アマチュア哲学者で

日記か評論か意見表明か感想文かノンフィクションかエッセイか暇つぶしのレポートか

神秘主義者の確信

2023年11月11日 21時19分35秒 | 日記
 わたくしは科学の力を否定する者ではない。しかし現代の科学レベルでは解き明かせない、説明できない現象は存在する。それが神秘現象で未来の科学が何かしら解明すると信じている。
 そして、神秘的でない日常性において神秘の力は必ず存在すると確信した。神秘力が現前した時、奇跡は起こる。神秘力が作用して現象する、日常生活で。その具体例を挙げたいが面倒くさいのでやめておく。後日、気分が乗ったら表現したい。一例としてはシンクロニシティがある。
 少し話題は変わるが、多幸感を得るときがある。映像と想像だけで絶対的な性的エクスタシーに達することができる。音楽の楽曲を聴いてもエクスタシーに達するときがある。多幸性脳内ホルモンのドーパミンがほとばしっている。それとは別に、アルコール酔い快楽は脳内局所の単なる感覚麻痺だろう。アルコール酔いながら、ステキな音楽を快適な自室内で聴いていて多幸感に支配される。


四国のある道を歩いていたら

2023年11月10日 18時01分06秒 | 日記
 秋の天気の良い日、吉野川左岸の土手道を歩いていた。徳島県脇町からの帰りだった。ぼくは河口に向かってJRの駅を目指して歩いている。大きな橋をわたれば目的先に着く。午後の中くらいの時間帯だった。人口の少ない四国だが、前から女子中学生らしき二人が歩いてきて右側をすれ違った。仲良く親しげに会話していた。制服を着ていたのでそう認識した。その他の世界では誰も見当たらない。9度目ぐらいのこの四国旅行において、その時。
 思うのだが、女の子は同性同士でくっつきやすい。東大阪市で低学年の女子小学生たちの下校姿を見るにつけても無邪気で可愛い。ロリコンのような感情をいだく。女の子も小学生高学年になるとませてきて生意気になる。何もすることはないが、やはり女の子は初潮前が最高だと思う。

 

  

司馬史観

2023年01月01日 23時16分56秒 | 日記
  司馬史観があるとすれば、その作品のえがかれている同時代を生きている人々の頭から考えるということだろう。その当時の人々には未来はない。それは現在でも同じで、一般人は未来はどうなるか知れない。未来の予想はできるとしても、どれだけ当たるか判らない。後世から過去の事件なり出来事を見るのでなく、過去の同時代人の目から見て評価する。
 司馬氏のえがく空海像はその当時を生きた生身の人間として叙述している。姓は佐伯で名は真魚だった。決して神格化していず、ほとんど神秘化していない。淡々と彼の事歴を述べてゆく。印象に残っているのが若い頃、室戸岬の先端の洞窟で座禅修行している時、眼前の空中に見えていた金星が空海の口中に飛び込んだというくだりぐらいだ。読んでいてそれはないだろうと思った。
 なぜ彼が歴史上の宗教家として名を残せたのは、文学上の才能に求める。当時の漢文漢詩の作成天才だった。唐の日常会話にも堪能だったかもしれない。
 師、恵果和尚から密教の法統を受け継いで帰国後、日本に密教を広布すべく邁進する。おびただしい経典法具も持ち帰りその目録を作成して、時の天皇に上程した。その最澄筆による写しが現存していて国宝指定されているのが歴史的におもしろい。
 晩年、優秀な弟子の進退をめぐって最澄と文通のやりとりをする。そこで空海が述べている内容が生々しい。決して聖人君子ではない。その間の表現に司馬氏の空海をとらえる真骨頂的見方があった。
 

四国旅行

2022年12月31日 19時49分27秒 | 日記
 旅行といえばアホの一つおぼえのように四国目指して海を渡ってゆく、難波から和歌山港まで南海電車に乗って行って南海フェリーで3千何百円の運賃で行ける。この引継ぎ時刻に要注意、スムーズに移動するには。フェリーで2時間半かかる。このルートはほぼ直線なんだが、なんせフェリー船は遅い。その間、船内暇つぶしにヘッドフォンをしてRAMONESを聴いたりする。パンクロックは純粋だ、雑念がない。途中、淡路島南端沖を通過し沼島を確認する。
 まずは徳島に上陸する。日本は面積小国だと思われるが実はそうではない。日本より面積の小さい国がなんぼでもある。世界各国の順位をとれば日本は上位に位置するはずだ。
 ところで四国はイスラエル国の面積と同じくらいなんだそうだ。モーニングショーの羽鳥氏が言明していた。その四国の大きさを感じたくて渡っている。
 淡路島を高速バスで約30分かけて縦断した。その先、鳴門で途中停車した。競艇場の最寄りのバス停だった。ぼくが乗っていた時、ギャンブラーらしき風体の中年男一人が下りて行った。次に着いたところが松茂町で、ここには最寄りの徳島空港があった。その時何でこんなところで止まるんだと思って、後で調べたらそうだった。
 高速バスの終点はJR徳島駅前である。どこから乗ったかといえば梅田からで、乗車賃は鉄道利用と大きく変わらなかった。
 絶対に愛読書の司馬遼の影響だ。空海や竜馬や長宗我部元親や正岡子規や秋山好古の故郷だった。四国の八十八か所札所の第一番は霊山寺で徳島県内にある。
 土佐出身の長宗我部元親は戦国時代、ほぼ四国全域を制覇した。これは珍しいことでなく、九州は島津氏が、中国は毛利氏、北陸は上杉氏、畿内は三好氏とあちこち日本列島がブロック化されていった。
 明治維新では土佐は薩長土肥として第三位を確保した。これはすごいことだ。当時の最先端地域だった。日本史の最前線にいた。地政学に考えると明治維新は辺境地革命だったなと。本州九州四国の辺境地勢力が中央政権を覆した。しかし薩長土肥の次の第5位はどこの藩ですか。
 板垣退助率いる土佐軍勢は北上して松山藩を占領する。あたかも戦国の長宗我部勢のように。歴史は法則のようにくりかえす。長宗我部は現在の四国では侵略主義者として歓迎されてないみたいだ。しかし未来に四国で道州制をしかれるとしたら四国統一の英雄として顕彰されるのは間違いない。





ものとことの区別

2022年11月30日 18時44分30秒 | 日記
 私は以前からブログ記事をアップしては削除してきた。その記事の下書きが一部残っていて、再読して価値を有すると自認したので、推敲加筆して次に再掲してみる。

 もの、漢字で書けば物。こと、漢字では事。二つ合わせて物事という言葉がある。物事の意味は事に属するだろう。事象の意味に近い。情報自体は事だろう。知識もアイデアも事に属する。出来事は文字どおり事だ。
 一方、ものは物質物体を意味する。事物という言葉は事と物の両方を指しているのか。それとも物に属するのか。広辞苑をひいたら、①事と物と。ものごと。②[法]事件と目的物と。の意味が載っていた。
 分析哲学の分析とは言語を分析する哲学で私はその入門書や専門書を一冊も読んでいないが、英国の有名な哲学者ラッセルの主張であると、大書店内立ち読みで知った。
 哲学は言語を分析する学問だという事だが、哲学を論じる言語はその意味を厳格に定立して使用しなければならないはずだ。
 書き言葉と日常会話などの話し言葉では事情が違うが、言葉を用いる以上、ものとことは判別して考えたい。言語で思考するのであれば、ものとことは判別して考えなければいけなくなる。PC用語ではソフトウェア(事)とハードウェア(物)と区別されている。
 経済の要素はカネ、人、物の3つがあげられるが、ここに情報とか知識とかイベントとか事の要素も付加されるべきではないか。経済の4要素としてカネ、物、人、事を挙げたい。サービスは物を媒介しての人と人との関係だ。イベントは人と人の関わり合い、人と物との関わり合いになる。
 さてここで哲学テーマに戻るが、現在の世界に起きている特殊事象(例えばウクライナ防衛戦争)を分析するには、現実的かつ理性的、そしてできうる限り総合的にアプローチして分析する必要がある。そうすれば客観的に最接近できる。が、それはあくまでその対象である特殊事象の部分にすぎないということ(分析材料、情報が限定的だから)を前提に認識しておくべきだ。そのまだ大前提に分析主体者が確固たる理念を有しているのはいうまでもない。