全く常軌を逸している」と語り、「カルト的な力に乗っ取られた左派の一群は、一般のイスラエル人への共感を欠いている」と結論する。

 これに対して、オマーは、アダムの議論を「西洋知識人がとらわれる大きな知的蒙昧の体現」と呼び、「我々は、あなた方が、奈落の底で、自ら慎み深く悲劇的な被害者であり続ける限りは連帯する」とパレスチナ人に囁きかける、「一種の疑似連帯」だと批判する。さらに、オマーは、「かつて共感に満たされていた集団的な声は、虐げられたものの怒りに接するや、野蛮で、根源的で、右派のファシズムを呼び起こすものに対する警戒の声となって響きわたる」と論じ、「イスラエルの歴史的な語りの迷宮に深く足を入れて見れば、報復は、抽象的で、刹那的な感情などではなく、イスラエルの軍事主義の中枢神経にほとんど深く刻み込まれたものであることが明らかとなる」と続ける。即ち、世界で最も人口密度の高い地域のひとつに一万八千トンもの爆弾を投下するのは、「10月7日」の出来事に対する単なる反応などではなく、「通常の因果の領域を超えて、単に存在しているという理由によって、パレスチナ人の処罰を求める」シオニストの心理そのものに求められるものである。そして、「シオニズムは、パレスチナ人に、『我々か奴らか』というゼロサムゲームを適用しているために、このサイクルを突破するためには、この壁を破壊することが必須となる。それは、構造的で政治的な難局に永遠に軍事的解決を適用しようとするイスラエルの信念に抵抗する」ことに他ならず、「『10月7日』を許容しようが非難しようが、『10月7日』にパレスチナ人は、まさにそれを始めたのだ」とオマーは語る。そして、「10月7日」を評価するにあたっては、イスラエルが過去16年間にわたって行ってきたガザ封鎖と対ゲリラ戦争を考慮にいれなくてはならないとして、2006年にイスラエルがレバノンに侵攻して、1200人の死傷者を出し、膨大な数の民間人の命が失われたことをあげる。イスラエルの部隊が攻撃されたことに対する返礼が、それだったのだ。それこそ、シャツの議論に従えば、正当な軍事的目標だったにも関わらず。さらに、イスラエル軍の兵員ギラド・シャリトの拘束に対して、イスラエル軍は、1200人近くの民間人の死者を出す報復攻撃を行っている。つまり、イスラエル軍に関して言えば、軍事目標と民間人の区別は直ちに消え失せる。シャツは、そのことに部分的に言及しながらも、「行動を動機づける根源的な復讐の病理のようなものを、パレスチナ人のみに適用しているように見える」とオマーは論じる。結局のところ、ヒズボラやハマスが兵士を標的にしようが、民間人を標的にしようが、彼らは「テロ組織」のままであり、「学校、宗教施設、政府インフラを標的にした、民間人に対する不均衡で無差別な武力行使」を意味するダヒヤ・ドクトリンは、ヒズボラによるイスラエル兵士の拘束と殺害への対応として形成されたものであって、今我々が目撃しているのが、まさにダヒヤ・ドクトリンなのだとオマーは言う。換言すれば、「標的の対象が何であれ、あらゆる形式の抵抗が、他でもない空からの焦土作戦という返礼を受ける」ことになる。イスラエルは、パレスチナ攻撃の際に、自国兵士の損失を最小限にして、軍事目標と民間人の区別などなく、相手に最大限のダメージを与える方法をとってきた。

 パレスチナの抵抗勢力は、軍事作戦を練るにあたって以上のような条件を考慮せざるを得ず、また、「10月7日」の方向に事態を押し進めた社会的且つ政治的な諸力についてオマーは語る。その最もたるものが、ガザ地区の生活状態の改善が遅々として進まなかったことと、事態打開のための明確な政治的筋道が描かれなかったことである。2018年と2019年に行われた、「帰還大行進」(the Great March of Return)に対するイスラエルの報復も圧倒的に非対称的で破壊的なものであり、数百人のデモ参加者がスナイパー狙撃の標的となった。これらのことは、イスラエルが、誰からの処罰も受けることなく、これらの行為を行える「国際的地位」を有していることを示している。アメリカは、イスラエルの指導者が国際刑事裁判所(ICC)で有罪判決にならないようにICCに圧力をかけてさえいる。ヨーロッパも、パレスチナの地位を認めず、イスラエルに制裁をかけることすらしない。これらの事実の示すところは、「国際社会」は、パレスチナ人に次のようなメッセージを送っているも同然だということになる。即ち、「いかなる法的考慮も、政治的救済もなく、あるのは、非暴力にたいする限定的な支持と、イスラエルが犯罪行為を犯していると認識された場合に沸き起こる定期的な非難のみである」

 オマーは、「10月7日」の出来事について、シャツが主流マスコミが流す情報に迎合していることも指摘する。この点については、既に多くの報告があるので、詳細はオマーの原文にあたっていただきたいが、要点のみ述べれば、西側メディアが喧伝したような、「ハマスの無差別殺戮」のごときものは起きておらず、あまつさえ、「赤子の首を切って並べた」などと言う事実は全くないということである。イスラエル居住区での民間人の死者も、むしろイスラエル軍が、人質の交換交渉よりも、南部地区のGaza Envelopeを奪い返すことを優先して居住区を銃撃したことにより、民間人を巻き込んだことが、難を逃れたイスラエル人の証言によっても示されている。もちろん、このことは、ハマスの戦士が、命令通りに規律を持って動いたことや、ハマスの攻撃による民間人の死者が出なかったことを意味しないが、こういう場合、常に詳細の把握は重要(Details matter)なのである。にもかかわらず、西側の政治家やメディアは、ハマスの「残虐性」と「野蛮性」をことさら強調して、これをイスラエルの焦土作戦を正当化する根拠として戦略的に使っており、ウィキペディアにおいても、「(ハマスが)数百人を殺害し、老人、子供、赤ん坊、妊婦を含む数百人を誘拐し、甚大な被害をもたらした」ことが既成事実として記載されているのである。

 さらに、オマーは、シャツのフランツ・ファノンの援用も批判する。オマーは、「(ファノンが)暴力の心理的有用性の虚無的な称揚に注意を促し、それが暴力を行使する者に有害な影響を与える危険性に警告を発していた」のは事実であるとしながら、同時に、ファノンが「民族意識の幻想に警告を発するだけでなく、より人間的で社会主義的な地平への弁証法的転換を支持していた」ことを指摘する。そして、ファノンが、暴力を「植民地支配の構造を解体するために必要な政治的且つ戦略的な手段であり、植民地支配の枠内において必要不可欠なものであると見なしていた」と論ずる。ファノンの暴力批判は、「反植民地闘争が持つ陥穽や潜在的力を照射した内在的なもの」であり、「入植者植民地主義から自らを解放するのみならず、植民地帝国中枢の自己解放さえ射程に入れていた」と論ずる。その上で、オマーは、「パレスチナ人は、西洋の知識人が敷いたあらかじめ決められた運命を受け入れよと言うのか。もしそうであるならば、西洋の知識人は、そうはっきり言う勇気を持つべきだ」と問いかける。

 さて、以上のような議論を踏まえて、現在大学のキャンパスを中心に展開しているアメリカ合衆国での抗議運動を考えた場合、その潜在的可能性に期待を寄せると同時に、結局のところ、権力機構の一部であるアカデミアを越えて、労働者階級との接点を見つけて行けるかどうかに、その成否がかかっていると思う。ファノンの言葉を借りれば、パレスチナの解放はアメリカ合衆国の解放であり、後者を目指すことなく、前者が達成されることもまたないということである。両者は相互排他的ではなく、不可分なのだ。被抑圧者の側は、支配者が善意や慈悲心から彼らを解放してくれるなどという幻想は持っていないであろうし、そのようなことが歴史上起きたためしもない。学生の運動がパレスチナ解放を達成したり、それによってのみアメリカが変わるなどということもまたない。ベトナム戦争時にも、大学のキャンパスを中心に反戦運動が起きたが、それ自体がアメリカを変えるなどということはなかったし、ベトナムからフランスやアメリカを追い出したのは結局のところベトナム人自身であった。

 また、アメリカの学生は、大学にイスラエルと関係を持つ企業からの「資本の引き上げ」(divestment)を要求している。イスラエルとアメリカの軍産複合体が結託して、それによって生み出される武器がパレスチナ人を殺しているというのが彼らの理由である。そうであるならば、自国がウクライナに武器を投入し続ける行為も批判しなくてはならない。もし、前者を批判して、後者を批判しないのならば、それは「パレスチナ人の命は大事だが、ウクライナ人やロシア人の命は大事ではない」という二重基準となるからだ。ウクライナ戦争とパレスチナの問題は、とどのつまり、アメリカの帝国主義的世界戦略の問題であり、問題の本質を捉えているかどうかが重要である。さもなければ、結局、帝国の論理に回収されて終わりとなろう。一瞥した限りでは、彼らは、少なくとも、ウクライナやイスラエルを巡る自国政府やメディアの「二重基準」は見抜いており、権力が自らに加える弾圧が、そのことに関する彼らの確信をさらに強くしているように思える。また、コロンビア大学の「アパルトヘイトからの資本引き上げを要求する連帯行動」(Columbia University Apartheid Divest [CUAD])の声明の中に、パレスチナ解放には直接関係のない「トランスナショナル・フェミニズム」や「反クイアフォビア」のようなテーマも入っているのは、それらのテーマ自体は肯定できるものであったとしても、注意すべき点である。トランスナショナリズムは、アメリカを中心とした西洋の学問トレンドであり、これを水平的に適用した場合、西洋人の視点で物事を判断することとなり、イランやアフガニスタンのような国を、「女性を差別するアパルトヘイト国家」扱いして自家撞着に陥り、帝国主義支配層に足元をすくわれることにもなりかねない。とはいえ、この度の学生の行動が、アメリカの語る「民主主義」の欺瞞性と暴力性を暴くことに貢献しているのは確かである。

 アダム・シャツが、「民族的部族主義」や「民族主義幻想」、さらには「権威主義」などと言う言葉を弄して、「10月7日」に何らかの意味を見出そうとする議論を封じ込めようとすることがひときわ注意を引く。この事実は、近代主義的植民者が最も忌避するもののひとつに、「部族性」(tribalism)があることを想起せずにはいられない。入植者植民地主義は、アメリカ合衆国の所謂「西部開拓」にそのプロトタイプを見出すことが出来るが、これに関して、先住アメリカ人について語る、アメリカ合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソンの言葉を以下に引用する。

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 私はこれらの国の原住民を、彼らの歴史に鑑み、憐憫の情をもって見てきた。人間の能力と権利を与えられ、自由と独立を熱烈に愛し、彼ら自身の国で、干渉を受けないことだけが彼らの望みである。しかし、他の地域から溢れ出る人口の流れがこの地域に向かい、彼らは、迂回する力も、対抗する習慣もなく流れに圧倒され、あるいは押し流がされてきた。狩猟民族にとっては、あまりにも狭い土地に押し込まれた今、人類は彼らに農業と家事労働を教えるよう我々に命じている。そのため、われわれは彼らに家事や家庭道具を惜しみなく与え、生活の術を教える指導者を彼らの中に配置し、われわれ自身の中からの侵略者に対しては法の庇護を与えている。

 しかし、彼らに、現在の人生の歩みに待ち受ける運命を啓蒙し、理性を働かせ、その命令に従わせ、状況の変化に応じて追求するものを変えるように仕向けようとする努力には、強力な障害が立ちはだかる。彼らの身体の習慣、心の偏見、無知、高慢、そして彼らの中に存在する利害関係を持つ狡猾な人々の影響力によって、彼らは闘わされているのだ。彼らは、現在の物事の秩序の中において、自分自身を何ものかであると感じ、それ以外のものになることを恐れている。このような人々が、先祖の慣習に対する尊大な敬意を教え込む。先祖が行ったことは、いつの時代もそうでなければならない。理性は偽りの道しるべであり、肉体的、道徳的、政治的な状態において、その助言のもとに前進することは危険な革新である。彼らの義務は、創造主が彼らを創ったたままにとどまることであり、無知は安全であり、知識は危険に満ちている; 要するに、友よ、彼らの間には、良識と偏見の作用と反作用が見られる。彼らにも反哲学者がいて、物事を現状のままに維持することに関心を見出し、改革を恐れ、理性を向上させ、その命令に従う義務よりも習慣の優位を維持するためにあらゆる能力を発揮するのだ。(1805年3月4日)

・・・・・・

 ジェファーソンとアダム・シャツの議論に、200年の時を隔てているにも関わらず、共通する植民者の意識を見出すのは難しいことではない。近代主義者にとって、民族なるものは、彼らの中に「根源的な恐怖」を呼び起こすものとして、常に制御されなくてはならないものなのであり、この制御と馴致のプロセスを、我々は「文明化」と呼んでいる。

 以上述べたことの全てが、日本とアジアの隣国の関係に当てはまる。パレスチナ人は、彼らを解放することを我々に要求しているのではない。彼らは、パレスチナの現状を規定する帝国の物質的条件を変更せよと我々に迫っているのだ。それは、とどのつまり、我々自身を規定する物質的条件を変更せよということである。そのことを見据えない、いかなる「パレスチナ連帯」の言葉も虚しいだけである。帝国主義を押し返す抵抗の力が、西アジアにおけるアメリカとイスラエルの立ち位置を困難なものにする中、イスラエルはNATOの戦略資産に益々依存するようになっている。そうであるのに、日本のリベラル言論を代表する新聞が、このような議論をしているのである。「ああ、『戦後民主主義』とはこのようなものであったのか」と慨嘆する以外に何が出来ようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イスラエルのパレスチナ攻撃とアメリカにおける抗議運動(2024年5月13日)

2024-05-13 16:09:08 | 時事

 イスラエルのパレスチナ攻撃を糾弾し抗議する動きが世界中で展開されている。中でも注目されるのは、大学のキャンパスを中心に広がりを見せるアメリカ合衆国における学生の抗議運動である。このような場合、支配層は大メディアを利用して、外部の人間が関与して扇動しているなどと運動のインパクトを矮小化しながら、民衆の関心を問題の核心からずらそうとするのが常で、この度も例外ではないが、この度の抗議行動は持続性を保っており、尚且つ拡大する様相を示している。学生の運動の性質は、マスコミが特に取り上げているコロンビア大学の「アパルトヘイトからの資本引き上げを要求する連帯行動」(Columbia University Apartheid Divest [CUAD])が掲げる「声明」に集約して表現されている。その一部を以下に訳出する。

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CUADは、コロンビア大学に対し、イスラエルへの経済的・学術的投資をすべて放棄するよう求めることで、パレスチナの解放とイスラエルのアパルトヘイトの終焉を目指す学生団体の連合体である。私たちは、世界中の抑圧された人々との連帯と集団行動を通じて、連動するすべての抑圧システムの終焉を求める。

私たちのビジョン

私たちは自由なパレスチナを目指す。私たちは必然的に、植民地主義や帝国主義、そしてそれらを支えるすべての抑圧の連関システムから解放された世界を目指す。

私たちの価値

私たちは解放を信じる。すべての抑圧のシステムは相互に関連している: パレスチナ、クルディスタン、スーダン、コンゴ、アルメニア、アイルランド、プエルトリコ、朝鮮半島、グアム、ハイチ、ハワイ、カシミール、キューバ、タートル島(北アメリカ)、その他の植民地化された共同体の運命は相互に関連している。

私たちは、奴隷制の廃絶、トランスナショナル・フェミニズム、反資本主義、脱植民地化のために闘い、また反黒人主義、クィアフォビア、イスラムフォビア、反ユダヤ主義と闘うために、多世代の交流とアクセスが可能なスペースを作ることに尽力する。

私たちは互いの安全を守る。私たちは、刑務所、警察、利潤の追求、軍国主義、戦争、植民地主義、帝国主義が私たちの安全を守るとは信じない。私たちは、米国の人種差別的な移民法を武器にして、国境を越えた同志や仲間が声を上げることを阻止する米国移民関税執行庁を拒否する。私たちは、私たちのコミュニティを窒息させ、有色人種に対して圧倒的な残虐行為を行うイスラエル防衛軍に訓練された警察産業複合体の暴力を拒否する。私たちは、真の集団の安全は、私たちが死を生み出す機構から手を引き、生命を肯定する機構に投資するとき、つまり、すべての人がきれいな空気、きれいな水、食料、住宅、教育、ヘルスケア、移動の自由、そして尊厳を手に入れることができたときにのみ生まれると信じる。例外はありえない。

私たちは、パレスチナからタートル島(北アメリカ)にわたるまでの自決権、「土地の返還」、「帰還の権利」を信じる。

・・・・・

 トランスナショナル・フェミニズム、クイアフォビア批判、或いは「移動の自由」のような、民主党系リベラルも奉じるアジェンダーそれら自体は肯定できるものだがーも含まれているが、「反資本主義」「脱植民地」「反帝国主義」などの言葉からもわかるように、彼らの運動が、単なるリベラリズムの枠を越えた、西洋帝国主義批判を踏まえていることが伺える。アメリカにおいて、自国の帝国主義を批判する言論や運動は、少なくともベトナム戦争期にさかのぼる伝統があり、「東西冷戦」構造の解体後、やや下火になったものの、アカデミアを中心に命脈を保ってきており、ベトナム反戦運動や南アフリカのアパルトヘイト政権からの「資本引き上げ」(divestment)運動などを経て今日に至っている。CUADが組織化されたのは2016年であり、イスラエルのアパルトヘイト政権からの「資本引き上げ」要求も、過去20年に渡って行われてきているBDS運動の延長線上にあるもので、実際、CUADは2018年と2020年に、イスラエルからの「資本引き上げ」の要求を大学当局に行っている。同様の動きは、コロンビア大学のみならず、ほぼ合衆国全域にわたる50近くの大学や専門学校に拡がっており、いわゆるアイビーリーグと言われる著名な大学だけではなく、ジョージア州やバージニア州のような保守性の強い地域の大学でも抗議行動が行われ、筆者の出身校のニューメキシコ大学でも同様の動きが見られる。さらに、「反植民地主義」を掲げ、「利潤の追求」を批判し、「食料、住宅、教育、ヘルスケア」などに代表される「生存権」を追求する社会主義的な傾向が見られる。そのことも、バイデン政権が、この動きを強圧的に抑え込もうとしている理由だろう。イスラエル軍(IDF)が、ガザの病院や学校などを破壊し、現地に飢餓状態がもたらされているという現在の状況を考えると、「生存権」の問題は特別の重要性を帯びる。自国の帝国主義批判が運動の核心であるから、「朝鮮半島」に言及があるのは当然である。「反植民地主義」や「反帝国主義」を掲げ、反ユダヤ主義を批判する以上は、台湾やウクライナの問題についても、問題の根本は抑えているはずだ。

 彼らの要求事項の主なものである、大学当局に対する「資本引き上げ」要求だが、これは通常の不買運動のようなものにとどまらず、イスラエルとアメリカの軍産複合体の結託を批判するもので、自国のラテンアメリカ政策批判などとも結びついている。イスラエルが、冷戦期を通じて、グアテマラやメキシコの右派独裁政権に武器を輸出し、現地の反政府勢力の弾圧や住民の殺戮に加担していたことは既によく知られている。それらの武器は、パレスチナ人の殺戮に使われ、「効果が実証済み」という触れ込みで、ラテンアメリカ各国に売却されていた。アメリカにおける帝国主義批判の軸は、自国のラテンアメリカ政策と中東政策である。これに、マンハッタン計画以来、大学が軍需産業と武器開発に深く関わってきたという事実が結びつく。これらを、全体の連関の中で批判するのが、「資本引き上げ」要求の意味するところである。従って、「米国の人種差別的な移民法を武器にして、国境を越えた同志や仲間が声を上げることを阻止する米国移民関税執行庁を拒否する」というのは、単なる「移民保護」ではなく、自国の帝国主義的なラテンアメリカ政策や、それに伴う経済政策や移民政策を拒否するという意味に他ならない。よって、この度の、大学を中心とした抗議運動の広がりは、昨年の10月7日以降の展開を受けて、澎湃として沸き起こったものではなく、歴史的な背景を持つ、かなり高度に組織化された動きである。

 さて、以上の抗議運動は、あくまで非暴力運動なのだが、彼らは、「ハマスの『殺戮』も許容できない」という、主流メディアや既成のリベラル組織に典型的に見られる没歴史的態度にも激しく抵抗している。これは、前回論じた被抑圧者の「抵抗」と植民者の「意識」について重要な問題を提起するものだが、この点は、次回に論じる。

 

 

 

 


「戦争は正当化できるか―オンライン討論から」(2024年5月7日)

2024-05-05 23:42:18 | 時事

  アメリカの反戦運動体World Beyond Warが5月5日に開いた「戦争は正当化できるか」(Can War Ever Be Justified?)というタイトルのオンライン討論会に参加した。討論者はWorld Beyond Warの創設者で反戦平和活動家のデイヴィッド・スワンソンとモーガン・ステート大学(ボルティモア、メリーランド)アフリカーナ・スタディーズ教授のジャレッド・ボールで、司会はベルギー在住の評論家ヨウリ・スモーターである。スワンソンが、「戦争は決して正当化されない」という絶対平和主義の立場で、ボールは「戦争は正当化される」という立場で議論を展開した。なお、スワンソンは白人で、ボールとスモーターはアフリカ系アメリカ人である。討論に先立ち、参加者全員に二択の質問が提示された。一つは、War is never a better choice than non-violent action.(戦争が非暴力行動より良い選択ということはありえない)で、もう一つは、War can be justified.(戦争は正当化されうる)であり、参加者はどちらかを選ぶように促された。私は前者を選択したが、それはともかく、質問の立て方自体が適当ではない。「戦争が非暴力行動より良い選択ということはありえない」はまことにその通りだが、それが「真」であるための条件があるはずであり、そのことを語らずに選択肢を提示するのは必ずしもフェアではない。しかしながら、「戦争は非暴力行動より良い選択ということはありえない」と問われれば、その通りと言うほかないので、ひとまず前者を選択した。このような討論会を非暴力・平和を掲げて活動する運動体が主催したのは、やはりウクライナ戦争を巡るドンバスやクリミアの問題と、イスラエルのガザ攻撃とパレスチナ人虐殺を批判するにあたり、2023年10月7日のハマスによる「奇襲攻撃」をどのように解釈するかが問題となっているためであろう。

  スワンソンは、いかなる理由であれ、武力の行使を肯定すると、帝国主義者の「聖戦論」に利用される恐れがあり、そのことは歴史が証明しており、また、国家間の戦争は、さらなる戦争を呼び、核戦争にエスカレートする危険を伴い、夥しい人命が失われ、貧困、分断や難民などの人道危機を招来し、環境に与える影響も甚大であるがゆえに、いかなる名分があっても許されるものではなく、非暴力的な組織化や活動などを通じた紛争の抑止や解決を目指すべきであると述べる。その上で、彼は、バルト三国がソ連からの独立を訴えた、いわゆる「バルトの道」を非暴力運動の代表的な例としてあげ、実際リトアニアでは、非暴力による市民行動を国家の基本政策とする方針さえ検討されたと言う。パレスチナにおいても、第一次インティファーダにおける、パレスチナ人による大規模な市民的不服従の実績があり、あらゆる抵抗がその潜在的な力に立脚すべきであり、その点について同意するパレスチナ人が少なくないにも関わらず、10月7日の「奇襲攻撃」を「成功」と呼ぶことは、その予期しえた結果が積み重なっている現実において、グロテスク以外の何ものでもなく、また、NATOを止めることを名目に始めたロシアのウクライナ侵攻が、予想されたごとくにNATO拡大論に力を与えており、二年前に武器が湯水のごとくにウクライナに注ぎ込まれる以前には、非暴力的手段で紛争を解決する試みはウクライナにもあったとスワンソンは論じる。武力は兵器産業や西側の政治エリートに力を与える一方、政治組織を腐敗させ、武器の蔓延による環境破壊も甚大となる。戦争は「法の支配」を破壊し、権威主義を呼び起こし、国家による監視を強化する。我々が考えるべきことは、エスカレーションを阻止し、侵略の名分を与えず、恒久的でより持続可能な紛争解決の手段を通じて、気候変動や環境破壊や貧困などのグローバルな問題に対処すべきであり、その成果は確実に上がっており、我々はそうした事例に学ぶべきである。よって、ニジェールが米軍を追い出すことは平和に寄与するが、もし、ロシア軍を招き入れるのであれば、正反対の結果となると論じる。

  以上が、概略スワンソンの議論で、反戦平和運動にコミットしている立場としては当然の議論である。

  それにたいして、ボールは、私同様、問いの立て方自体への違和感を表明した上で、「戦争は、暴力の独占の必須の前提として、帝国によって常に正当化されており、それは、『聖戦』(just war)の遅滞なき遂行を確実にする言論や教育に対する支配的統制及びそれにより生じる心理的暴力をともなう」と論じる。つまり、帝国の戦争プロパガンダを拡大し拡散する装置が埋め込まれている全体主義的統制下に、異議を申し立てることすら困難な状況であるならば、「同意」は「同意」ですらなく、「戦争の正当性」を云々する以前に、戦争や暴力は常に起きるとボールは論じる。ここで、最も高度且つ広範囲に組織化された技術的及び心理的治安維持装置が組み込まれた植民地支配の悪夢の中で、被支配者の側は、自らを解放するための「義」であると確信した場合に、隷属的支配や植民地支配に対する武力による抵抗や闘争を道徳的に正当性のあるものと認めて来た。よって、他者に対する暴力的な攻撃を永続的に廃止するために、自覚的且つ政治的に組織されたあらゆる手段が必要と考えるならば、そのような戦争は絶対的に正当なものである。したがって、それらの戦争の正当性を否定し、且つそれらを支持する声を拒絶することは、彼らの主張する原理が、「抵抗の抑圧」に比して、「正義から生み出される平和」を含むものであるならば、いずれも不道徳的なものと見なされなくてはならない。このような反植民地戦争は、奴隷制の暴力、植民地支配の暴力、文化収奪の暴力、労働搾取の暴力、そして何より資本の暴力にたいする「自衛の権利」から導き出されるところの自然権によって道徳的にも正当化される。大規模な暴力も科学的に客観的な根拠にもとづき正当化されうる。即ち、ダルバ・ビン・ワハド(Daruba bin Wahad)やラッセル・マルーン・ショアツ(Russell Maroon Shoatz)が言うように、「先行する暴力にたいする真の抵抗は、同等の反発する力によってなされる」である。この討論のサブタイトルが言及する「非暴力」(non-violence)とは、「暴力の反対」ではなく、単に「暴力の不在」を意味するものに過ぎず、現実的に「暴力の反対」を成すものは、「対抗暴力」である。

  このように論じた上で、ボールは、10月7日の「奇襲攻撃」が現在の状態を招いたであるとか、ロシアの「侵攻」がNATO拡大論に力を与えたというような議論は、先行する不正義を無視して、問題を被抑圧者に転化するものであると論じる。つまり、イスラエルのガザ攻撃やNATOの問題は、これらの問題を支える帝国の論理や物質的条件(material conditons)が変化しない限り解消されることはない。したがって、帝国主義の戦争と被抑圧者による抵抗戦争を同一の次元で語るのは「誤った等価関係」(false equivalence)であり、また、環境問題の根本は、資本主義的生産様式とそれを維持するための帝国主義戦争にあるのであって、この問題を「全ての戦争」に結び付けて語るのも、「誤った等価関係」であると論じる。

  10年前であれば、私もスワンソンの考えに同意したかもしれないが、さすがに今となっては、ボールの議論により説得力を感じる。ボールが、わりと躊躇なく「暴力」という言葉を使うのは、近代市民社会の成員にとっては反直感的(counterintuitive)なのだが、被抑圧民族にはこのように考える人が存在するし、確かに歴史的に見ても、武力を用いた抵抗戦争や解放戦争は幾度となく戦われて来た。もちろん、このことは暴力を奨励するものではないし、非暴力行動に意味がないというわけでは決してなく、ボールもそのことは認めている。だが、パレスチナから遠く離れた安全地帯で、それも西アジアの政治的現実を規定する物質的状況を変更する努力なしに、「ハマスの『奇襲攻撃』が現在の状態を招いた」などと言ってみても、当事者性を欠いたきれいごとでしかないだろう。バイデンやブリンケンをはじめとしたアメリカの政治支配層も同様の論理で、イスラエルへの継続的支援を正当化している。また、スワンソンは、ロシアの行動がNATOを正当化する口実をバルト三国の政治勢力に与えたために、バルト三国において反NATOの活動はやりにくくなったと主張しているが、台湾を巡るリトアニアと中国の確執にも現れているように、バルト三国はアメリカの影響下にあり、アメリカによるプーチンやロシアの「悪魔化」の影響の浸透を伺わせる部分もある。加えて、NATO(アメリカ)が、2022年以前から、ウクライナに武器を流し込んでいたのは確かであり、ドンバスは8年間攻撃にさらされ、ドネツクやルガンスクはロシアへの編入を望んでさえいた。そのような先行条件を語らずに、ロシアの行動だけを批判しても大した意味はないだろう。同様のことは、日本のリベラル反戦勢力にも言える。東京新聞などのリベラルメディアは、フィンランドのNATO加盟などを取り上げて、「ざまあみろ」と言わんばかりの論調を繰り広げている。総じて、日本のリベラル勢力はNATOを「防御装置」として肯定しているのである。NATOを肯定することは、帝国主義の論理に与するも同然である。そのような状況で「非暴力」を説かれても、説得力はゼロに等しい。

  非暴力行動は、それ自体は尊いものである場合が多い。例えば、中村哲氏のペジャワール会によるアフガニスタンでの活動は賞賛に値する非暴力行動だが、それ自体では、米軍の影響下にあるアフガニスタンの物質的状況を変えることは出来ない。先日、ガザで難民の食糧支援にあたっていた、ワールド・セントラル・キッチンというNGOの職員7名がイスラエルの攻撃を受けて死亡するという出来事があった。食糧支援という行動だけをとってみれば、「尊い非暴力行動」ということになるのだろうが、ワールド・セントラル・キッチンは、アメリカの政治支配層に近い組織である。彼らは、アメリカが引き起こす紛争の現場に現れては、「食糧支援」などを行うのだが、彼らの存在や行動が、紛争地域を規定する物質的条件を変えることは決してなく、むしろ、西側帝国主義の随伴者とさえ言えるであろう。このことを、日本が存する東アジア地域に当てはめてみれば、東アジアにおいて対立と紛争の構造を規定する根本的な物質的条件は、やはり米軍の存在と「日米同盟」である。よって、この物質的条件を変更することなく、日本がアジアの国々ーそのほとんど全てがかつての被支配国家ーと平和的に共存するのは極めて困難である。しかるに、日本の領空内を、朝鮮や中国の爆撃を想定したアメリカの戦闘機が自由に飛行する状態を許容したままで、「唯一の被爆国」であることを理由に、朝鮮に核の放棄を迫るなどと言うことは、帝国主義の論理に取り込まれていると言われても仕方がないであろう。

  また、スワンソンは戦争は環境を破壊すると論じているが、大学の英語の授業で使用するEFL(English as a foreign language)教材などでは、ガザの問題が、水や資源へのアクセスが制限されていると言う意味で、「インフラ問題」や「環境問題」として語られることがある。英語の教材は、持続的開発目標(SDGs)に沿って編集されている場合が多いのである。しかし、そこには、パレスチナの問題の根底にある物質的条件を規定する西側帝国主義の問題は語られることがない。ちなみに、中村哲氏も、英語の教材にはよく登場する。

  討論の最後に、冒頭に提示された二択の質問の再提示が行われたが、討論開始前は、参加者の73%がスワンソンの立場に同意していたのが、討論後の再投票では、それがほぼ逆転する結果となった。ウクライナ戦争についても、西側が語る「いわれなき侵攻」論の問題点を指摘する声は予想以上に多かった。問いの立て方自体に問題があったのは冒頭述べたとおりである。また、「全ての戦争に反対する」が真に有効となるためには、「あらゆる条件が同等」(centeris paribus)という前提が必要だが、そのような前提自体が存在していないのだ。とはいえ、World Beyond Warのような、典型的な西側の反戦運動体が、このテーマを取り上げて議論をしたこと自体は評価に値する。我々は、非暴力行動の歴史や実績を学ぶのと同時に、被支配者側による反植民地主義・反帝国主義の抵抗戦争の歴史も学ばなくてはならない。暴力を肯定するためではなく、現在の国際社会を規定する、西側帝国主義勢力によって敷かれた物質的条件を変えるためにもそれは必要であり、時代はそれを我々に要求している。