昨日、京大本部構内、京大会館で、三村浩史先生(京大名誉教授)の喜寿(数えで77歳)お祝いパーティ行事があり、参加した。1970年から1972年の2年間、三村研究室(当時、三村先生は助教授)の助手をしていたためである。(私の学生、院生時代は、西山研究室所属、三村先生は助手)
(三村さんは「花の(昭和)32年卆、34年修了組」と言われるクラスの一人で、同期生に、住田昌二さん(大阪市大名誉教授)、亡くなられた服部千之さん(名工大)、湯川利和さん(奈良女子大)、黒川紀章さん(建築家)などがおられる。)
夕方から京大会館でのパーティの前に色々大幅に変わった本部構内を散策し、向かいの元・教養部(吉田分校)へも一寸寄った。時計台中の「京大サロン」で待ち合わせたが、15時からホールで例の「IPS細胞研究棟」完成披露があるらしく、我々は「追い出された」。
時計台前の楠の木(楠木学問=大器晩成型学問を象徴)を背景に記念撮影後、構内散策、時計台裏は昔、法経一番教室(学生大会や「団交」のあったところ)であったが、なくなって、時計台裏はガラスの近代的建築になってしまった。
工学部本部(事務室もある)横を通り、電気工学棟、昔の赤レンガ建物の入り口部分のみ保存してコンクリート建築に貼り付けている。土木工学の赤レンガ建築は一棟そっくり残っている。我が建築棟は電気や土木の「明治建築」ではなく初代教授の武田五一設計の「大正建築」だ。今は、ほぼ全部「桂キャンパス」に移って「空家」になっているようだ。勿体ないと思う。
工業化学棟、図書館横を通って正門から出て向かいの昔の教養部構内へ、正面の建物の屋根に旧制・三高以来の「自由の鐘」が見えているが、我々が2回生の頃(1961年頃)には、あったかどうか覚えていない。
ぶらぶら京大会館まで歩いて18時からパーティ、三村先生と晴子夫人が入場・着席、三村研究室卒業・修了の35歳から70歳近くの人まで100人を越える参加、若い方では女性が増え、留学した外国人も多くなる。時代の流れだろう。私は、学生・院生として6年、助手で4年(三村研のあと2年は西山研)計10年、京大にいたが、昔になるため50歳以下は殆ど面識がない。特に大学・高専等以外に勤めている人の顔は殆ど知らない。でも同窓なので色々名刺を交換、中央・地方のお役人、ゼネコン管理職、設計事務所・コンサル経営など色々活躍しているな、と思った。
但し、いきおい歓談は高齢者に向いてしまう。三村先生は、お元気であるが、何か病院通いもされているようだ。卒業・修了生の山川元志君が、「開発」した「遠赤外線暖房機」には重宝している、と三村先生が言われていた。
奥さんは、学生時代以来、「合唱団交流」で、「京大男性合唱団」OBの的場輝佳さん(私と同僚で良く知っている奈良女子大名誉教授、食品学、調理学)と知り合いで一緒にロシアにも(合唱旅行に)行かれたとのこと、初めて聞いた。
同年代前後の人達とは、少し体調の「自己管理」、「地域人間」への転換などを話題とした。古い駄洒落などを少し言ってみたら、横で聞いていた「若い人たち」に一寸「受けた」のは面白かった。未だ「賞味期限内」だな、と思ったが・・・。
まあ、同ゼミ出身者は、主宰教授を「頭」とする一種の「村落共同体」みたいなものかな、という感慨が浮かんだ。20時半頃に解散、一寸「二次会」に行く元気がなく、そのまま、帰った。帰りの電車で、貰った小冊子を見ると、三村夫妻は、一緒に旅行したり、イベントに参加したときには、一緒に俳句を詠んでいることが分かった。共に吟行しておられる。羨ましいな、と思った。
(三村さんは「花の(昭和)32年卆、34年修了組」と言われるクラスの一人で、同期生に、住田昌二さん(大阪市大名誉教授)、亡くなられた服部千之さん(名工大)、湯川利和さん(奈良女子大)、黒川紀章さん(建築家)などがおられる。)
夕方から京大会館でのパーティの前に色々大幅に変わった本部構内を散策し、向かいの元・教養部(吉田分校)へも一寸寄った。時計台中の「京大サロン」で待ち合わせたが、15時からホールで例の「IPS細胞研究棟」完成披露があるらしく、我々は「追い出された」。
時計台前の楠の木(楠木学問=大器晩成型学問を象徴)を背景に記念撮影後、構内散策、時計台裏は昔、法経一番教室(学生大会や「団交」のあったところ)であったが、なくなって、時計台裏はガラスの近代的建築になってしまった。
工学部本部(事務室もある)横を通り、電気工学棟、昔の赤レンガ建物の入り口部分のみ保存してコンクリート建築に貼り付けている。土木工学の赤レンガ建築は一棟そっくり残っている。我が建築棟は電気や土木の「明治建築」ではなく初代教授の武田五一設計の「大正建築」だ。今は、ほぼ全部「桂キャンパス」に移って「空家」になっているようだ。勿体ないと思う。
工業化学棟、図書館横を通って正門から出て向かいの昔の教養部構内へ、正面の建物の屋根に旧制・三高以来の「自由の鐘」が見えているが、我々が2回生の頃(1961年頃)には、あったかどうか覚えていない。
ぶらぶら京大会館まで歩いて18時からパーティ、三村先生と晴子夫人が入場・着席、三村研究室卒業・修了の35歳から70歳近くの人まで100人を越える参加、若い方では女性が増え、留学した外国人も多くなる。時代の流れだろう。私は、学生・院生として6年、助手で4年(三村研のあと2年は西山研)計10年、京大にいたが、昔になるため50歳以下は殆ど面識がない。特に大学・高専等以外に勤めている人の顔は殆ど知らない。でも同窓なので色々名刺を交換、中央・地方のお役人、ゼネコン管理職、設計事務所・コンサル経営など色々活躍しているな、と思った。
但し、いきおい歓談は高齢者に向いてしまう。三村先生は、お元気であるが、何か病院通いもされているようだ。卒業・修了生の山川元志君が、「開発」した「遠赤外線暖房機」には重宝している、と三村先生が言われていた。
奥さんは、学生時代以来、「合唱団交流」で、「京大男性合唱団」OBの的場輝佳さん(私と同僚で良く知っている奈良女子大名誉教授、食品学、調理学)と知り合いで一緒にロシアにも(合唱旅行に)行かれたとのこと、初めて聞いた。
同年代前後の人達とは、少し体調の「自己管理」、「地域人間」への転換などを話題とした。古い駄洒落などを少し言ってみたら、横で聞いていた「若い人たち」に一寸「受けた」のは面白かった。未だ「賞味期限内」だな、と思ったが・・・。
まあ、同ゼミ出身者は、主宰教授を「頭」とする一種の「村落共同体」みたいなものかな、という感慨が浮かんだ。20時半頃に解散、一寸「二次会」に行く元気がなく、そのまま、帰った。帰りの電車で、貰った小冊子を見ると、三村夫妻は、一緒に旅行したり、イベントに参加したときには、一緒に俳句を詠んでいることが分かった。共に吟行しておられる。羨ましいな、と思った。
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