中高年からの永易流紀州釣りを極める?「いけしゅ」のクロダイな日記(仮)

合唱,Win95,Webページ,MIDI,PC自作を経て黒鯛の紀州釣りで団子団酒田支部を名乗る男の放談(訳ワカラン)

ピアノ

2005年03月15日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
最近,多忙すぎて音楽を聴く気分にも,する気分にもなれないでいた。
そして,やっと迎えた年末休日,たまたま起きてテレビのスイッチを入れたら,偶然に「ピアノ再生工房の一年・音色が紡ぐ家族の肖像」という番組を放送していた。
職人の帽子からカ●イ楽器の工房とわかる。

職人は,ピアノ線を磨き,ハンマーのばらつきを修正し,外装の傷を修復する。
新品のように磨かれ,音も再生されたピアノを迎えてくれる持ち主に心から喜ばれることが,職人にとっての至上の生きがいであるという。
そして,再生されたピアノの状態は完璧だともいう。

ひとりの初老の婦人は,中卒で東京に出て就職し,たまたま帰宅途中の高台の大きな家から聞こえてきた「銀波」という曲に足を止める。
そして,偶然にも,ふるさとの海を思い出したという。
聴いたこともないピアノ曲に心をひかれた彼女は,子供を持ち,ピアノ購入のため,再度仕事に出る。
2年後,念願のピアノを購入,娘にピアノを習わせる。
子供の巣立った今,彼女はリュウマチの手をいたわりながら,再生されたピアノを毎日弾いている。
さらに,夢でもあった「銀波」を1小節ずつ習い始めた。
一生かかるかもしれない,と言いながら,毎日弾いている。

音楽家を志望しつつ夢果たせなかった男は,会社を引退後,毎日のようにピアノを弾いた。
そのピアノは,死の直前に壊れてしまう。
妻と相談のうえ,ピアノを再生工房に預けたが,帰ってきたのは四十九日も近い日のことだった。
妻は,以前のように修理されたピアノを見て,夫が今でも弾いているようだという。

ひとりの主婦は,阪神大震災で壊れた思い出のピアノを工房に出した。
子供の頃,芦屋市に引越し,"お嬢さまたち"の中で友達もできず,発散できるものもない彼女に,両親が買い与えたピアノだ。
彼女は,学校から帰ると,ひたすらピアノに向っていた。
そのピアノも,彼女の高校進学,そして友達ができたことを機に,次第に忘れられていく。
大震災で彼女の家とともにピアノは壊れ,しばらく実家に預けられていたが,新築時点で家族の思い出のたくさんつまったピアノを修理することになった。
そして,ピアノは娘の練習用として再生された。

実は,小2の終わりごろ,我が家にも突然にピアノはやってきた。
カ●イ楽器製である。
私の姉(次姉というべきか)が,高校生となり保母を目指すにあたり,必須科目であるピアノを習い出したのだ。
当時,聴いた曲は全てバイエルだったのだろうが,私はたちまちピアノの虜になり,小3の頃には父にピアノを習いたいと言い出したのだ。

当時,父は男の子にピアノを習わせるのはどうかと悩んだらしく,私の担任の教師に相談している。
教師は,父が習うのと勘違いしたらしく「40を過ぎてもしたいことはやれば良い」と言ったそうだ。

私は幼稚園の頃,かの東京オリンピックでの入場行進で初めてマーチを聴き,何とも言えない感動を覚え,いずれはこんな曲を演奏してみたい,と思うようになっていた。
事実,中学生になった私は,トランペットを吹くことになるのだが,それはずっと後の話である。

話を戻すが,当時の私は,ピアノが何物かも知らず,ひたすら姉の弾くバイエルに傾倒していたように思う。
たまたま通ったピアノ教室の先生が国立音大を首席で卒業,という地元では有名な人だったため,たかがバイエルでも,随分と音楽的に教えていただいた。
特に,緊張しつつも楽しかったのは,30番台の先生との連弾である。
私のつたない音色を,先生の音楽性豊かな演奏がすっぽりと包んでくれる。
あっという間にそのあたりの曲は通りすぎてしまうのだが,機会があれば,また演奏させていただきたいと思う。

私は,今でも,音楽をすることも聴くことも,そして考えることも好きなのだが,地道に練習する,というのは大の苦手である。
ピアノについても例外ではなく,小5の頃には,ついつい練習をサボってしまう。
さらに,ひょんな理由(というか罰だったのだが)から剣道をやることになってからは,練習イコール教室行きという状況となり,私のピアノ教室通いも間もなく終わってしまう。

後年,私はコーラスを続け,特に指揮者などという大それた役割を担うことになった時,何となくピアノをやめてしまった小学生時代を大いに後悔することとなるのである。

さて,やがて私の,というか我が家のピアノと私との間にも,別れの時が来た。
姉が保育専門学校に上がり,私は好きな時に自由にピアノを触れる立場になり,彼女が卒業し幼稚園に勤務,私ともある程度対等に音楽をやるようになっていたのだが,それも長くは続かず,私の高校卒業時に彼女の結婚により嫁入り道具として我が家を去って行ったのである。
恥ずかしい話だが,私は改めて,ピアノが私の,あるいは家の所有物ではなかったことを痛切に知ることとなった。

10年余りの後,私は家族とともに仙台に転勤する。
突然の環境変化で,休日にやることも少なく,私はついに2代目のピアノに触手を伸ばす。
こだわりのある私は,やはりカ●イ楽器製を選んでしまう。
オーク材を用いた家具調で,輸出用のピアノだった。
アップライトで背も低く,格別に良い音を醸すわけではないが,オーダーメイドに近い味わいに惚れてしまい,借財をしてしまう。

大好きなユーミンを弾き語ったり,コーラスの練習に使ったりと,初めは彼女との対話も多かった。
あまりの騒音に,近所から苦情が来たこともしばしばだった。
調律も定期的にしていたし,その後の3度の引越しでも,ピアノには別個の運送業者を使うなど,破格の扱いをしてきた。
さらに,新築時には,フローリングも彼女と同じ材料でコーディネートした。

今,彼女はきっと泣いている。
私はコーラスの現役を退き,音楽と言えばDTM,というかMIDIのみ,つまり音楽を含めた趣味としてパソコンに重きを置いているからである。
さらには,会社でも職責が上がり,さらには地域活動と,彼女と"対話"する機会は激減したのである。
埃にまみれ,子供たちのおもちゃを置かれて,彼女はきっと泣いている。

平成12年1月17日の手記より
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