今日の一貫

久しぶりにNHK小高氏と会った MYU事業構想学部 後期入試

雪。宮城大学に奉職してから、入試と雪がかち合ったのははじめて。
3月中旬というのに大雪。
1センチは積もったのではないか?

遅れてくる可能性のある受験生の対応への確認。

ところで先日、偶然小高氏と仙台駅新幹線のホームで会った。
放送大学の仕事で東北大の人を訪ねて帰るところという。
NHK時代にラジオセンターでよく仕事を一緒にした。
40代の頃だ。
私の里山指向を拡大してくれたのは、彼等だった。
かなり自由に番組で発言させてもらった。
ここから農村政策を展開していった記憶がある。

いまから20年ほど前、農業経済学は岐路に立っていて(いまでもそうだが)、まじめな学者ほど自分の専門をどの様に設定するかに悩んでいた(未だに悩んでない方もいるにはいるようだが)。

その後多くは食料問題にシフトしていったといっていいだろう。
食料こそ、関心を持つ人が多い、国民的課題と考えたからであろう。
フードシステム学会を作った高橋正郎氏がその典型だろうし、「コンビニ、ファミレス、回転寿司」を上梓したNHK解説委員、中村靖彦氏もその口だろう。良い食材を伝える会や食育学会を作ったのはその表れといっていいが、それはそれで大事なことだろう。


こうした中で、私は農政学や流通問題に特化していった。農村での人々の意思決定の仕方と、消費社会の変化に興味を持っていた。
あとになって分かるのだが、流通と農村をつなぐのは、「成熟社会化」というコンセプトだった。
農村居住や田舎暮らしも調べまくった。その機会を作ってくれたのが、NHKラジオセンターの小高さんや西村さんだった。取材もさせてもらった。また、週刊朝日から論座に移った古館さんもそんな一人だった。

おかげで、農村問題や地域問題をこのころ新たな視点で書きまくったりしゃべりまくったのを覚えている。宮本亜門さんが聞き手だったこともあったし、アグネスチャンと英語で話したこともあった。

農業経営者問題や農村地域問題など、農村から離れなかったのが私のスタンスだったろう。食料に特化すると、どうも農村から離れる感があるし、これは学者としての良心にかけて言うが、食料を相手にするとどこか怪しげとなる。

農村や地域や人々の生活がいいのは、地に足を着けているからだろう。
社会のバランスもこうした地域や自然にはある。
西村、小高と久しぶりに、いっぱいやろうと思う。

コメント一覧

武 正志
「農」を通じた社会哲学構築の可能性について
 最近の大泉先生のブログへの書込みが私ばかりになってしまい、なんとなく「ブログ荒らし」です。反省し、今回を最後にしばらくやめようと思います。最後に、「農」に取り組む中で、私が大切だと考えることをとりとめなくまとめました。
○基本的な視座
1 「人と人とのつながり」を軸とした農業経営論の構築
2 「農」と言えるかどうか?
3 農政=「農制」の再構築
 1ですが、私の好きな酒豪・かつての先輩から聞いた言葉をヒントに考えました。P・ドラッカーを援用するまでもなく、商品や貨幣に焦点をあてるのではなく、「人」に焦点をあてた農業経営論の必要性、ということです(ここでいう「人」とは、プロ農家・集団だけではありません)。情報科学の世界では、コミュニケーションを基礎単位とした云々、と論じられる話でしょう。また、組織は社会発展や経営の手段である(目的ではない)、という点も強調しておきたいと思います。
 2ですが、都知事選にからめたジョークでもないですが、今の日本で「「農」と言える日本」などと言っても、大多数の国民は「?」でしょう。作家の立松和平氏の言葉を借りると、「21世紀の日本国民は、何らかのかたちで主体的に「農」と関わる」ということ、これが理想と考えます。
 3ですが、制度も政策も所詮不完全な人間のこしらえ物に過ぎません。S・ヴェブレンを援用すれば、(農の)「制度」を相対化するということです。
○いくつかのキーワード
1 農業政策における「意識の結果」と「行為の結果」
2 「食育」に補助線を引く-食・「農」・育の三組構造-
3 「環境」と「持続可能性」
 1ですが、「構造改革」も「多面的機能」も「米の生産調整」も、「(農業者・政策当局の)意識の結果」ではなく、「(営農という)行為の結果」ではないか、ということです。言葉はF・A・ハイエクからの援用です。
 2ですが、「食育」が栄養学プロパーにならないように要注意、ということです。「農」の補助線を引くことによってのみ、「食と農」「農と育」といった人づくりの視点が得られるでしょう。また、食農教育を起点にした地域食料自給率算定は可能でしょうか?学校給食納品論とはやや異なり、算定式の問題ですが。
 3 1と関連しますが、農業経済行動のプレイヤー(農業者・政策当局)は、市場(価格)・顧客やコスト・リスク等のほか、どこに焦点をあてるべきか?ということです。「「私」とは、私と私の環境である」(哲学者オルテガ・イ・ガセットの援用)
○経済学批判
1 (マル経を含めた)近代経済学の誤り-「快楽と苦痛の心理学」「効用・利潤の極大化」「計量可能性絶対主義」
2 人間の社会=市場社会ではない-経済人類学の示唆-
 1ですが、(2の経済行為態様の視点も含めて)竹中平蔵氏が象徴するように、間違った前提に基づいて間違った議論をいまだに続けている人たちが「エコノミスト」と呼ばれる集団であるということです。この人たちは、いつまでたっても人と社会が見えない(意識に上らない)でしょう。
 2 K・ポランニー、日本では玉野井芳郎・栗本慎一郎氏らが著名ですが、経済人類学では、社会における経済行為の態様は「市場交換」だけでなく、「互酬」(贈与・義援等)と「再分配」(税等)の3つがあるとしています。ポランニーがハイエクらを批判して「時代遅れの市場志向」を論じたことは、留意するべきでしょう。
○グローバル化社会における心がまえ
1 「損して得とれ」「負けるが勝ち」の美学
2 「パブリック・マインド」(公共精神)の経済的含意は「ともに 克つ」ということ
3 「心の所得」と「貨幣所得」の両立
4 「農」の大切さはどう伝えればいいのか?
 現代日本の社会病理とは、「個人の絶対的な自己決定」という勘違いと「孤独な「得」の極大化(損得計算)」(意識の結果)という偽の個人主義の浸透であり、その結果日本の社会全体が少子化=無意識の集団自殺(行為の結果)に向かっているように思われます。自分だけ得しようという心を抑えて人のためになることをまず望むこと、お金は人生において手段にすぎず最優先の価値とはなり得ないこと、結婚し、子供を育てることは苦労も多いがすばらしいこと、等々平凡な(現代ではある意味非凡な)事柄を伝えていくのが重要でしょう。「農」の大切さの伝え方は、「狂った人間だけが頭で考える」という魂の心理学者・ユングの自伝の言葉がヒントと思います。一般論としては家庭においては「背中」で伝える、家庭外では「失敗談・過去の悪さ」を通じて伝えることでしょうか。若者の心性は、不安・孤独と無根拠な自信が表裏一体という特徴を持ちます。
 以上です。度重なる暴言の数々、すみませんでした。失礼します。









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