今日の一貫

未来の人材確保に今の教育システムは機能するか?「関係性の不全」をもたらした戦後教育

8日、仙台で教育フォーラム。
基調講演は、下村衆議院議員。教育基本法制定と関連があるのか、下村氏は、文部科学大臣政務官。文教族なのだろう。

①テーマは、「活きる力を育む教育は実践されているのか」で、基調講演は、「されてない」と結論づけた上で、愛国心の必要性を、家族愛や地域愛との関連・脈絡で話したもの。
文科省が提唱した「生きる力と確かな学力」学校5日制、総合学習の見直し、等が議論になるのか?
パネルディスカッションは、下村さんに加え、大泉、黒川宮城県教育庁課長、庄子仙台市教育委員会課長、それに土井衆議院議員。

②戦後の民主主義教育、個人主義の教育は何をもたらしたか?私は家族や地域、社会との「関係形成の不全」をもたらしたと思っている。○○県人としての、日本人としてのアイデンティティを欠如した教育が行われたのではないかと考えている。

戦後民主主義教育のコアコンセプトとしてあった、個人主義だが、おそらく、戦後教育が唱えた、個人主義も民主主義も、実はその中身を関係者はよくわからず観念的な教育を行なったのではなかったか?
個の自立、自分探し、民主教育という戦後教育の基本コンセプトが出てくると、私には、着地点のない浮遊した個人主義がイメージされる。現実に17から9年生まれの我が友人達にはこうした社会不適応者が実多い。しかもやっかいなのは彼らが何か抽象的世界を持っており、根拠のない自信を持っていて、社会に対し、これまたかなり教条的な批判精神を持っていることだ。

「関係性を持った個人」(大泉一貫著「個の時代のむらと農」195ページ)という設定ができなかったのだろう。家族との関係を持った個人、地域との関係を持った個人、おそらくそれが社会を構成する個人の基礎単位なのだろう。
それがなくなると、無性格な「浮遊した個」しかなくなってしまう。

だが、戦後民主教育はその「無性格な個」を社会に作ろうとしたのではないか?
そこには、社会性や歴史教育が必要だったのだが、ここにまたパラドックスがあって、「社会への関心を持て」教育を声高に言っていた人たちは、マルクス史観を持つ人たちだった。それが現実離れした社会観の教育であり、歴史観の教育だと明らかになるのに、個人的には習い始めて10年ぐらい、また社会的には、戦後50年近くかかってしまったのではないだろうか?

その社会観以外は、戦争史観だとか、非平和史観だとか攻撃され、結局、私たちは社会性歴史観をうざったいものに感じるようになってしまったのではないか?

観念的な個人主義の中で、私たちは、様々なものとの関係に不全を来すようになったというのが、私の持論である。

家族との関係、地域との関係、社会との関係、歴史との関係、自然との関係、等々私たち個人が個人として認識して良き関係を作っておかなければならない絆は実に多いはずだ。それらを個人の内なるものとして形成するのが教育であろう。

ベースは愛であり、信頼である。
その関係を市場主義的なお客と供給者の関係に一元化するのは、教育が考える「関係性の保全」ではない。儲け、効率、市場といったコンセプトは社会の基本原理を作るものではあっても、愛や信頼や幸せといった人間社会の根底を教える教育のコンセプトではないように思う。


③家族や地域における人々の関係を作ろうとしても、その基本となる家族が崩壊している現実がある。

ところで戦後教育の問題は、教育界、つまり日教組や文部省の問題として語られることがいい。確かにそれもあろう。教育現場での荒廃は確かに目を覆うようなことがあるのも良く聞くところである。しかしその様な教育システムは、当時の東西冷戦下での社会システムの反映でしかなかったのではないか?
一方の社会主義的な人々が、教壇に層をなして残ったとしても、当時から見れば何の不思議でもない。問題は他方の保守が、それと均衡する形で根を張っていなかったことかもしれない。

社会システムの反映であって、一人教育が行ってきた故の問題ではないということは、教育は実はそれほど力のあるものではない、ということの裏返しでもある。だから、今日の「関係性のの不全」を是正する教育を、といっても、その主体であるべき家族が既に崩壊しているという現実がある。
これは食の世界ではよく言われるところのものである。

これをどうするか?
食育だとなるのだが、、、
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