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的場昭弘・前田朗『希望と絶望の世界史ー転換期の思想を問う』(三一書房)

2024-04-26 11:07:29 | 書評

『希望と絶望の世界史ー転換期の思想を問う』というタイトルの書物を読んだ。著者としてクレジットされているのはマルクス経済学者の的場昭弘氏と法学者の前田朗氏だが、実際は、2023年の4月から6月にかけて、新横浜のスペース・オルタを会場に行われた対談を基礎に、それに、出版元の会議室でのインタヴューをもとにした第四章を補足として加えて、一冊の書物として活字にしたもので、エッセイ的に気軽に読める内容となっている。前田朗氏が的場昭弘氏に問いを投げかけて、的場氏が答えるという形をとっており、「主」はあくまで的場氏である。的場氏は、2022年2月24日を持って戦争の「開始」とする西側政府や主流メディアの「言われなき侵攻論」とは異なり、ウクライナ戦争のアメリカ・NATO対ロシアの代理戦争としての性格を把握した上で、歴史的背景やアメリカ・NATOの関与も踏まえて論じる数少ない論者の一人である。インタヴューが行われた時期は、アメリカをバックにしたウクライナのいわゆる「反転攻勢」の時期にあたるが、「反転攻勢」の成否にかかわらず、既にロシアの戦場における優位性が確立され、いわゆる「グローバルサウス」と呼ばれる国々による西側主導の国際秩序からの離脱への動きに伴う国際関係の地殻変動が顕在化し始めていたことも、上述のインタビューが行われた背景としてあったものと推察される。

書物の前半は、資本主義と帝国主義や植民地主義の歴史的関係を軸に、世界史における諸勢力の攻防やマルクスの思想的遍歴等を大雑把に語ることに費やされているが、それはこの書物の肝ではないので、そのあたりの詳細は的場氏の他の書物にあたっていただくとして、ここでは、私自身の考えも踏まえて、重要な論点について思うところを書いてみたい。

フランス憲法の人権宣言には「自由、平等、博愛」が謳われているが、本来あった「所有」と「安全」が後景に退いて、近代民主社会の支柱である西洋の「自由民主主義」と資本主義の本質的関係が隠蔽されたと的場氏は指摘しているが、これが的場氏の議論の核心だろう。他者の搾取と収奪を正当化する理論としての「人種」と資本主義の関係にも言及している。これはアメリカ史においても同様で、「西洋民主主義」の語る自由に二面性があることは、学問水準としては最早あたりまえの議論で、このことは日本と中国や朝鮮民主主義人民民共和国をはじめとしたアジアの隣国との関係を考える上でも極めて重要だ。

的場氏は「一国国際主義」の危険性について語っているが、これは、現今アメリカが語る「法の支配」や「ルールにもとづいた秩序」が、一見「普遍」を装いながら、現実にはアメリカを頂点とする西洋中心主義に過ぎないことを指弾する言葉でもあろう。的場氏が触れていないことだが、国際連合が結成されるにあたり、アメリカのキリスト教会が大きな役割を果たしたことは歴史的事実であり、その背後には、多分にカント的な定言命法的思想があった。実際、長老派教会の平信徒で、第二次世界大戦後にアメリカの対ソ冷戦政策を主導したジョン・フォスター・ダレスは国連結成でも大きな影響力を発揮し、1953年の長老派大会において「国際連合のごとき組織こそ、神の道徳的統治の原理に一致するもの」と語っている(1)。国連は、まさにカント的な「良心の絶対無条件的道徳律」の地上における体現だったのである。その一方で、教会連合協議会(Federal Council of Churches)の「正義と永久平和実現の基礎的研究のための委員会」の主事をつとめ、ダレスとも親密な関係を持っていたオランダ改革派教会のルーマン・J・シェーファーは、「キリスト教が自己中心的な国家、或いは一組織の信仰と堕すならば、それはキリスト教から、その礎石を奪うものに他ならない」と論じ、キリスト教が単に一国家(アメリカ)の利益に奉仕する存在ならば、それはキリスト教の堕落であると説いたが(2)、現今アメリカが語る「国際社会」は、まさにそのような「一国国際主義」に陥っており、「普遍」からはほど遠い状況にある。的場氏は、そのような「国際社会」の西洋中心的な非対称性を表すものとして、「ウクライナ戦争」を捉えていることが、本書の内容からもうかがえる。つまり、西側社会の語る「国際社会」が、西洋中心の非対称的なものであるならば、その事実を黙認したいかなる「反戦」や「反差別」の言説も、現状の追認以外にはなりえないということになろう。

例えば、現今イスラエルが行っているガザ制圧とパレスチナ人の虐殺について、2023年10月7日にハマスが行った「奇襲攻撃」が現在の状態を招いたとして、これを批判する言説が反戦リベラル勢力の中にさえ見られるが、そのような態度は、現在の状況に至った歴史的背景を隠蔽するのみならず、抑圧されている側の抵抗権を拒絶して(ウクライナの抵抗権は認めるのに!)、事実上イスラエルの攻撃を容認するものとして作用する。実際、アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は、「10月7日に彼ら(ハマス)が最も恐ろしい残虐行為とテロリズムに関与することを選ばなければ、今の状況はもたらされていないだろう」と語り、これを、イスラエルへの継続的な支援を正当化する理由として使っている。直近でも、「川から海まで。パレスチナを解放せよ」(From the river to the sea. Palestine will be free)の標語を掲げて、キャンパスでイスラエルの虐殺行為を非難し、パレスチナ支援を訴えるコロンビア大学やイェール大学の学生が、「コミュニティに亀裂をもたらす」という理由で、警察権力によって排除拘束されるという事件が起きている。これに関して、アメリカの下院は、この標語を、イランによるイスラエル攻撃を正当化するものであり、イスラエルとユダヤ人にたいする「ヘイト」であるとして、377対44の圧倒的多数をもって、この標語を「反ユダヤ主義言説」とする決議を通している。「川から海まで」という標語自体は、イスラエルのシオニストとパレスチナ人の両方が使用するが、後者にとって、この言葉が、パレスチナ人の生存権と自治権の主張である一方、前者にとっては、パレスチナ全域がイスラエルであるべきとする「大イスラエル主義」の表明に他ならない。つまり、「川から海まで」の標語は、現行の非対称的な国際政治秩序の下では、パレスチナ解放の呼びかけではなく、「ユダヤ人に対するヘイト」と判断される。

この点において、的場氏は、西側主導の国際秩序を超克するものとして、被抑圧者の「抵抗」の重要性を強調するが、それは非常に重要な点であると私も思う。そもそも、「普遍」を標榜するものは、その姿を現さないことになっている。姿や位置を同定することができないからこそ「普遍」を語ることが出来るのであって、姿や位置が同定された瞬間に、そのものは「有限」なものに過ぎないことが明らかとなる。これまで、アメリカを頂点とした西側が、「普遍」を装うことが出来たのは、第二次世界大戦以降のアメリカが、圧倒的な経済力と軍事力と、それに伴うソフトパワーによって、自らの「有限性」をカモフラージュ出来ていたからである。しかし、東西冷戦構造の解体以降、世界唯一の超大国となったアメリカは、その力を他国を屈服させる手段として使うことにより、「一国国際主義」の誤謬に陥り、「西洋民主主義」の足元を自ら掘り崩し、今また、ウクライナ戦争やイスラエルのガザ攻撃を通じて、その「有限性」は最早隠しようのないものとなった。アメリカ議会で、「中国の脅威」や「ロシアの核の脅し」なるものを訴える日本の首相は、さながら「普遍」を装うものの「取り巻き」のごとくであり、我々は、そのような存在に抵抗し、打倒することによってのみ、アジアの隣国と共存していくことが可能となる。

的場氏は、資本主義の搾取構造から脱却するための方法としての「アソシエーション」に言及しているが、これについては、実践を通じて答えを見つけていくほかないであろうし、そもそも、マルクスによる西洋啓蒙主義の人権概念批判は、「世界をいかに変革するか」という実践(praxis)の問題と不可分である

もう一つ、本書で的場氏が指摘していることで重要なのは、サハリンIIの権益維持や経済利害等を通じてロシアや中国との関係の維持を主張する議論は、末期的症状を示している日本の資本主義の延命策に過ぎず、日本社会の「変革」にはつながらないということである。企業活動や市場確保を通じた中露との関係を解く人々は確かに多いが、私自身、そうしたスタンスに違和感を感じていたのも確かであり、そのような現状に寄りかかった議論は、早晩限界に直面するだろう。いわゆる「国際秩序」自体が、そのような他力本願的なアプローチを許さない方向に動いていることも頭に入れておかなくてはならない。日本にとって、隣国との共存は、「我々の社会をいかに変革するか」という問いと不可分である。

以上のように、的場氏の本書における議論には賛同できる点が多々ある一方で、日本をアメリカとの関係で「アジアで唯一の植民地」と呼ぶのは必ずしも適当ではない。日本は、他国や他地域を植民地にした帝国主義国家である。日本がアメリカに従属しており、主権が制限された状態であることは明らかだが、支配層が日米同盟に寄生して生き延びているのが日本の現状であり、日本を「アジアで唯一の植民地」と呼ぶことは、植民地主義から決別しておらず、両岸と朝鮮半島の分断状況に依存する日本の構造的問題を見えにくくする恐れがある。

1. 武市一成『松本亨と「英語で考える」ーラジオ英語会話と戦後民主主義』彩流社、2015年、P. 94。

1. 同上。日本キリスト教団が、2022年3月2日に出した「声明」にも、このような事態に至った歴史的経緯についての言及は全く見られない。