アマチュア哲学者で

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ヘーゲル哲学雑感

2023年02月05日 23時36分27秒 | 哲学
 哲学は英語でフィロソフィーといい、原語の意味は知を愛するという事で
難しい事ではない。難しくしているのは翻訳だと思う。英語ならまだしも、ドイツ語フランス語では理解できる日本語に移し変えられてないような気がする。
 翻訳者の力量が問われるのだが、日常的日本語に翻訳できているのか問われる。当然、明確性、無謬性、一義性が要求される。
 さて本題のヘーゲルだが筆者はテキストとして有斐閣新書の「論理学入門」を推奨したい。これは形式論理学ではなく弁証法的論理が説かれている。弁証法とは正と反の対立矛盾の統一である。それを合といい、止揚されてより高い段階の進歩発展につながる。その運動が永遠に続く。
 運動は絶対で静止は相対である。人類が生息している地球は自転公転しているし、太陽系は銀河系の渦の端で回転しているし、銀河系宇宙は大宇宙の膨張に連れて動いている。
 人間の観念も自動展開(運動)する。筆者はヘーゲルの「精神現象学」を長谷川宏翻訳本で二三十年も前、通読したがまあまあの印象しかない。あのぶ厚い大部の本はアマゾンマーケットプレイスで十何年も前に売りとばしてしまった。
 現在、講談社選書の同氏による「入門」を通読中だ。同氏はヘーゲル翻訳で一線を画した人だが自分はまだ不満足だ。事と物の判別ができていない。こととものをひらがなで逃げている。ヘーゲル叙述の意識の展開(もしくは運動)を旅と表現している。意識自体は旅しない。宿泊や旅館で食事しない。旅するのは人間である。
 なかなかヘーゲル哲学の核心に接近できない。実は筆者はマルクス主義からヘーゲルにたち戻っている。マルクスはヘーゲル左派とされている。マルクスはヘーゲルの観念論を経済学によって唯物論にした。だから元々ヘーゲル主義なのだ。
 マルクス主義はさておいて、ヘーゲルなのだが合理主義哲学の祖とされている。
「理性とは物の世界のすべてにゆきわたっているという意識の確信である」だから存在するすべては合理的である。
 合理的だから存在している。非合理に成ると存在しなくなる。これも弁証法で人や物や事(制度やシステム)にあてはまる。
 まだまだ書ききれていない。弁証法の統一発展について。小論理学では無から有に発展してゆき、本質、概念と発展し絶対理念で終わる。この観念イデアが自己運動=発展してゆく経過が記述される。
 

 

死の理論

2023年01月06日 20時51分45秒 | 哲学
 自分の死について、自分の死後自分はどうなるのだ。永遠の無に違いない。これが無神論者の結論だ。
 だから恐ろしい、一般人にとっては。だから宗教や未来科学に救いを求める。永遠に生きたい、不老不死で。これは何千年も昔から秦の始皇帝の願望だった。
 中には現状に悲観して自殺願望の人もいる。そんな人に対して言いたい。死んだらええやん。だけど無関係の他者を巻き添えにするなと。自殺願望はおかしい。生物の生存本能に反している。たぶん精神の病気か社会知能的にアホかもしれない。他殺は絶対ダメだが自殺は許容される。なぜなら他者に殺されたくないし自分は死にたくない。
 キリスト教では自殺は禁じられている。しかしこの書ではおおっぴらに自殺を許容した。その論拠は忘れたが賛成である。自分も死にたい時がしばしば訪れるが死ねなかった。生存本能があるから死ねない。これを仏教では煩悩という。性的生殖本能も残っていて死ねなかった。
 この大部の書を通読した結果、漠然とした死の恐怖から逃れることができた。人間の死を哲学的に考察すればそうなる。未来科学に永遠の不老不死実現を期待しよう。
 

サルトル雑感

2022年11月27日 21時10分26秒 | 哲学
 フランスの有名な作家、哲学者。無神論の実存主義を説いた。これに関してはニーチェの後継者か。あの神は死んだと唱えて反キリスト教の論陣を張った。この人は最後は狂気を発病して死んでいるので、全然尊敬できない哲学者だが、一般受けは至極良い。
 わたくしの尊敬するサルトルは斜視だった、生前写真で見る限り。本人はかなりルックスでコンプレックスを生涯もっていたと推測される。
 かれは大文学者であり、『自由への道』『嘔吐』などの作品を発表してノーベル文学賞を授与されたが断った。随分過去の事でわたくしはその理由を知らない。長いノーベル賞の歴史の中で受賞を断ったのはあと一人しかいないはずだ。かれはノーベル文学賞の権威を否定したことになる。スケールは小さいが日本では大岡昇平氏が文化勲章を辞退している、同氏の作品『俘虜記』からして納得できる。
 あの反権力反権威で知られるボブ ディランでも受けている。現代のどこかの国の訳の判らん小説家の態度と大違いだ。
 さて本題の哲学家としてのサルトルだが、実存主義で一時代を築いた。その入門書として『実存主義とは何か』が人文書院から発刊されている。若い頃わたくしは一読して、はまった。実存主義はヒューマニズムであると論じられているがその論拠は忘れた。モラルの根拠をどこに求めるかという問題だと思う。
 今思い出した。個人のすべての行為を全人類的に普遍化する。すなわち道徳は実践行為を問われるが、何かしても全人類の行為とみなす。するとあなたは不道徳な事はできなくなる。たとえば吸い殻のポイ捨て、他人の家の前の公共道路に。こんな事が万人に認められたら迷惑この上ない。つまりあなたの一行為が全人類的に許容されるかどうか考えて、その行為をするかどうか決断する。これが無神論実存主義者のモラルである。だからヒューマニズムに反する事はできない。
 人間の本質は存在しない。あるとするなら、それは自由であるというのに感動した。サルトルは比喩を用いて論述する。ハサミは人が物を切るために生産された。しかし人間は何のためにも生産されていない。神は存在しないのだから。
 ここで反論が予想される。人間はその両親の遺伝子によって生まれたのではないかと。それは素質にすぎない。人には思考力とか意思とか理知性が備わっているので自由に生きられる。
 大部の書『存在と無』は若い頃通読したが判らなかった。存在論だが対自とか即自とか対他存在とかあれこれ論じる意義を見出せず。
 しかし彼の畢生の大著『弁証法的理性批判』があり、ここでは実存主義とマルクス主義が融合されているそうだ。彼は左翼で当時、イデオローグとして新左翼に支持されていた。
 最近では、一人の作家(フローベール)評伝評論で世界最長の作品『家の馬鹿息子』が大書店の専門書コーナーの書架を一角陣取っているのを見ると圧倒される、そのヴォリュームに彼の筆力に。彼はすべての事は言葉によって表現できると、どこかで書いていた記憶がわたくしにはある。真理かどうか判らないが同意したい。