菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村の名句である。
遡ること万葉集時代 当時はまだ俳諧はなく、和歌であるが柿本人麻呂作に
東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えてかえりみすれば月傾ぶきぬ
がある。これは東から太陽が昇ろうとしており、振り返ってみると月が沈もうとしているなあと素直には早朝の雄大な風景を歌っているように思える。
ところが白川静さん(漢字学者)は別の意味をかぎ取っておられる。
まず、何故、持統天皇は孫の軽皇子を、この時期に安騎野に柿本人麻呂等を伴わせて宿らせたか、であるが、亡くなった子の草壁皇子の霊を孫の軽皇子に受けさせて「競争者」多数の中で次期天皇の地位を確実にしようとたくらんだのではないか、としている。
そこで、先の短歌の「東の野に炎(かぎろい)の立つ」は、軽皇子が現れるのを意味し、「月かたぶきぬ」は草壁皇子が消えていくことを表し、この二者の強い「つながり」を意味している、とのことのようだ。つまり、軽皇子は親の草壁皇子を継いで次の天皇になるべく「東より昇っている」というのだ。
誠に意味深と言うべきだ。
じゃあ、同じように蕪村の句の「裏」を読むとどうなるか、
「月」は蕪村を表し、「日」は芭蕉を表している、と言えるのではないか。まあ「自分」は「日」である芭蕉の後塵を拝する「月」と謙遜している。しかし、「日」は沈もうとしており「月」は昇ろうとしているのだ。
まあ文字面のことでは「月は東に日は西に」は「月は東から出ようとしており、日は西に沈もうとしている」という夕方の情景であるが、「月は東に日は西に」というと、両方「沈むのかなあ」という印象も受ける。天文学的にはありえないのであるが・・・。(蛇足「月は東から日は西へ」なら動きがはっきりするが俳諧にならないのかな・・・)
遡ること万葉集時代 当時はまだ俳諧はなく、和歌であるが柿本人麻呂作に
東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えてかえりみすれば月傾ぶきぬ
がある。これは東から太陽が昇ろうとしており、振り返ってみると月が沈もうとしているなあと素直には早朝の雄大な風景を歌っているように思える。
ところが白川静さん(漢字学者)は別の意味をかぎ取っておられる。
まず、何故、持統天皇は孫の軽皇子を、この時期に安騎野に柿本人麻呂等を伴わせて宿らせたか、であるが、亡くなった子の草壁皇子の霊を孫の軽皇子に受けさせて「競争者」多数の中で次期天皇の地位を確実にしようとたくらんだのではないか、としている。
そこで、先の短歌の「東の野に炎(かぎろい)の立つ」は、軽皇子が現れるのを意味し、「月かたぶきぬ」は草壁皇子が消えていくことを表し、この二者の強い「つながり」を意味している、とのことのようだ。つまり、軽皇子は親の草壁皇子を継いで次の天皇になるべく「東より昇っている」というのだ。
誠に意味深と言うべきだ。
じゃあ、同じように蕪村の句の「裏」を読むとどうなるか、
「月」は蕪村を表し、「日」は芭蕉を表している、と言えるのではないか。まあ「自分」は「日」である芭蕉の後塵を拝する「月」と謙遜している。しかし、「日」は沈もうとしており「月」は昇ろうとしているのだ。
まあ文字面のことでは「月は東に日は西に」は「月は東から出ようとしており、日は西に沈もうとしている」という夕方の情景であるが、「月は東に日は西に」というと、両方「沈むのかなあ」という印象も受ける。天文学的にはありえないのであるが・・・。(蛇足「月は東から日は西へ」なら動きがはっきりするが俳諧にならないのかな・・・)
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