アマチュア哲学者で

日記か評論か意見表明か感想文かノンフィクションかエッセイか暇つぶしのレポートか

ものとことの区別

2022年11月30日 18時44分30秒 | 日記
 私は以前からブログ記事をアップしては削除してきた。その記事の下書きが一部残っていて、再読して価値を有すると自認したので、推敲加筆して次に再掲してみる。

 もの、漢字で書けば物。こと、漢字では事。二つ合わせて物事という言葉がある。物事の意味は事に属するだろう。事象の意味に近い。情報自体は事だろう。知識もアイデアも事に属する。出来事は文字どおり事だ。
 一方、ものは物質物体を意味する。事物という言葉は事と物の両方を指しているのか。それとも物に属するのか。広辞苑をひいたら、①事と物と。ものごと。②[法]事件と目的物と。の意味が載っていた。
 分析哲学の分析とは言語を分析する哲学で私はその入門書や専門書を一冊も読んでいないが、英国の有名な哲学者ラッセルの主張であると、大書店内立ち読みで知った。
 哲学は言語を分析する学問だという事だが、哲学を論じる言語はその意味を厳格に定立して使用しなければならないはずだ。
 書き言葉と日常会話などの話し言葉では事情が違うが、言葉を用いる以上、ものとことは判別して考えたい。言語で思考するのであれば、ものとことは判別して考えなければいけなくなる。PC用語ではソフトウェア(事)とハードウェア(物)と区別されている。
 経済の要素はカネ、人、物の3つがあげられるが、ここに情報とか知識とかイベントとか事の要素も付加されるべきではないか。経済の4要素としてカネ、物、人、事を挙げたい。サービスは物を媒介しての人と人との関係だ。イベントは人と人の関わり合い、人と物との関わり合いになる。
 さてここで哲学テーマに戻るが、現在の世界に起きている特殊事象(例えばウクライナ防衛戦争)を分析するには、現実的かつ理性的、そしてできうる限り総合的にアプローチして分析する必要がある。そうすれば客観的に最接近できる。が、それはあくまでその対象である特殊事象の部分にすぎないということ(分析材料、情報が限定的だから)を前提に認識しておくべきだ。そのまだ大前提に分析主体者が確固たる理念を有しているのはいうまでもない。







ジョンレノン雑感

2022年11月28日 22時11分20秒 | beatles
 ビートルズのリーダー格。ビートルズはジョンレノンに始まってポールマッカートニーで終わったと朝日新聞のある記者は評したが言い得ていると思った。
 レノンがビートルズ発足時から実質的リーダーだったが、そのようにふるまわなかった。他の3人のメンバーと平等に行動した。そう彼は社会主義者だったと思われる。彼の作って歌った詞と楽曲の数々からも導かれる。わたくしから言えば彼はロックンロール社会主義者だ。
 それがニューヨーク市の住んでいたダコタマンション玄関前で1980年に射殺された理由だ。
 わたくしはずいぶん過去に音楽之友社刊『ジョン・レノン』レイ・コールマン著を通読したのだが、犯人マーク・チャップマンはCIAの陰謀によって動かされたのだと確信した。
 当時レノンは元ビートルズの大富豪として、米国の弱小社会主義者たち、もしくはその組織に巨額のカンパ資金を寄付していた。その行為が米国の体制内右翼の逆鱗に触れたのだ。その感想を以前の職場の上司にもらしたがそれは違うと明確に否定された。その論拠が思い出せない。あの上司とはわが本意ではないのによく対立していた。
 レノンは紛うことのない音楽的天才で自作の詞曲をギターで弾き語りした、他のメンバーと共にバンド活動で。ポールマッカートニーという、これまた天才作曲家との共作が有名だが、彼単独でも名曲を作っている。imaginが代表曲か。そのかもしだすメロはシンプルだがしっとりとして聴く人の感情を魅惑する。
 しかも彼には文学的才能も見られる。わたくしの英語の教養など高が知れているのだが彼の歌詞を読むと感心できる。nowhere manとかhelpとかstrawberry field foreverとかhey bulldogとかin my life ,girl等。それに反してポールの歌詞は判読しにくい。彼は英語特有の浅学の日本人では理解しにくい表現をする。
 いやレノンの事だが、ものすごい近視でデビュー初期の頃とlet it beの頃の眼鏡をかけた顔が断然違った印象に見えた。何しろヘアスタイルがマッシュルームカットからロングのセンター分けに変わっていた。
 revolutionの詞を書いたのも彼だが、そこでは暴力革命に反対意思を表明している。君が毛沢東の写真を持ち歩いているならどうにもならないとも歌っている。
 



 
 

サルトル雑感

2022年11月27日 21時10分26秒 | 哲学
 フランスの有名な作家、哲学者。無神論の実存主義を説いた。これに関してはニーチェの後継者か。あの神は死んだと唱えて反キリスト教の論陣を張った。この人は最後は狂気を発病して死んでいるので、全然尊敬できない哲学者だが、一般受けは至極良い。
 わたくしの尊敬するサルトルは斜視だった、生前写真で見る限り。本人はかなりルックスでコンプレックスを生涯もっていたと推測される。
 かれは大文学者であり、『自由への道』『嘔吐』などの作品を発表してノーベル文学賞を授与されたが断った。随分過去の事でわたくしはその理由を知らない。長いノーベル賞の歴史の中で受賞を断ったのはあと一人しかいないはずだ。かれはノーベル文学賞の権威を否定したことになる。スケールは小さいが日本では大岡昇平氏が文化勲章を辞退している、同氏の作品『俘虜記』からして納得できる。
 あの反権力反権威で知られるボブ ディランでも受けている。現代のどこかの国の訳の判らん小説家の態度と大違いだ。
 さて本題の哲学家としてのサルトルだが、実存主義で一時代を築いた。その入門書として『実存主義とは何か』が人文書院から発刊されている。若い頃わたくしは一読して、はまった。実存主義はヒューマニズムであると論じられているがその論拠は忘れた。モラルの根拠をどこに求めるかという問題だと思う。
 今思い出した。個人のすべての行為を全人類的に普遍化する。すなわち道徳は実践行為を問われるが、何かしても全人類の行為とみなす。するとあなたは不道徳な事はできなくなる。たとえば吸い殻のポイ捨て、他人の家の前の公共道路に。こんな事が万人に認められたら迷惑この上ない。つまりあなたの一行為が全人類的に許容されるかどうか考えて、その行為をするかどうか決断する。これが無神論実存主義者のモラルである。だからヒューマニズムに反する事はできない。
 人間の本質は存在しない。あるとするなら、それは自由であるというのに感動した。サルトルは比喩を用いて論述する。ハサミは人が物を切るために生産された。しかし人間は何のためにも生産されていない。神は存在しないのだから。
 ここで反論が予想される。人間はその両親の遺伝子によって生まれたのではないかと。それは素質にすぎない。人には思考力とか意思とか理知性が備わっているので自由に生きられる。
 大部の書『存在と無』は若い頃通読したが判らなかった。存在論だが対自とか即自とか対他存在とかあれこれ論じる意義を見出せず。
 しかし彼の畢生の大著『弁証法的理性批判』があり、ここでは実存主義とマルクス主義が融合されているそうだ。彼は左翼で当時、イデオローグとして新左翼に支持されていた。
 最近では、一人の作家(フローベール)評伝評論で世界最長の作品『家の馬鹿息子』が大書店の専門書コーナーの書架を一角陣取っているのを見ると圧倒される、そのヴォリュームに彼の筆力に。彼はすべての事は言葉によって表現できると、どこかで書いていた記憶がわたくしにはある。真理かどうか判らないが同意したい。

 

現在の自分

2022年11月26日 21時31分16秒 | 歴史
 汝自身を知れとソクラテスは説いた。そう自分自身を知るべきだ、等身大の真実の。そこから自らの成功や名声が始まる。虚偽や自己欺瞞で生きていたらいつか破綻する。犯罪者に落ちぶれたりして、人生の遠回りになる。
 才能が無ければ努力でカバーするしかない。読書は貴重で自分だけでは得られない経験ができる、部分的で限定的で自己の受け取ったイメージで経験できる。歴史小説によってその時代に生きた体験ができる、あくまで想像上の。時代の真実は当時の一次史料によってさぐられるが、どれぐらい真実をとらえているか定かではない。
 人の歴史は経歴で、国の歴史は国史でその土地にも、会社にもあらゆる存在にその固有の歴史がある。だからどうなんだと問われると、その答えは過去の歴史から進歩的な未来を展望しようという事だ。
 しんどい事をどれだけ体験すれば自由に成れるのだ。それは考え方とその受け取り方によると、職場の同僚が言っていた。そうかもしれないが自分は未だに納得ゆかない。経済的土台が変わらなければ上部構造も変わらないとマルクス主義者は言うが、労働者はもっと給料が欲しい。経済的自由を得るために。物質的自由を得るためには。
 マルクスレーニン主義は破綻したが、毛沢東主義は中国共産党が国家を支配している限り有効である。現在の中国には政治的思想的自由がない。経済的自由は富豪や党幹部にはある。