私は以前からブログ記事をアップしては削除してきた。その記事の下書きが一部残っていて、再読して価値を有すると自認したので、推敲加筆して次に再掲してみる。
もの、漢字で書けば物。こと、漢字では事。二つ合わせて物事という言葉がある。物事の意味は事に属するだろう。事象の意味に近い。情報自体は事だろう。知識もアイデアも事に属する。出来事は文字どおり事だ。
一方、ものは物質物体を意味する。事物という言葉は事と物の両方を指しているのか。それとも物に属するのか。広辞苑をひいたら、①事と物と。ものごと。②[法]事件と目的物と。の意味が載っていた。
分析哲学の分析とは言語を分析する哲学で私はその入門書や専門書を一冊も読んでいないが、英国の有名な哲学者ラッセルの主張であると、大書店内立ち読みで知った。
哲学は言語を分析する学問だという事だが、哲学を論じる言語はその意味を厳格に定立して使用しなければならないはずだ。
書き言葉と日常会話などの話し言葉では事情が違うが、言葉を用いる以上、ものとことは判別して考えたい。言語で思考するのであれば、ものとことは判別して考えなければいけなくなる。PC用語ではソフトウェア(事)とハードウェア(物)と区別されている。
経済の要素はカネ、人、物の3つがあげられるが、ここに情報とか知識とかイベントとか事の要素も付加されるべきではないか。経済の4要素としてカネ、物、人、事を挙げたい。サービスは物を媒介しての人と人との関係だ。イベントは人と人の関わり合い、人と物との関わり合いになる。
さてここで哲学テーマに戻るが、現在の世界に起きている特殊事象(例えばウクライナ防衛戦争)を分析するには、現実的かつ理性的、そしてできうる限り総合的にアプローチして分析する必要がある。そうすれば客観的に最接近できる。が、それはあくまでその対象である特殊事象の部分にすぎないということ(分析材料、情報が限定的だから)を前提に認識しておくべきだ。そのまだ大前提に分析主体者が確固たる理念を有しているのはいうまでもない。